当時、日本での布教責任者であったヴァリニャーノは、布教拡大のために「西洋文明」を日本人に見聞させるのも必要と考え、併せて、外人宣教師達の日本語習得の困難さの解消や、幅広く日本人修道士の養成や信者たちへの教議書配布を図るために、「西洋式印刷機(活版印刷)」の導入を考えたのである。
そして、九州のキリシタン大名である大友宗麟・有馬晴信・大村純忠の三侯の代理として4名の少年を引連れて自らヨーロッパへ旅立ったのであった。その期間は、1582年から1590年までの9年間であり、彼らがローマ法皇に温かく迎えられ、ヨーロッパ諸侯の爆発的な歓迎を受けたということは、多くの史書や小説などで語られているとおりである。
考えてみれば、ヨーロッパ人の多くは、マルコ・ポーロの『東方見聞録』に刺激され、フロイスら宣教師たちの年報で興味を抱いていた「日本人」を目の前に見るのが、これが始めてであったから当然と言えば当然でもあったのか。
ヴァリニャーノがこうして持ち帰った印刷機は、九州の加津佐や天草において大いに活用され、その後慶長19(1614)年のキリシタン追放までの約20余年間に、30種あまりの書籍が刊行されたのである。その採り上げた内容と使用文字との関係で、彼らの思いに想像を馳せると、使命にかける彼らの情熱がひしひしと伝わって来る。
その主なものを簡単に列挙すると次のとおり。
これらの内容からその製作意図的なものを想定してみると、その(1)は、[サントスの御作業の内抜書]や[伊曽保物語]のように、彼ら(宣教師)自身がよく知っている内容をローマ字綴りにして、日本語風に発音して説明できるようにしたローマ字本。
その(2)は、[どちりいな・きりしたん]や[ばうちずもの授けやう]のように、日本の信者たちが自分らで勉強できるように教義の内容を日本字で表した国字本。
その(3)は、彼ら自身のために作られたローマ字本の辞典類と同時に、日本人のために作ったのかと思われる[落葉集]のような国字本の辞書までもある。
そのバラェティ云々は別として、遠い異国において、これほどまでに布教への情熱を傾けた彼ら(イエズス会)の心情には敬服するのみである。
実はこうした情熱と同質と思われるものが、このあと本編で触れる中国でのミッションプレスでの活躍であり『漢訳聖書』の発刊などであろう。そしてそれが、 この『ホフマン活字』の成り立ちに繋がったのだろうというのが私の感想である。