2.「歴史の文字」展で考えさせられたこと

 その三は、昨年の東大総合研究博物館「歴史の文字」展での感懐である。
 土器や木簡に刻まれ記されていた文字に始まってデジタルの世界での文字に至るまで、タイトルどおりの「歴史の文字」展であった。

 その一環として、近代印刷術の一翼を荷って来た「活版印刷」の、文選ケースや植字台の設備一式が展示されていたのであるが、往年その世界で育てられた筆者にしてみれば、その場は寂廖感そのもので足早やに立去らざるを得ない異和感があった。その理由は、あとで考えてみてもよく判らないが、強いて云えば「動態資料」と「静態資料」との落差によるものだったのかも知れない。

 あるいは、先の永六輔氏の「鉛の活字を鋳造したり、それを選んで並べたり、みんな職人の仕事です。……」という慨嘆に共通するものだったのか。

 ところが展示も末尾の方の「大日本古記録」の組版原版を見たときには、逆に脚はそこに釘付けとなったのである。
 ガラス越しに見ている私の眼は、完成された一頁大の組版原版を捉えているのであるが、頭の中に去来するものは、その組版が完成するまでの職人の手の運びであり、その動作を100枚いや200枚と微妙に変化させたアニメ動画そっくりの活きた場面であった。

 しかもそこには「モノ」を生産するにふさわしい機械や器具というものは何もなく、あるのは部分組版をする道具としてのステッキ1丁と、それをセットする組盆だけであり、ただ黙々と往復する職人の指先だけという奇妙な生産空間なのであった。

 やや専門的な記述になるが、活版印刷における「組版」の構成材料というのはこうである。
 即ち、「印字面」を構築する大小の活字類と「非印字面」を構築する込め物や行間用インテルなどの、高さの異なる2種類の材料をうまく組み合わせて、定められた寸法内に体裁をそろえて行くという作業なのである。

 従ってページの1行目が、タイトルのみで改行されているとすれば、タイトル文字(印字材料)を並べたあと、残りの空間分を活字より背の低い込め物(非印字材料)で埋めるという動作になる。続いて本文活字を順次並べていくのだが、字下りや字間の空きがあれば込め物を挿入する。そこには、印字面材料と非印字面材料の違いこそあれ、ぎっしりと「モノ」に埋めつくされている。

 こうして1行分の「組み」が終ると、行間用のインテルを挿入し、同じように2行目の「組み」を繰り返す。
 一頁大の行数分が組み上がると、柱文字やノンブルが付加されて「組版原版」が仕上がるのである。

先ほど私は、アニメ動画のようなと記したが、

〇事前に文選工によって採字されている活字群、
〇手元に用意された大小さまざまな込め物類、
〇同じく用意された厚薄いろいろなインテル類など

の諸材料を前にして1頁分の組版を仕上げるまで、職人(植字工)の手はどれほど往復したことだろう。
 しかも字間や行間など、微妙な間隔操作次第では、印刷後の仕上り面で美醜を問われるほどの美的センスを要求されているのである。

 職人たちは無造作に、いとも簡単にこれらの作業をやってのけているのだが、本当は頭の中のコンピュータが、抽出しの中から経験上の知恵を出したり入れたりしながら、諾否を決めて指先に命令を与えているのだろう。

 いみじくも、この「歴史の文字」展の図録で語られた、西野嘉章氏(総合研究博物館)の次の文章が私には強く印象に残っている。

 『……本の頁面を想い浮かべてみるがよい。文字列ではない。白紙のままに残された部分を想うのである。活版ゲラでは、それこそ無数の鉛や木の込物がそこを隙間なく並べられている。頁の余白さえ、びっしりと「モノ」に埋め尽くされた稠密空間なのである。
 それに対し、昨今のコンピュータ組版による印行本はどうか。活版プロセスと対照的に、そこでは10グラムにも満たない磁性体に文字情報のすべてを縮体することが可能である。もちろん、印刷物を純粋な記号媒体と見るのであれば材料の重さは問題にならない。が、「歴史の文字」は、活版印刷の生み出したものも含め、すべてが間違いなく「モノ」であり、「モノ」特有の物理的な手ごたえ、視覚的な色合い、触覚的な肌合いを有している……(後略)』

 西野先生の文章の真意は、文字の世界がデジタル化されいく状況に、置き忘れてはならない精神(こころ)を警告されたもの、とは受け止めたが、私は二つの点で大いに共鳴させられたのである。

 その一つは、物言わぬ「組版原版」の姿を指して「稠密空間」と表現されたことである。この場合「稠密空間」という表現を「緻密空間」と覆せて捉えてみると、そこに込められた職人たちの労苦と「わざ」が浮き上がって見えて来るからであり、もう一点は「モノ」特有の物理的な手ごたえ、という表現についてである。

 昔から言われているように、「百聞は一見に如かず」や「子を持って始めて判る親の恩」ではないが、世の中の大抵の事柄は、自分で経験して始めて「そうなのか」と納得させられるものである。知識といわれるものの大半もそうであろう。その意味で、『知恵や文化の継承に最も大事なことは「モノ」である』と述べられたと解釈させられたからである。

 感懐がここまで辿りついた時、先の展示空間における文選ケースや植字台を見たときの空虚感や、「大日本古記録」の組版原版を眺めた時の高揚感に、自分では十分に納得させられたのであった。


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