うっちいの音楽箱!特別企画『もっと!MOZART』

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ザルツブルク旧市街

シュターツ橋から望むザルツブルク旧市街。流れる川はザルツァッハ河。中央上部にそびえるのがホーエンザルツブルク城である。

旅はさらに続く。
バイエルンの都ミュンヘン、レオポルドの故郷アウグスブルク、大学都市ハイデルベルク、マンハイム。 そしてパリ、ロンドン。

馬車と宿泊の毎日。モーツァルトの身長が伸び悩んだのは、幼い頃のこの生活が原因であるという説もあるほどだ。

革命前夜のパリではヴェルサイユ宮殿での演奏が実現し、晩餐会にまで招待される。 産業革命で市民の力が強まったロンドンでは、 公開演奏会で思わぬ動員。レオポルドは驚くべき収入を得た。

ここで天才は一人の人物と出会う。
大バッハの子、クリスティアン・バッハである。彼はヴォルフガングにイタリア音楽の様式を教える。当時の音楽の主流はイタリアにあったのだ。 天才は、天才の息子から思わぬ知的財産を授かることになる。

モーツァルトの短い生涯で、彼に音楽教育を施した人間は実に少ない。幼い頃は父レオポルド、そしてその後はこのクリスティアン、そしてマルティーニ神父。 彼は、「俺くらい音楽の勉強をした奴ぁ、ほかにはいないね。ハハハ・・・。」と豪語しているが、そのほとんどは独学であったと言ってもよい。対位法以外の作曲法は、 ほとんど生まれつきに備わっていたと言っても過言ではないのだ。


J.S.BACH

クリスティアン・バッハの父で大作曲家のヨハン・セバスティアン・バッハ。バロックと対位法を完成させた、 音楽史上、最も重要な作曲家の一人。


天然痘の流行を経てウィーンに戻ったヴォルフガングはもう12歳。 ウィーンの作曲家からは、もはや「神童」ではなく「恐るべきライバル」として認識された。
事実、最初のオペラ・ブッファ「見てくれの馬鹿娘」は、妨害工作により上演が実現されなかった。

しかし、世間を知らずに育ったヴォルフガングにはなんのことだかわからない。彼はただ、世界で最高のぼくの音楽が上演されないのは、 人々にとって不幸なことだ、ぐらいにしか認識していないのである。ウィーンで彼は、オペラのほかに数曲の交響曲、「孤児院ミサ」などを完成させている。

年明けの1769年1月に、一家はザルツブルクへと帰ってくる。
ヴォルフガングは故郷で、無給のコンサートマスターに任命される。13歳の神童がたび重なる旅で得た名声とこの職業とには、 いささかギャップを感じる人がいるかもしれない。しかし、時代は絶対王政の真っ最中。音楽家はただの使用人でしかなかった。 いわゆる「召使い」。

ヴォルフガングもまだこの時は満足していた。ザルツブルクを統治する大司教はジークムント・フォン・シュラッテンバッハ。 慈悲深いこの大司教は数年後に死去することになる。その後任の大司教こそが、ヴォルフガングにとって運命の人となるのだが、 この時点ではそんなことは思いも寄らない。


旅続きの数年間。
ヴォルフガングはその間、もちろん学校には通わなかったし、同年代の子供たちとの交流も少なかった。 その代わり、多くの秀才音楽家たちからたくさんのことを吸収する。すでに彼の曲は100曲に迫っている。 世間を知らずに育った神童は、音楽を食し続け、そして音楽を生み出し続ける。

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