3.甫庵がこれを刊行のトップに選んだ理由?

 今を遡ること400年、戦国の混乱を制して天下統一の夢を果たし、一世を画したのは豊臣秀吉であった。
 秀吉は晩年になって思いもかけず、その子秀頼を得たことにより、後継者でもあり肉親でもあった関白秀次を高野山において自刃に追い込むのである。

 実は小瀬甫庵というのは、その秀次に仕えた侍医であった。史実によると秀吉は、三条河原において秀次の側近や妻妾ら、幼子をも含む30余名の命を奪ったといわれている。そんな狂気の中で侍医であった小瀬甫庵が無事であったのは、おそらくは秀次の追放時には失職し無縁の人となっていたのであろう。
 後年彼は『信長記』や『甫庵太閤記』などの著者として有名になるが、もともとは医者であり儒学者でもあり、いうところの多才な人物であった。

 その甫庵が、何をきっかけとしてその道の先駆とされる<古活字版>の刊行を試みようとしたのかはよく判らない。
 <真理は万人に求められることを欲し……>という岩波文庫の高踏な心境か、あるいは学習塾の先生のように手作り教科書を作って寺子屋でも開こうの思いでもあったのか。
 いずれにせよ、かれは先人未踏の技術の分野に踏み込んで、木活字を1本1本作成し、それで組版しながら初めて刷ったのが実はこの『補注蒙求』なのである。

 彼がどこからこの技法の知識を得、どれほどまでの探求心をもってこれを実行に移そうとしたのかはよく知らない。が、それにしてもその時に浮かんだ着想と好奇心、そしてそれを実行した思い切りのよさには感心する。

 西洋でのこの道の先駆者であるグーテンベルクは、貴族として残された父の遺産も使い果たしスポンサーを求めて苦労したという。
 甫庵の場合それほどではなかったにせよ、上・中・下の三巻で296葉におよぶ『補注蒙求』を組版する場合、四字成句の大型字で延べ2384本、補注用の小型字で約80,000本を必要とする。今も昔も医者というのは結構裕福なのかも知れないが、それにしてもかなりな資金力を必要とする大事業である。このためのコマ数も<流用できる活字版>というメリットを差し引いても、半数近くは準備を要したに違いない。

 ここで少し私の思い入れを書いてみる。それは、彼がこの<活版術>を使って第一番に作成しようと考えた候補としては、この『補注蒙求』と医学書の宝典である『医学正傳』を天秤にかけてどちらを先に、と迷ったのに違いない。
 なぜならば翌年すぐに同じ方法で『医学正傳』を印刷し、医者としての名誉と出版技術の先人としての栄誉を確立しているからである。また、これほどの大事業に、彼を衝き動かさせたエネルギーの本当の源泉はどこにあったのか、という想像も興味のあるところであり私は次のように推定したいのである。

 時は文禄五年である。小田原での北条征伐を終えた秀吉は今度は朝鮮半島への出兵を決意する。後年世評では、彼のこの決心を老害と狂気の然らしむるところと評するが、いかんせん権力者には抗すべくもなく出兵は強行されたのである。
 また一方では、聚楽第から醍醐の花見へと続く非常識なまでの浪費に包まれた権力者としての奢りや金権偏重の浮薄な世界、さらにその裏ではへつらいとおもねりに身を誤って、肉親の秀次も死に追いやるという人間性を忘れた狂気など………。みるからに現代を写し取ったような、これら一連の秀吉の動きの中に末期的な世相を感じ取り、その浄化を次の世代の健全性に期待しようとした、「儒学者」としての甫庵の願望があったのだろう。


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