なお蛇足ながら、もっとも有名な『震畏四知』と『孫康映雪 車胤聚蛍』の原葉も併せて紹介してみたい。

図5参照=上巻第90葉〜第91葉

<第185句> 「震畏四知」(しんいしち)

後漢の楊震茂才に挙げられ、四たび荊州の刺史に遷る。東莱の太守として郡に之くに当たり、道昌邑を経るに、故挙ぐる所の荊州の茂才王密、昌邑の令と為りて謁見す。夜に至り、金十斤を懐にして以て震に遺る。震曰く、故人君を知る。君故人を知らざるは何ぞや、と。密曰く、暮夜知る者無し、と。震曰く、天知り、神知り、我知り、子知る。何ぞ知るもの無しと謂はんや、と。密愧ぢて出づ。性公廉にして、私謁を受けず。子孫蔬食し歩行す。故旧或ひは為に産業を開かしめんと欲す。震肯んぜずして曰く、後世をして清白吏の子孫たりと称せしめん。此を以て之に遺る、亦厚からずや、と。震安帝の時大尉と為り、中常侍樊豊の譖する所と為りて卒す。


 この話の教訓とする所はほとんどの人が知っており、故事物語や豆辞典などで繰り返し語られていることである。
 この「震畏四知」については、筆者自身<座右の銘>として人生の指針としていただけに、ここにその出典の拠り所を知ることができ暫くはその興奮を禁じ得なかったのである。
 最後にもう一点「孫康映雪 車胤聚螢」の原葉も紹介しておこう。

図6参照=上巻第94葉

<第193句> 「孫康映雪」(そんこうえいせつ)
<第194句> 「車胤聚螢」(しゃいんしゅうけい)

孫子世録に曰く、康、家貧にして油無し。常に雪に映して書を読む。少小より清介にして、交遊雑ならず。後に御史大夫に至る。
晋の車胤字は武子、南平の人なり。恭勤にして倦まず、博覧多通なり。家貧にして常には油を得ず。夏月には即ち練嚢に数十の蛍火を盛り、以て書を照らし、夜を以て日に継ぐ。………(以下略)  



 当時のわが国知識人たちが現代人と比べてみて、どれほどの読解力があったのかはよく知らない。しかしながら、日常の話言葉と異なる漢文をすらすらと読みこなし、詩歌や俳句に至るまで、ここから得た教訓を生かして表現していたというのだから驚きである。
 江戸時代、一般庶民が『いろはかるた』をよく諳じていて、日常生活で遭遇する場面で自分の処世訓としたごとく、この『蒙求』の本文(標題のように見える四字成句)を暗記して自分の生活態度としたのでもあろうか。

 ともあれ『蒙求』の良さについては幸いにも、懇切丁寧に解説された早川光三郎氏の名著があり(『蒙求』明治書院刊)、ぜひにご一読をと思うものである。

 ここまで随分と回り道をしたようである。以下に本題として<わが国最初の組版による古活字本>『甫庵版・補注蒙求』のことについて触れてみたい。


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