裏切りとぬくもり

幼い頃の記憶は「裏切りとぬくもり」に集約されるような気がする。
こんなことを書くと、「お前はそんなに裏切りを受けてきたのか」と思われそうだけど(^^;)、 たとえば、こんなことも「裏切り」の一つだ。

父は朝早く出勤する人だったが、幼稚園に入園する以前の俺の日課に「朝、父を 見送ること」というのがあった。父を「いってらっしゃい」と言って見送り、「お帰り」 と言って出迎える。これが俺の日課だった。
しかし、ある日、朝、目を覚ますといつも新聞を見ながらたばこを吸っている 父の姿がない。母に聞くと、さっき出たよ、と言う。慌てて外を見ると、果たして父の 車が庭を出て行くところだった。

高校時代に、心理学の本を読んでいて、エディプスコンプレックスのところに差し掛かった 時、突然このときの光景が頭に鮮明に蘇った。なんとなく、それ以後、父と心理的に和解できた ような気がするのは気のせいかな・・・?


幼い頃の記憶の中のぬくもりが、俺の現在を大きく支えてくれているは間違いない。 それは母のぬくもりだったり、幼稚園の先生のぬくもりだったり・・・。

そしてその「ぬくもり」はなぜか「背後」に感じるのだ。記憶の中で、母や先生が 背後にいたわけではない。なのに、記憶の中の感覚が、ぬくもりを俺の背後に与えてくれている。 俺は背後のぬくもりを最高の後ろ盾に感じている。


そして、「裏切り」もまた、俺を形成する大きな要素の一つだ。
ちり紙を交換した友達の裏切り、「いってらっしゃい」と言えなかった日の裏切り。 病院で看護婦が、「痛くないからね」と言って差した注射針の痛み。ほんの些細なことが 俺の今になんらかの影響を与えている。
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五体満足で両親も健在で優しく、何不自由ない生活をしてきた俺には実は隠された「裏切り」 がある。

いや、あるのではない。あるような気がするのだ。しかも確実に・・・。
それがどんな出来事なのか、その裏切りは誰から受けたのか、全く分からない。 いくら記憶をたどっても、それが表に出てくることは絶対にない。ぽっかりと穴が あいたように、その部分とその周辺だけなんにもない。
しかし、確実にそれは「ある」。俺の中の一部の感覚が、「ある」とだけ教えてくれている。

その裏切りの記憶が蘇るのはいつの日なんだろう。そしてその時、俺はその衝撃に 絶えられるのか?