バベルの塔

人はかつて、バベルの街に天までとどく塔を造った。しかし、「神の領域を冒涜するもの」と いう神の怒りに触れて破壊された。現代では実現できそうにない空想的な計画などを「バベルの塔」という。


高校時代、重く暗い空が無性に好きだった。さびれて誰もいない工場の跡や 裏路地の煉瓦のヒビ。中央線から見えるおびただしい量のドブネズミの死体。 これらは、私の現在の序章であり思春期の晩期であり、従順な子供時代からの離脱 だ。

高校2年の夏、中央線沿いにある某予備校の夏期講習を受講した。私自身は それほど乗り気ではなかったが、友人が強く希望したことと両親が”その気があるなら 行って来い”と言ってくれたことと「東京」への憧れから受講を決意した。2週間の 日程で、当時国立市に住んでいた兄のアパートに滞在することになった。

ニュースがこぞって「記録的な猛暑」を告げた7月のある日に、大きなスポーツバッグを 持って私は東京にやってきた。山手線では棚にあげたバッグを混雑でとることができず に、ひと駅乗り越した。国立の駅に降り、コカコーラの販売機でジュースを買っていると 浮浪者がやってきて、おつりを無言でせびった。逃げるようにその場を離れると、 「とうりゃんせ」を鳴らす信号が点滅し、走る足下は暑さでアスファルトが溶けてベトベト とまつわりついた。


あらかじめ教わっていた鍵の隠し場所を探し当て、兄のアパートのドアを あける。6畳一間の粗末な部屋だ。流しと便所はあるが風呂は共同。 この暑さの中、扇風機は中古で買った古びた機械で、しかも首振り機能が 壊れていた。

兄が冷蔵庫にあったひき肉でカレーを作ってくれた。まずい。ひき肉が腐っていたのだ。 一口ずつ食べてから、外に出て大学生がたくさんいる店でピザを食べた。

夜に兄の友人がビールを持ってやってきた。
コップが割れてしまって一つしかないんだ。
瓶のままでいいな。
3人でビール瓶をぶつけ合う。ごちんと鈍い音がした。今ではお茶のように感じる ビールが、当時の私には苦く感じた。兄の友人は帰り際に、お前も大人だから、 とわけのわからないことを言って、財布からスキンを取り出し、やる、と言った。


朝の中央線はとても混雑する。
電車の中は静かだ。息づかいも聞こえない。ガムを汚く噛むおやじがポマードの臭いを 振りまいているし、ファンデーションをたたく女がコンパスごしにこちらをチラチラと 見ている。外は延々、屋根また屋根、だ。電車が揺れて、背の低いポマード男の頭が 私の胸に触れる。混雑の中、逃げ場はない。がんじがらめだ。ああ、俺は誰なんだろう。 私は思う。どうにもならない時は哲学をするしかない。外を見ると、ボクサーが サウナスーツを着て、こぶしを降りながら走っている。

ふと目を上げると、遠くで何かが光っている。屋根屋根の向こうは薄汚れたガスで 曇っている。その上空に幽かに点滅を続ける光がある。電車が大きく旋回し始め その光の正体がわずかに現れた。「塔」だ。工場かゴミ処理場か斎場か、何かの塔 だ。

バベルの塔。

私の頭に、そんな言葉がよぎる。バベルの塔は突然現れたビルに阻まれ、見えなくなる。 しかし、私の頭の中で、あの幽かな光が点滅し始めた。


神田川は悪臭を漂わせ、ドブネズミの白く膨れた腹が前にも増して見られる。喧噪が いっきに空まで舞い上がり、炎天と一緒になってたちまち落ちてくる。人の流れは 留まらずに、行き先はテンでバラバラだ。
ファーストフードでまずいハンバーガーを 食べる。シャネルのバッグを持った女が、足を綺麗に組んでまずいハンバーガーを頬張っている。 その隣ではジージャンを着たギタリストが汗を掻きながらコーラを飲んでいる。 この暑いのに、ジージャンなんか着ているのは馬鹿か天才のどちらかだ、私は思う。

予備校での講義はほとんどなにも覚えていない。覚えているのは、掃除夫がチーフらしき 男に怒鳴られていたこと、著書も多く有名な講師がロボットのようであったこと、 ノースリーブの女の子が多くて目のやり場に困ったことくらいだ。

帰りがけに吉祥寺のレコード店でSEX PISTOLSのCDとインディーズのレコードを買う。 そして映画、スタンドバイミーを観て喫茶店でアイスコーヒーを注文する。フロイトの 本を読みながら、ふと、まださっきの光が頭の片隅で点滅していることに気が付く。
最近の俺はおかしい、頭がおかしくなったのかもしれない、私は思う。
頭がおかしくなるのは構わない、狂気は俺の憧れだ。


暗くなった街を歩いて、電車に乗り込む。もう、電車では酔客が気分を悪そうに下を 向いている。まだ、吐く奴が出る時間ではないらしい。
そういえば、私は思う、俺は最近、何かに大笑いしたことがあっただろうか。
映画を観た、それなりに感動した。本を読んだ、それなりに感銘を受けた。 パンクを聴いた、それなりに心がときめいた。「それなり」は悪くない。 しかし、俺は最近、笑っていない・・・。

つぶっていた目をあけ、ぼんやりと正面を見る。 そのとき、電車の窓ガラスに映る自分の顔の額のあたりが虚ろに点滅し始めた。 私はハッとした。
バベルの塔だ。バベルの塔が俺の頭で点滅している。

「バベル?」

少し間を空けて隣に座ったおっさんが、そう言ったような気がして私はドキッとした。いや、おっさん は何も言っていない。それどころか、口を開けて眠っている。あれは空耳だったのか?


国立の駅を降りて、少し遠回りをして多摩蘭坂まで歩く。RCサクセションの唄に 出てくる坂だ。
少しだけ我に返る。
俺は、悩み混乱する自分に酔っている。
しかし、その考えをすぐにうち消す。しっかりと自分を見つめられるほど、まだ私は 強くなかった。アパートに戻ると、兄がすでに帰宅していた。兄はテレビを眺めて 大笑いをしていた。


夏休み明けに、国語で詩を書かされた。私は2週間の東京滞在で自分の心の中に 芽生えた新たな何かを書き綴ってみた。
常勤講師の若い教師が、「誰かの盗作じゃないよね?」と私を疑った。
クソクラエ、私はノートにそう書き殴った。




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