1.わが国でもてはやされた『蒙求』

 この『蒙求』がわが国にもたらされたのは、平安朝の初めごろと言われている。  記録によれば、元慶2年(878年)に、陽成帝皇弟の貞保親王が学習されたのが最初とされており、時の権力者である藤原氏が開いた「勧学院」では、貴族の子弟たちが毎日毎日お経のように、これを暗誦させられていたという。そのさまを「勧学院の雀は蒙求をさえずる」と評した人がいるのは、けだし妙である。

 ともあれどんな教科書であったのかを一口で紹介してみるために、小学館のジャポニカ事典で引いてみると次のように記されている。

<『蒙求』 中国の書、唐代中期(8世紀)の李瀚の選。3巻。書名は易の蒙卦の「童蒙(幼童の意)我に求む」にもとづき、児童用教科書としての意図を示している。体裁は、例えば『孫康映雪 車胤聚蛍』のように、一事項を四字一句に要約し、類似した二句を一対とし、かつ一句おきに韻をふみ、八句ごとに韻を変え、音調よく、記憶し易いように工夫している。596項目から成り、堯、舜の時代から南北朝に至る著名な人物の事蹟を広く採録。宋代に徐子光の補注本が出て以来、これが広くおこなわれているが、一見標題のように見えるのが蒙求の本文で、本文のように見えるのは、補注の部分である。>
と記述されている。

 「百聞は一見に如かず」とか。つぎにその原本の数葉を掲げながら紹介してみることにする。なお掲載する原葉図は、「国立公文書館内閣文庫所蔵本」を借用させて頂いたものである。


「2.文禄5年刊『甫庵版・補注蒙求』の抜粋」へ
前ページへ
ホームの目次へ