8. 欧 米 人 と 「 漢 字 形 活 字 」 の 製 作

 繰り返すようであるが、幕末当時日本では現在のような活字製造技術は存在しなかった。明治2年になって長崎の本木昌造が、上海・美華書館の責任者であったウィリアム・ガンブルより<電胎母型法>を教わって作ったのが「近代式活版印刷」の嚆矢とされる、ということは多くの印刷関連書で触れられているとおりである。
 ところがヨーロッパではすでに「活版印刷」は 400年の歴史があり、その技術は完熟期に達しており、東洋学という学問分野の発展と共に、幾種類かの大きさの漢字活字が作られていたのである。
 それらの中では、何千種という漢字父型を1本1本金属彫刻した正攻法の活字もあれば、欧米人としての合理的な解釈から、漢字形を「偏と旁」や「冠と脚」に分けて理解し、それらを合体して、一つの文字形を作るという「分合活字」の発明などがあったのである。
 それらの発展経過を詳細に研究された、九州大学・鈴木広光先生の論文(「印刷史研究」第2〜3号)や、 「十九世紀ヨーロッパ・中国での明朝体金属活字の開発と日本への伝播」と題された武蔵野美大・小宮山博史先生らの興味深い資料がある。それらの論点をお借りして、主立ったところを年表風に転載してみると次のとおりである。

◆1835〜1843年
(1) 英宣教師サミューエル・ダイヤは、中国での布教のため漢字活字の鋳造を計画し、14種類の中国文字著作を調査し実現に取り組んだ。最初に計画した大小2種のフォントは1845字まで出来上がったが、完成を見ず1843年10月に亡くなった。その後、この仕事はアレクサンダー・ストロナックに引き継がれ、1845年には3041字に達していたという。

(2) 一方、フランスの活字鋳造業者ルグランは、東洋学学者たちの依頼を受けて、使用頻度の高い漢字2000字の金属活字を作成した。この活字は、漢字を偏と旁に分け別々に活字を鋳造し、これを合わせて植字するという考案であった。この方法は、漢字を単活字ではなく連字活字とみなしアルファベットのように、少数の単純な要素に還元するという着想から生まれたものと思われる。

◆1844〜1847年
(3) 中国への伝道を意図していた米国長老会は、ルグランの母型一式を得て、これをマカオに送っている。印刷技術者リチャード・コールは1844〜1847年まで長老会印刷所に勤めたが、ルグランの活字が実際の使用に耐え得るようになったのは彼の功績による。その大きさは約16ポイント(約6ミリ角)である。

◆1847〜1851年
(4) コールは1847年の暮れ長老会印刷所(米)を辞して香港の英華書院長となる。彼が着任して行った功績は、先のダイア・ストロナック作成の大小2種のフォントを完成させたことである。
 大型フォントは Double pica(1号=約9ミリ角)、小型フォントは Three-Line Diamond(4号=約5ミリ角)で、1851年には、それぞれ4700字が備えられていたという。

(5) また米国長老会は、ベルリンのバイエルハウスが、 ルグランの「分合活字」と同じ原理で作成した中間サイズの活字(2号=約7.5ミリ角)を採用した。


 ここに掲げた記述は、この「ホフマン活字」に関連する部分のみであり、全体のご研究の中の、ごく一部を抜粋させてもらったものである。
 「ホフマン活字」というのは、この表の(4)で記されている「コール」が完成させた小型フォントの Three-Line Diamond(4号) 活字のことである。

 この記述に示されている「活字字形図」(図8参照)も併載させて頂くこととする。
図8へ

 両先生の論文を子細に見てみると、ヨーロッパではこれ以前から数多くの「漢字形活字」が使われていたようである。
 古いところでは、1813年刊『漢字西訳』という書物に使われていると記されているが、わが国では未だ鎖国の真っ只中で、11代将軍徳川家斉の時代であり、泰平の眠りをさますペリー来航の30年も前の頃である。
 いま振り返って見れば、「太平楽」であったというべきか、「僥倖」であったというべきなのかは判らないが、遠く離れたヨーロッパの地で、中国や日本を含む東洋というものがかくまでに深く研究されていたのである。こうしたことの行き着くところは必ずしも純粋な学問の世界の話には止まっていないのは歴史が示すとおりである。


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