○飛行機雲



 白石は、目を細めて空を見上げた。ふと友人に言われた言葉を思い出して苦笑した。その友人は、かれのことをよく空を見る男だなと呆れたように言った。癖になっているのだ、かれは思った。かれが空を見上げるのは晴天の日にかぎられ、それは飛行日和にも通じる。
 かれは、戦時中名古屋の高射砲隊に属し、その地区に来襲するアメリカ爆撃機の行動を妨害することにつとめていた。白絹のような飛行機雲を幾筋も曳いて高々度の空を飛んでゆくB29の編隊。それは、晴れた空の眩ゆい凝固物のように輝いていた。高射砲弾は、辛うじて一万メートルほどの上空にしか達しない。高空をゆくB29に命中することは望めないが、それでも砲弾が至近距離に炸裂し、敵機を撃墜させたこともある。
 (吉村昭 著「総員起シ」より引用)


 太平洋戦争において日本本土がアメリカに爆撃されたのは、昭和17年4月のドゥーリトル中佐率いる16機のB-25によるものが最初だが、その後しばらくは空襲に脅かされることはなかった。
 しかしアメリカの長距離爆撃機ボーイングB-29の開発により、昭和19年に入る頃には、主に北九州の工業地帯が爆撃の対象となった。さらに昭和19年7月のサイパン島の陥落により日本各地が、爆撃の脅威にさらされるようになる。
 B-29は、高空でも地上と変わらない快適性を保つ与圧構造をもち、過給機(ターボチャージャー)つきの2200馬力エンジン4発を搭載し、1万2500メートルの高度まで上昇できる能力があった。
 当時の日本陸・海軍には1万メートル以上の高々度で進入する敵機をまともに迎撃できる戦闘機はなく、また地上からの対空砲火も、そこまで届く高射砲の配備は遅れていた。


 太平洋戦争当時、飛行機雲は当時の日本人にとって爆撃機の侵入を示す、歓迎されざる空の造形だった。しかし幸いなことに、こんにち我々が飛行機雲に抱くイメージは、”美しく”、”爽快なもの”へと変化した。





 青い空に、高高度をとぶ旅客機の引く飛行機雲が一条。現代の都会の背景として、爽やかで、絵になる風景だ。飛行機雲は人為的な成因によるものだけれど、雲の一種であることに違いはない。
 この飛行機雲がどうしてできるかというと、以下の三つの成因がある。

1.ベイパー
 そのひとつが、翼の端部などの局部に発生するもの。
 湿度の高い日に滑走路から離陸してゆくジェット機のフラップ付近や翼端に、ベイパーと呼ばれる白い雲(白い筋と言ったほうがいいかもしれない)が見えることがある。
 特に翼端付近は、翼の下面から上面に巻き込む向きの、大きな渦が発生している。この渦の中の空気は急激に膨張して圧力と温度が下がるため、周囲の空気中にもともと含まれる水蒸気が凝結して、白く見えるのだ。

 この類の白い筋は、ジェット戦闘機などが急激な機動を行っているときにも良く見られる。飛行機が急激な機動を行っている時というのは、即ち翼が大きな揚力を発生しているときで、それに比例して翼端に発生する渦の強さも大きくなり、水蒸気が凝結しやすくなる。
 この白い筋は飛行機以外にも、例えばレーシングカーのウイングの端にも見えることがある。

 ただし、こうしてできた白い筋は翼付近の空気の急激な流れによるものなので、翼から離れると、たちどころに消えてしまう。一般に飛行機雲と呼ばれているものとは、ちょっと違うかもしれない。


2.排気ガス中の水蒸気によるもの
 ふたつめは、エンジンの排気ガスに含まれる水蒸気が、周囲の冷たい空気に触れて冷やされ雲になるケース。
 エンジンの燃料は、ケロシン(灯油)やガソリンなどの化石燃料が使われている。これら化石燃料は、燃焼するときに水蒸気が発生する。よく自動車のマフラーからポタポタと水滴が落ちるのを目にするが、これはエンジンの排気ガスに水蒸気が含まれている何よりの証拠だ。

 一方、高度1万メートルの高空は、たとえ夏でも気温がマイナス40〜50℃と、かなり低い。
 ここへ高温高圧の排気ガスが放出されると一気に冷やされ、排気ガス中の水蒸気が凝結して小さな水や氷の粒になる。それが飛行機雲として、我々の目に見えるというわけだ。

 こうしてできた雲は、しだいに周囲の空気と交じり合い、蒸発しながら消えてゆく。やがて消えてしまう飛行機雲は、こうして出来る。


3.排気ガス中の微粒子によるもの
 三つ目の成因は、排気ガスに含まれる煤塵や窒素酸化物(NOx)、硫黄酸化物(SOx)などの微粒子を核として水蒸気が凝結し、雲となるケース。

 清浄な空気よりも、上記のような微粒子がある方が水蒸気は凝結しやすい。上空の空気がある程度湿っていれば、エンジンの排気ガスが放出されると、待ってましたとばかりに排気ガスに含まれる微粒子を核として水滴や氷粒が次々に作られ、雲となる。

 こうしてできた飛行機雲はすぐに消えることは少なく、長く続く。場合によっては、その飛行機雲が次第に広がってゆくこともある。それは上空の空気が湿っていることを示唆しており、天気が悪くなる前触れだったりする。




 青空に一直線に引かれた飛行機雲は、とても美しい。
 しかし現代でも、その景観に見とれてばかりはいられない別の問題がある。この飛行機雲が、近年の気温上昇の原因であるという米航空宇宙局(NASA)の調査報告があるのだ。
 この報告によると、高々度を行き交うたくさんのジェット旅客機によって作られる飛行機雲の影響により、地表の温度が10年につき0.2〜0.3℃の割合で上昇しているのだという。[原文:Clouds Caused by Aircraft Exhaust May Warm The U.S. Climate (2004.4)]


 雲は、地表の気温に影響を与える要素のひとつだ。
 雲が地表を覆っていると、太陽からの日射を遮って地表を冷やすし、逆に、地表から宇宙へと逃げてゆく熱を吸収して地表を暖める温室効果もある。

 飛行機雲のような大気上層の雲は、どちらかというと地表を暖める効果のほうが強いらしい。人為的な原因で作られる飛行機雲が特定の地域・特定の高度に長時間滞留することにより、何らかの気候的な影響があっても不思議ではないのかもしれない。





○撮影データ(ページ上の写真より)
・1枚目  日時:2004年8月2日   場所:東京都中央区
 カメラ:コンタックス T3  レンズ:カールツァイス ゾナー 35mm F2.8
 フィルム:フォルティア  その他:絞り優先 F5.6
夕方、聖路加タワー上の飛行機雲。長さは短く、すぐに消えてゆきました。

・2枚目  日時:2002年12月15日   場所:東京都品川区
 カメラ:ペンタックス MZ-5  レンズ:ペンタックス SMC FA Zoom 28-70mm F4AL
 フィルム:ベルビア  その他:シャッター速度優先1/250秒
第一京浜、南大井二丁目。上空が湿っているとき、飛行機雲はいつまでも残ります。




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