ピアノの先生

ねぇ、今からごはん食べに行こうか?」

レッスンの日、先生の部屋に行くなり先生がそう言った。

「宇都宮に連れていってあげる。」

「うん。」

小学生のぼくは言われるがままに返事をする。でも内心は「やったー!」と思っている。 先生が連れていってくれるところは、どこもおしゃれで刺激的で、当時の流行語で 言えば「ナウい」のだ。



先生は、若くてとても美人だ。母はいつも、「お人形さんみたいね、ウエストなんか こんなに細くて・・・。」と、両手で輪を作ってため息をついている。明るくて 楽しくて、そしていい匂いがする。レッスンに行くと半分はおしゃべり。ときどき 機嫌が悪くて、そんなときはレッスンが長引く。そんな先生がぼくは大好きだ。

家に電話をしてOKをもらって、先生とぼくは宇都宮に出かける。黒磯から宇都宮までは クルマで1時間ちょっとだ。学校の話、うちでの話、先生の話、ほかの生徒の話。

ハンドルを握る先生の手を見る。
先生の指は「へら型」だ。美人な人の指ではない気がするけれど、それがピアノが うまい一つの要因だ、とぼくは信じている。ピアノの鍵盤をたたく先生の指は 強靱だ。

先生はよく、髪型を変える。
長くてまっすぐでさらさらな髪かと思えば、ウエイヴでしっとりにしたり、 ちょっと短くしたかと思えば、ばっさり切ったりする。髪型を変えるのは 美人の特権だ、とぼくは信じている。



先生はぼくを「ひとしくん」と呼ぶ。
「ひとしくん、今度はこれを弾こう!」
「ひとしくん、サマーコンサートのオーディションを受けてみない?」
「ひとしくん、コンクールに出てみない?」
先生のおかげで、コンクールでも入賞できたし、くるみ割り人形の王子役を やれたし、バルトークも弾けた。


ショックな出来事が二度あった。
1度目。先生が結婚するという。先生が母に、何かを相談していた。きっとあれは結婚の 相談だったのだろう。ぼくは、先生の結婚式に行き、ドビュッシーの「ゴリウォークのケークウォーク」 を弾いた。

2度目。先生がある日突然、こう言った。
「ひとしくんは、将来、音楽の道に進みたいんでしょ?」
「はい。」
「それじゃ、そろそろ私じゃなくて、もっといい先生に習った方がいいかもね。」
「・・・。(先生よりいい先生なんかいないやい!)」
そして、話はトントン拍子に進み、ぼくは1時間かけて宇都宮までレッスンに 通うことになった。

先生があのとき、「私の手を離れて・・・」と言ってくれなかったら、もしかしたら 今の私はないかもしれなかった。いや、実際はどうかわからないけれど、きっと あのときの先生の決断は正しかったのだと思う。



ところで、先生は今でも若くて、美人だ。
先生はもしかしたら、歳をとらない怪人なのかもしれない。
先生は私のことを、「内田君」と呼ぶようになった。
少し哀しい・・・(笑)。

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