6.わが国の社会に与えた影響

 先に私は、「活字の世界(2)」において、後陽成天皇による「慶長勅版」刊行の第一号に『勧学文』が採り上げられたのは、当然とも言える事由があったと説明した。
 ここにおいてもまた、儒学者である小瀬甫庵がこの『補注蒙求』をその刊行のトップに選んだのも、さもありなん、と言う感じなのである。
 ともあれこの『補注蒙求』が、わが国の社会にどんな影響を与えていたのかのエピソードを一、二紹介しておきたい。

 その一つは、「石に矢の立つためしあり」で知られる逸話は、第168句の「李広成蹊」の補注に出てくるのであり、夏目漱石の号の由来である「流れに枕し石に漱ぐ」はこの蒙求の第71句の「孫楚漱石」にその出所があるのである。
 また「助けた亀に連れられて」の浦島太郎の寓話や、「子供の教育のため家を三度遷った」という孟母三遷の教えもこの蒙求で語られているのである。
 このほかにも影響を受け引用されている説話も数多く見受けられるのだが、これ以上の記述は蛇足に過ぎるのだろう。


お   わ   り   に

 私がこの稿を纏め得たのは、次のような僥倖と幸運に恵まれたからである。
 それは、近畿大学中央図書館の森上 修先生から「視点を変えて、その組版の技術的な解釈を……」と求められたのがきっかけである。
 先生は数十年来の古活字版研究のテーマとして、国立公文書館内閣文庫の長澤孝三先生と<活版術の嚆矢>とされるこの『補注蒙求』を調査しておられたのであった。
 その成果は、最終的に平成2年11月「国立公文書館内閣文庫所蔵・文禄版補注蒙求を観察して」にまとめられたのである。
 この書は、両先生の恩師に当たられる長澤規矩也先生の十年祭祭奠の日にあたり、先生のご霊前に捧げられたものである。

 結果として、活字周辺に関する調査にはいささかなりともお手伝いできたのかという満足感と共に、一方ではこの本の意義あるところが「活字の世界」をたずね歩く筆者の思い入れを刺激し、両先生のお許しを得てこの一文を綴ったのである。
ここにそのご厚意とご寛容に感謝して筆を置く次第である。


(1989年<私家本>刊、1998年改定)


<参考文献>
「標題徐状元補注蒙求」
(小瀬甫庵版 文禄五年刊 内閣文庫所蔵本)
「蒙求(上)(下)」
(早川光三郎著 明治書院刊 昭和62年第8版)
「国立公文書館内閣文庫所蔵・文禄版補注蒙求を観察して−恩師長澤規矩也先生の御霊前に捧ぐ−」
(受業 森上 修、長澤孝三ほか 平成2年11月)
「小瀬甫庵版・補注蒙求の調査雑感−その印刷面を熟視して−」
(山口忠男著 私家本 1989.5)



活字の世界(3)
小瀬甫庵版・補注蒙求のこと
山口 忠男・著
印刷・1989年
<私家本>


前ページへ
ホームの目次へ