愛犬マル

1997年12月16日、愛犬マルが他界しました。 静かに、静かに、静かに死んでいきました。


マルは私が高校2年のときにやってきた。 当時の数学の先生が、「誰か犬をもらってくれないか」と持ちかけてきたのが きっかけだった。動物が大好きで、特に犬好きの私はすぐにその話に飛びついた。

うちに帰って、母に相談すると「犬は長生きしないから・・・」と言う。 実は以前、「チビ」という白い犬を飼っていたことがあった。あまり 構われない、可愛そうな犬だったが、母はチビの死が忘れられないらしい。 それでも、お父さんが帰ってきたら相談したら、と言ってくれた。 そして父は、快く承諾してくれた。

車である場所まで乗せていってもらい、数学の先生から犬を受け取った。 茶色で耳の垂れているその子犬は、私のひざの上で温かかった。名前は 呼びやすく、賢そうな名前がいい、ということで「マル」と名付けた。
最後まで、犬を飼うことを渋っていた母が、「あら可愛い」と言って マルの頭を撫でる。マルは、当然のようにしっぽを振った。


受験生だった私は、勉強に飽きると、マルを抱いてぼんやり庭を眺めることが あった。マルはその間、耳や鼻を頻繁に動かし、ときどき遠くの動物や飛行機に向かって、 わん!と言う。首を撫でると、お返しに私の手を柔らかく噛んで、舌を温かく付けてくれた。

ときどき、近所の林に散歩に行き、一時間も二時間も歩き回ったりした。

樹液の匂いのする雑木林を抜け、ところどころ木漏れ日の差す松林を過ぎると 少しひらけた原っぱにでる。そこでマルの綱を離してやると、マルは一目散に向こうに 駆けていく。随分遠くまで行って、少し匂いを嗅いでからまた私の方に一目散に 戻ってきて、停まるかと思えば行き過ぎて・・・。

走るときのマルは、耳を後ろにぴたりとくっつけて走っていた。とても楽しそうに 走っていた。帰ってきてから、しばらくするとマルは昼寝をし、ときどき寝言を言った。 自分の寝言に驚いて、ときどき眠そうな顔をむくっと起こした。


私が大学に入学し、しばらくして下宿をするようになってから、マルの体調が 悪くなりはじめた。異様に腹が膨れている。私が長期休暇に帰ってくると、 腹がやせる。医者に診せると「癌」だと言われた。ガーン。1年もてば、その後3年くらいは 生きるでしょう。

1年マルは生きた。私は大学院に進学し、院の2年次と卒業後の1年間は実家に いた。その2年間で、あんなに膨れていたマルのおなかはすっかり縮み、元気を 取り戻したようだった。

しかし、仕事の関係でまた実家を離れる。そしてマルの腹はまた膨らみ始めた。


「マルが死にそうだよ」
母から電話があった。仕事が終わってからすぐに実家に帰る。マルのおなかは 腹水が溜まって、”おはぎ”のようになっていた。
私が 帰ると、よせばいいのにマルは病躯にむち打って立ち上がった。

12月。外はとても寒い。母がマルの背中にタオルケットをかけてくれた。 マルは、「ぐぅ。ぐぅ。」と俺の顔を見て何かを言っている。一生懸命に 何かを言っている。そしてときどき力無く倒れ込み、また起きあがる。
1時間程それを繰り返した後、マルは眠ったようだった。その日は、まだもちそうだったので、 私は帰ることにした。

次の日、朝と昼に実家に電話をしてみたが、まだ生きているとのこと。
仕事を終えて、うちに帰ると留守番電話が点滅している。薄暗い部屋で、 留守番電話の黄緑のランプが、静かに点滅している。一瞬、一通り考えが巡ってから 私はボタンを押した。外で、バスがクラクションをならしている。

マルは、父の帰りを待ってから父と母に看取られて、急にがくっと死んだのだそうだ。 死ぬ寸前、父と母の顔を交互に見た。そして、私はそこにはいなかった。

1時間程の道のりの実家に帰って、マルの亡骸に対面した。マルは、父が掘った穴の中に、小さく足を折りたたんで 入っていた。

「マル・・・。」

これしか声が出なかった。
まだ、首のあたりが微妙に温かかった。


庭にあった大きな丸い石を、マルの墓石にした。
数年前、夏休みの帰省中、母に頼まれて漬け物石をとりにいったことがある。 兄とマルの3人で、那珂川の河原に車で取りに行った。私と兄は、ふざけて、 うちの漬け物石にするには大きすぎる、まん丸の石を運んだ。ものすごく重くて、 途中何度も挫折したが、あまりに丸いので、それがおかしく、兄と笑いながら運んだ。 マルが不審そうに、しきりに石の匂いをうかがっていた。

その石が、マルの墓石である。

あのとき、俺はマルの墓石をとりにいったんだなぁ。私は思う。
結局、漬け物石としては大きすぎて使えず、庭に置き去りにされて苔むして いたのだった。


正月に実家に帰った。
マルの小屋は、玄関からすぐのところに、今もある。いないことはわかっているのに どうしても視線がその小屋に向く。

家の中で階段を昇り降りするとき、私の足音を聴いたマルが散歩に連れていってくれるのでは、 というほのかな期待を抱いて、小さくないたものだ。期待をさせて散歩をしないのじゃ マルに悪いので、階段の昇り降りはなるべく音を立てずにおこなっていた。

マルのいない今でも、階段の昇り降りはなぜかそーっとやっている。

玄関から外にでると、台風だろうが真夜中だろうが、必ずマルが、すでにきちんと座って 出迎えてくれた。今でも、マルがそこに座っているような気がして、思わずそちらを 見てしまう。

マルの墓を見に行く。
前に飼っていたチビの墓の隣にマルは眠っている。
あの丸い石と、穴の中で小さくなっていたマルの姿がどうしても重なってしまう。 石がマルに見えてくる。石が、マルに。


私は、実家にいる間、マルの散歩をかかしたことがなかった。 私が年を取って、そして死に、もしも死後の世界というのがあってマルに再会することが できたら、また毎日散歩に連れていこうと思っている。あの林の中に、散歩に連れて いこうと思っている。

そうしたら、またマルは寝言を言うだろうか。