ヒトにとって歯とは

 脊椎動物にはいわゆる「歯」と呼ばれる構造が具わっています。しかしながらその発達の程度は千差万別です。たとえば鳥類では二次的に歯を失っています。両生類ではガマには歯がありません。爬虫類ではカメには歯がありませんが、ワニには立派な歯があります。我々ヒトを含めた哺乳類になるとほとんどの種で歯をもっていますが、歯が無い種類がないわけではありません。たとえばオオアリクイには歯がありませんし、クジラも歯の有る無しで歯クジラとヒゲクジラに分類されています。歯を持つ哺乳類といっても、形状や構造、並び方は多種多様です。

さてこうした歯の多様性は、その動物の食性とかかわるものと考えられています。藤田恒太郎氏は「歯の話」(岩波新書)という本の中で「歯は動物の食性をもっとも端的に反映している器官だといわれている。つまり、その動物がなにを食べて生きているか、草食か、肉食かは、その歯を見ればわかるというのである。」と述べています。

つまり、動物は進化の過程でその食性の違いによって、歯が多様化していったものと考えられます。我々ヒトもその例外ではなく、肉食と草食の中間的な雑食性の特徴を具え、各種のものを食べることができます。こうしてみると、ヒトを含めた動物にとって歯はものを食べる機能に重要な役割を演じていることを再認識させらます。

ところでヒトは歯からみるとは雑食性といえますが、食料を生産できるという点で他の動物とはかなり違った食性を持っているといえるでしょう。すなわちヒトは農耕や牧畜により食料を生産し、それを加工する技術を持っているのです。これによりエネルギー源を安定的継続的に得られるようになりましたが、反面で加工デンプン質に偏った食性をとることになりました。このことはヒトの生存を確実にするとともに、さらに食事という文化を生み出しました。そして我々は食を生きるためだけではなく、悦楽として享受しています。しかし加工デンプン質は歯に停滞しやすいため、これを主体とした食文化は皮肉にも歯にはよからぬ影響をもたらす結果となりました。

もちろん食事を楽しむためには歯が健康であることが前提となるわけですが、どのようにして歯の健康を保てばよいのでしょうか。今回は虫歯予防を中心に説明していきたいと思います

食生活と虫歯

ところで虫歯は歯を持つ生物にとって宿命的病気なのでしょうか。

まず野生動物には虫歯はありませんが、ペット化した動物には虫歯がおこりえます。

次に人類の歴史を振り返って見ると、概ね500万年前に人類の歴史がはじまったとして、狩猟採取生活を行っていた数百万年の間の化石人類には虫歯は発見されていません。最も古い虫歯(らしきもの)は約20万年前のホモサピエンス・ネアンデルターレンシスで見つかっていますが、頻度は極めて少ないといえます。おおざっぱではありますが比較的高い頻度で虫歯が見つかるのは農業革命の起こる約1万前以降の人類においてです。そして虫歯の大流行ともいえる頻度で発生したのは、16世紀の砂糖の大量栽培と世界流通以降のことなのです。

つまり虫歯はヒトに特有の病気であり、その食生活の変遷と密接な関係があることがわかります。

ここで虫歯の発生と食とのかかわりについて、科学的に考えてみましょう。そのことを理解することにより、「食」を通じての虫歯予防の方法が自ずと導かれると思われます。

食からみた虫歯の発生メカニズム

口の中には様々な細菌(まとめて歯垢細菌と呼ぶこととします)が共生しています。虫歯とはこれらの細菌が歯に付着し、糖質を基質として酸を生成し、歯を溶か(脱灰)していく現象です。一見単純な現象に思われますが、実際に虫歯ができるかどうかとなると、もう少し他の因子を考察する必要があります。

発酵性糖類を摂取すると、歯垢細菌はその代謝回路を変えて脱灰力の強い乳酸を産生します。そして歯垢内pHが5.5(臨界pH)以下になると脱灰が起こり始め、虫歯が始まります。糖の供給がなくなると歯垢細菌は再び代謝回路を変えて乳酸の産生をやめます。すると唾液には緩衝作用があるので、歯垢pHは再び上昇に転じます。そして中性環境になると、歯垢中あるいは唾液中のリン酸とカルシウムによって脱灰を受けた歯質は修復(再石灰化)されます。脱灰と石灰化の均衡が保たれているうちは、虫歯は進行しないと考えられます。しかし糖質の摂取頻度が高くなると、脱灰に対して再石灰化が追いつかなくなるため虫歯が進行すると考えられています。これが虫歯の成り立ちです。しかしながら脱灰と石灰化の攻防に影響を及ぼす因子はたくさんあり、その全てが解明されているわけではありません。たとえばどのくらいの頻度でどのくらいの期間、糖質を摂取すると虫歯ができてしまうのでしょうか。唾液の量、あるいは緩衝能といった質の個人差が及ぼす影響はどうなのでしょうか。食品の摂取形態や摂取方法など嗜好によって差はでないのでしょうか。まだ解決しなくてはならない問題も多くあります。

食から考える虫歯予防の方法

虫歯予防の基本は「糖質の摂取頻度を低く抑えること」にあります。もう少し砕いた言葉でいえば「だらだらとものを食べたり飲んだりしないこと」といえます。特に睡眠中は唾液の分泌が減るので、就寝前には飲食しないことも大切です。

しかしながら現代の食生活においては、加工デンプン質を主食とせざるを得ないわけですし、砂糖を含む加工食品から隔絶して生きていくこともできません。そこで虫歯から歯を守るために、さらなる配慮が必要になるわけです。

