2 . も う 一 つ の 活 字 の は じ ま り

 前項で私は、世界で初めて《活字》なるものを発明したという、この「畢昇」の技法が一般化されずにその跡を絶ったと記したが、本当はその技法はお隣りの朝鮮に伝えられ、その後見事に発展して結実している、というのが定説となっている。

 ところが、<活字の起源>と目されているものに、実はこの畢昇の発明した、高さの低い「薄ゴマ」スタイルによるものと別個に、同じ中国人が「高ゴマ」スタイルの活字による組版方法を考案していたのである。

 それは、先の畢昇の発明よりくだること270年、モンゴル王朝時代の1313年に、「王禎」という人が、当時までの中国の印刷の歴史について簡単な展望を記すと共に、 自分の編纂した書物を印刷しようと試みて、工人に命じて《活字》を作らせているのである。
 その記述をよくよくみると、正にもって、現代の「活版術」の基礎となるポイントが充たされているのに驚かされたのである。
 誤解を恐れずに、その内容を転記してみると次の如くである。(この項は平凡社東洋文庫『中国の印刷術(2)』より転載した)。

『むかしはすべての書物は写本であった。学者は書物を写して伝えるのは難しいことであるのを知っており、書物を所蔵することは金のかかることと考えられた。
 五代のあいだの 931年〔後唐明宗の長興二年〕に宰相馮道は李愚とともに上奏して、国子監の長官田敏に命じて九経を校正し、それを木版に彫って印刷して売るように要請した。皇帝はその命令を下した。これが木版印刷のはじまりであった。これ以後、印刷された文献の使用は帝国内で広まるようになった。しかしながら版木や手間に多くの経費がかかり、そのため大きな精力を傾けないと、ときには一冊の書物の版木も数年を費やさなければ完成しなかった。印刷に値する書物があっても、工賃が不足したためしばしば印刷し出版することができなかった。

 後代になってすぐれた工夫を発明した人があった。彼は行界を区切る植字枠を鉄でつくり、それに冷えると固くなる液状タールを注いだ。これを弱火にかざして少し溶かし、十分に焼き固めた陶土活字を枠にならべ、そこで整版し印刷した。この方法が十分に実用的でなかったので、一歩進んで後には陶器の植字枠がつくられ、焼きあげた陶土活字を薄い粘土の中にならべた。この枠が焼きあげた陶土活字で一杯になると火に入れ、全体が一つの固い塊になるまで焼くと、それはちょうど木版と同じように印刷に使用することができた。
 近年には活字は錫を鋳造してつくられた。それらに鉄線を通して、枠の行に固定し、書物を印刷した。しかしこれらの活字は容易にインキがつかないし、またすぐに印刷中にこわれる。そのためにこの活字は長くは使えない。

 しかし現在では、さらに正確でさらに便利なもう一つの方法がある。植字枠は木でつくられ、長い竹片が行間を区切るのに使われる。そして板木に字を彫って、一字一字が分離するように、小さなよく切れる鋸で板木を四角に切り分ける。これらの分離した文字の四辺は小刀で仕上げられ、それらが正確に同じ高さと大きさになるよう比較し検査される。そして活字は枠の行間にならべられ、用意された竹片が活字のあいだに押しこまれる。活字がすべて枠の中にならべられた後で、すきまに木片を詰め活字が完全に固定して動かないようにする。活字がすっかり固定すると、インキを上に塗り印刷をはじめる。


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