3.「わざ」は「こころ」で伝えるもの

 冒頭に記したように、私が本稿を書こうと思ったのは、永六輔氏「職人」の本を読んだからである。そして気になる一節の「鉛の活字を鋳造したり、それを選んで並べたり……」と言われたその活字職人の世界で育てられた思いを懐しんだからでもある。しかし後半の「……ワープロ、コンピュータ、結構ですが、また職人が滅んでいくわけです」のくだりには半分の肯定感と同時に、いやそうとばかりは言い切れないはずという否定感とが渦巻いたのである。

 かつて本造りの主流であった「活版印刷」も、その非効率から電算写植(コンピュータ組版)にとって代られ、従事する作業者も文選工・植字工というまがうことなき「職人」の手から、若いオペレータに移行するという時代の変化があったのである。

 その意味で、伝統的に守られてきた常識(たとえば著者のうっかりミス<専門→専問、栽培→裁培>などが訂正されて出校)や、特に指示がなくとも、バランスを考えた行間操作など、失われた「職人の世界の良さ」もあるのだが、一方ではこうした問題点を踏まえて、現代の電子的組版時代に「職人感覚」を生かそうとする動きがデザイナーの世界で声高になりつつある。

 なかでも、府川充男氏の「組版原論」は、著者の確固たる理念にもとづく、歯切れの良い論調とその豊富な事例集とで、眺めていて楽しい本である。何よりも嬉しいことは、
 『実のところ、いま最も切実に必要とされているのは先行する世代の経験の継承と「電子的復元」であり、そのための智識は何よりも活字時代の資料から汲み取られる外ない。……。いかなる〈文字〉をどのように組むことが組版技法の勘どころなのか。どのような組版工程が合理的であるのか。それらを識るためには歴史への眼差しが不可欠である』

と述べられた著者の基本的姿勢であり、その裏付けともなっている『活版印刷史研究』の論叢には、この分野の人間としての我々に教えてくれるものが数多くある。

 どんな職業にせよ、昔から職人の世界を描き切ったと云われる本は数少ない。本作りがお手のものの「活字職人」にしてもそうである。先に述べた「手漉き」の職人肌ではないが、工程の手順はいくらでも教えたり書き残すことは可能だが、そこに籠められた「精神」は、教えられるものではないからであろう。

 ごく最近に新聞で見たのだが、武術の免許皆伝には「立ち技何カ条、寝技何カ条…これを許す」としか記されていないという。考えてみれば当然で、武術のような「わざ」こそ「身体とこころ」で継承しなければ伝えようがないからである。
 宮本武蔵が晩年「五輪書」を著わしたのも、何とかしてその真髄を後世に書き残せないかと苦心し発念したからなのだろう。それでも彼はもどかしさを残したに違いない。

 職人の世界というのもそうである。工程・手順については、書き残せたり画かれたりは可能だが、それを実際に再現してみせるのは「身体とこころ」での伝達以外不可能だからである。永六輔流に言えば、「書いたもので「わざ」が覚えられるなら、犬や猫でも……」と言うところか。

 それだから「職人」は多くを語らなかったし、書き残したりしなかったのだろう。

 余談だが、国鉄が民営化され、機関区に保存されている「SL機関車」も、単なる博物館での展示だけでは迫力はない。『早春の〇〇路を走るSL列車』とかで「動態資料」として活用されてこそ、その価値が後世に伝えられて行くのである。


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