「歯磨きだけで虫歯は予防予防できるか」

歯磨きは、もっともポピュラーな虫歯(口腔衛生)予防方法として普及していますが、これとて虫歯予防の決め手にはなりません。歯磨きをした歯面でも1あたりの細菌が残るといわれています。歯の裂溝の中や接触点など歯ブラシの届きにくい部分ではさらに多くの歯垢細菌が残ると考えられています。そして残った歯垢細菌は再び増殖し歯垢を形成していきます。こうしてできた歯垢は糖質摂取により酸を産生し、虫歯の原因になりうるのです。つまり一日に3回相当丹念に歯磨きをしても糖質の摂取頻度が高ければ、それを打ち消す力はないと考えられます。しかしながら堆積した歯垢のpHは戻りにくいので蓄積させないようにしなくてはなりません。また口腔内の歯垢細菌の数を極力減らすために、歯磨きは十分に意義のあることと思われます。

「何をどのように食べたら虫歯にならないか。」

私たちは食事でデンプン質を摂取することになりますが、これも唾液のアミラーゼで分解されると、歯垢細菌の酸産生の基質となりえます。しかし一日三度の食事程度の摂取頻度では、脱灰と再石灰化の均衡の範囲内で虫歯の原因になるとは考えられません。もしこの程度のことで虫歯ができていたとすれば、すべての人が虫歯になってしまいます。しかし実際にはその様なことはありません。

問題になるのは間食として摂取する砂糖なのです。これも一日一回決まった時刻にしかおやつを食べないという人なら虫歯の危険性は低いものと思われます。しかしアメやガムなどを頻繁に食べたり、砂糖を含む清涼飲料を頻繁に飲むような生活をしたりしていると虫歯の危険度はかなり高くなります。

それでもそういった食品を飲食せざるをえない場合は、歯垢pHを臨界pH以下に下げないような食品を選択すべきです。実は食品の齲蝕誘発性の評価というのは大変難しいことなのですが、それを見極める一つの指標として、「その食品が歯垢細菌の酸産生の基質となる原材料を含んでいない」ということが挙げられます。ここで注意をしなくてはならないことは、たとえキシリトールなどの代用糖(歯垢細菌が酸産生のための基質としない糖)を含んでいても、発酵性糖類を同時に含んでいれば齲蝕誘発性は否定できないという点です。

しかし一般の消費者がその製品の原材料をみて齲蝕誘発性を判別するのはかなり難しいことだと思います。さらに、現在市場に出回っている商品には紛らわしい表示が多数あることも混乱要因の一つです。たとえば「砂糖不使用」と表示しながら砂糖(ショ糖)以外の酸産生能のある糖を加えているもの、この他にも同様な内容で「カロリーセーブ」「カロリーオフ」「低糖」「甘さ控えめ」といった表示をしているものもあります。虫歯予防のイメージの強いキシリトールを配合と銘打ちながら、ショ糖を含むもの、ウーロン茶由来のGTP阻害剤を配合して「歯に安心」と表示してショ糖を含むものなど多数あります。これらは全て虫歯を誘発する可能性があります。また食品栄養表示基準制度の規制による「シュガーレス」の表示があっても齲蝕誘発性がないとはいえません。なぜならばこの制度では糖アルコールを除く単糖類と二糖類が0.5%未満含む食品と定義されていますが、たとえ「シュガーレス」であっても一部には酸産生の基質となりうる三糖類や多糖類を含む食品もありますので、必ずしも齲蝕誘発性がないとは言い切れません。

一方で齲蝕誘発性を科学的に評価した表示として、トゥースフレンドリー協会が定める「歯に信頼」マークがあります。これはその製品を食べてから30分以内に、歯垢内のpHが5.7以下にならないものに表示が認められています。このマークのついたお菓子なら齲蝕誘発性はないといえるでしょう。しかし現実問題として、このマークのついたお菓子は、現在のところガムとキャンディーしかなく、流通している種類も少ないので、おやつにこのマークのついた商品だけを食べるというのは難しいと思われます。

「間食だけではない虫歯の原因」

歯垢pHを臨界点以下に下げる要因は、今まで述べてきましたようにアメやガムなどの間食が代表例と言えます。しかしこの他にも要因があります。

小児が服用するドライシロップにも大多数のものに発酵性糖類が使用されており、これも長期連用すると虫歯になる危険性が指摘されています。成人においても呼吸器疾患等で発酵性糖類を含むトローチを長期連用する場合も同様の危険性があります。

この他に、飲み物により摂取される糖類も無視できません。たとえば牛乳にも約4〜5%の乳糖が含まれていますので、歯垢pHは臨界点以下に下がります。これも飲み方によっては虫歯になる可能性があります。食後かおやつの時に一日1〜2回飲むといった飲み方であれば問題ないのですが、のどが渇くと水代わりに少量ずつ何度も飲むといった飲み方をしていると虫歯の危険性は高くなります。乳児用のミルクも同様で、「哺乳瓶齲蝕」といって、離乳期、歯が萌出してからも、哺乳瓶で授乳を続けていて虫歯ができてしまった例が報告されています。また、いわゆるスポーツドリンクも5〜6%の発酵性糖類を含んでおり、歯垢pHは下がりますので注意が必要です。

成人で問題となるのは、砂糖入りのコーヒーや紅茶です。これも高い頻度で飲めば虫歯になる危険性が出てきます。

まとめ

ヒトは「食」を生きる糧とするとともに、悦楽として享受しています。歯のために良いか悪いかだけで食品を選択していては、日常生活は成り立ちませんし、楽しくもありません。虫歯にとって問題は「何を食べるか」より「どのように食べるか」ということの方が大きなウエートをしめています。

以上に述べてきました幾つかの原則を守れば虫歯は必ず予防できます。そして健康な歯で食生活を楽しみたいものです。


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