幼稚園

まだ穂の固いすすきが坂道に茂り、静かな砂利道が続く。
生涯初めて、両親と離れての外泊。それは幼稚園の宿泊訓練だった。


幼稚園のバスに乗り遅れた。
なぜ乗り遅れたのかは思い出せない。とにかく乗り遅れてしまった。 「しょうがないから、**行きのバスに乗ろうね。」
大好きな先生が言う。不思議と不安ではなくなる。知らない顔がたくさんある 知らないバスに乗り込む。
「ひとしくん、こっちこっち!」
元気な声が響き、見るといじめっこのSだ。満面の笑みを浮かべて手招きしている。 俺はなぜか不安ではなくなっているので、Sの隣に座った。Sは自分の隣の、 年子の妹をどかして俺を座らせた。

なんでこのバスに乗ったの?
いつもこのバスに乗ればいいのに。
お前の乗るバスはこれより小さいよね。
Sはおしゃべりになっている。いつもは口を開くと攻撃的なSだ。俺は不思議な 気持ちになりながら、小さく頷くだけだ。

Sの家はそれほど遠くなく、元気に「ばいばい」と言って、妹と降りていった。


「憩いの家」とよばれる、その宿泊施設は、静かな田舎の静かな坂の上にあった。

散歩の時、Sが近くを歩いていた。俺は先日のバスの親近感から、Sに声をかけた。
「なんだよ、うるせぇ」
Sはいつもの攻撃的なSに戻っている。その口のききかたはなんですか、と先生に 怒られ、走って逃げている。

粗末な夕食をすました後、お風呂に入りパジャマに着替えた。上着をかぶって首を出すと 視線の先にSがいた。パジャマを下だけ履き、上は下着のままでぼんやり座っている。
どうしたの?
恐る恐る声をかけてみる。

「お・おかあさん・・・」

突然Sが泣き出した。
喧嘩の強いRとやりあっても決して泣かないSだ。それが今、まさしく今、 俺の目の前で泣いている。
「おかあさん」
言うことはそれだけだ。

すると、まわりのみんながつられて泣き出した。あたりは「おかあさん」の オンパレードだ。
なぜ泣くんだ?
俺は思う。
おかあさんは家にいるじゃないか・・・。


朝、とてもすがすがしい天気の中、目が覚めた。朝御飯に海苔がでて、それが とてもおいしかった。Sは昨夜泣いたことがひっかかっているのか、 おとなしくしている。

帰りの支度を終わって、ぼんやりする時間があった。俺は一人考えた。
俺は昨日、みんなが泣いているとき泣かなかったな。みんなは「おかあさん」 と言って泣いていた。でも俺は泣かなかった。これはもしかして、 おかあさんに悪いのでは?

「お・おかあさん・・・」

俺は泣いた。明るい朝の日差しの中で、俺は涙を出さずに泣いた。 先生がやってきて、あら、この子、なぜ今頃泣くの?と言って笑った。

先生が、涙の出ていない俺の顔をハンカチで拭ってくれ、それがとても優しかった。


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