4.最大の被害者は子供たちであった

 この他に国語審議会が進めた改革は、音訓表の設定・教育漢字の制限・字体表の設定・送りかなの付け方などがあるが、それらのうち、改悪と思われる<音訓表>と<教育漢字の制限>について触れてみる。

◎【昭和23年2月16日「当用漢字別表」「同音訓表」内閣訓令・告示】
◎【昭和24年4月28日「当用漢字字体表」内閣訓令・告示】
◎【昭和26年5月25日「人名用漢字別表」内閣訓令・告示】
◎【昭和34年7月11日「送りがなのつけ方の実施について」内閣訓令・告示】

 「当用漢字別表」というのは俗に言う教育漢字のことで、義務教育で教える範囲のことである。この時点で定められたのは当用漢字の半分以下の881字である。そして「同音訓表」というのはその音読み・訓読みを定めたものである。
 この時点でおかされた大きな誤りは、<一つの字にいくつもの音訓があるため学習の負担が大きくなる。故に音訓を極力制限して合理化する必要がある>という一見尤もらしい判断だったのである。
 たとえば「母」という漢字が、「ハハ」と読めたり「ボ」と読めたり「おカアさん」と読めたりするのは複雑だから、前の二つを残して「おかあさん」という使い方を制限した、という姿勢のことである。ところが実際にはその逆で「母」という文字に幾通りものヨミがあるのは複雑だという考え方こそ正に正反対で、「ハハ」「ボ」「おカアさん」と使っていた女親という同一概念の言葉を一つの漢字で間に合わせているとするのが正しい見方なのだろう。
 漢字本来の役割を<一つの漢字が幾通りにも読める>とのみ解釈するのではなく、逆に<幾つもの同じ意味の言葉を一つの漢字で間に合わせる>と理解すれば、複雑なのは言葉であってその複雑で豊かな言葉を整理する働きをしているのが漢字である、ということが解ってくる。
 この他にも「魚」の字は「ギョ」「ウオ」とだけしかその音訓を認めなかったから「魚屋」は「さかなや」とは読めないのである。同じ意味で「街」には「カイ」の発音を認めなかったから書くときには「かい道」となり、「除」に「ジ」がなく「掃じ」と書かなければならないといった不当な制限である。

 だがそれよりももっと大きな誤りは「当用漢字別表(教育漢字)」として、小学校の6年間に教える漢字数を881字に制限したことである。しかもそれを学年ごとに配当し、その学年にならなければ教科書に出現しないため、同じ熟語で使われる文字も「妹・弟」が2年で「兄」が3年「姉」が4年と食い違ったり、3年生では「ぜん悪」であり5年でやっと「善悪」と教えられたというのである。
 漢字というのは組み合わされて教えられてこそその文字の持つ本来の意味が理解され、教える側にとっても教えられる側にとってもその方が効果的である。
 たとえば「動」の文字も<動力・動物・運動・自動・移動>と使われたり、「道」という文字も<道路・水道・鉄道・国道・柔道・剣道>と教えられてこそ、その使い方・使われ方の意味がよく解る。
 現在の小学国語のように「えん足」と教えられたり「水どう」と教えられたりするように、仮名の間に漢字が顔を出すような教わり方では文字を覚えられるはずはない。字形がその学年で難しいというのであればルビを振って教えればよいのであって、一年生で「どうぶつ」と教えたところで少しも易しくはない。それよりも「動物(どうぶつ)」と教えることは同時に「動く物」と理解させることもできるはずである。

 もともと漢字というものはまず読めさえできればいいのであって、書くのは必要に迫られたとき手段などは幾通りもあるものだ。それが読み書きを同時に覚えなければ学習の意味がないという理由からか、教える文字数を制限したために、結果として読み能力を含め漢字全体の理解能力が衰えていったのである。現代の<マンガ世代>の出現もこんな所に原因があるのだろう。
 そのマンガもこのごろはルビを振って子供に自然と漢字を覚えさせているという。教えるはずの学校では教えられず、マンガを読んではじめて文字を覚えるというのはそれこそ<マンガ>そのものであろう。


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