3. シ ー ボ ル ト と そ の 弟 子 ホ フ マ ン

 幕末の頃、日本の医学界にその先端技術で大いに貢献した宣教医フォン・シーボルトは、一面また歴史学研究者でもあった。彼が日本滞在中(1823〜1829年)に収集したそれらの資料類は、帰国後、 母国オランダのライデン大学に寄贈されたと言われるが、今でもヨーロッパでの「日本学」の基礎研究資料となっているに違いない。
 ドイツの言語学者ホフマン(J.J.Hoffmann)は、その「日本学」を引き継いだ彼の愛弟子で、後年その研究成果の集大成として『日本文典』を著すのである。
 ホフマン自身は日本を訪れたことはないが、師の収集した豊富な資料を咀嚼しながらその思いは遠く極東の地に馳せていたのだろう。いずれにせよこの著の刊行によって、彼が「日本学」の第一人者と目されるようになったのである。それは1867年であると言われるから日本では慶応3年のことである。

 その頃の日本は、大政奉還や鳥羽伏見の戦いに始まる内戦の最中であり、バックについた英仏の思惑もさることながら、<欧米人がこの日本をどんな眼で眺めていたのか>に思いを馳せる日本人は、きっとまだ少なかったのに違いない。
 余談は別にして、それらの著作・論文の印刷に際しては、洋文字による主たる記述のほかに、引用例として「日本語」表記のための『漢字活字』が必要になる。そして作られたその品質が、印刷関係者である我々の目から見ても充分に整っているのには驚いたというのが正直な感想である。


 ここに、当時の東洋学関係の論文印刷を引き受けていたオランダ「ブリル社」製品の、その『日本文典(英語版)』の一部(図1参照)と、その他の見本(図2参照)を掲示してみることにする。

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 * ブリル社製品 ホフマン『日本文典(英語版)』320頁(近畿大学中央図書館蔵)

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 * ブリル社製品


 これらの冊子を始めて見たときの筆者の感想はこうである。その一つは1800年代後半のヨーロッパで、「日本及び日本語」というものの研究が、これほどまでに進んでいたのかという率直な驚きであり、もう一点は、洋文字と同時組版されている「漢字形」の金属活字の美事さに感心したのである。

 そのころの日本は幕末の混乱期で、印刷技法としては、昔ながらの一枚板の整版方法が主たるものであり、一部に活字方式も試みられていたがそれは木活字方式であったのである。当時幕府の兵科教官であった「大鳥圭介」や、化学関係の技師でもあった写真家の「島霞谷」など、日本人で漢字形の金属活字を作ろうとした人たちもいるが、後から見れば試行錯誤の連続であり、これほどに整ったものではなかったのである。

 しかしこれには、マジックではないが実は「タネ」がある。このことについて触れるのが本編の主旨であるが、それについては項を改めて述べることとする。


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