鳥になった時

5.鳥になった時



 私はこの加速と、全身に感じる空気の感覚により作り出される圧倒的なこの体験に呆れてしまった。それは今まで経験した全てのものを上回る迫力を持っていた。

 インストラクターが私の肩を叩く。前に組んでいた手を広げろという合図だ。
それに従い、手を広げてみると全身に空気の重さを感じる。落下速度は約時速200キロ。生身の人間がこれだけの速度を経験できるものは滅多にない。手や顔に当たるのは風なんていう生易しいものではなく、轟音を持って押し寄せてくる壁そのものだ。

落下中の子

 車で高速道路を走っている時、窓を開け、手を出してみたことがある。驚くような力で見えない空気の力を感じた。バイクで走っている時も全身でそれを感じた。まただいぶ前、ブラックバス釣りに凝っていた頃に200馬力のエンジンを積み、時速100キロで滑走できるボートを運転し、息もできないような空気の圧力を感じたこともある。しかし今度のはその倍のスピードだ。しかも落下しているのだ。

 思っていた程ではないが、風を切る音がゴォーーッと響く。我々の体は地球の引力に引かれ、加速しながら落下しようとしている。しかし、時速200キロというスピードにより生じるこの風圧により、これ以上加速することはない。空気抵抗という透明な壁に支えられているのだ。それでいて空気に「押さえつけられている」という感覚もないし、息苦しくもない。(もっとも、息ができなかったとしてもたったの30秒なので、どうってことはないのだが。)
 ただ下の雲がせり上がるように近づいてくるのと同時に、さらにその下に見える島の建物や道路といった細かい構造物が次第にはっきりと見えてくるのがわかる。

上から撮影  冷静に考えてみれば紛れもなく落下しており、地面に向かって突っ込んで行ってるのが分かるのだが、それとは別に、手を広げ鳥のように飛んでいるような感覚さえする。

 この時実は密かに、このままあの白い雲に突入したらどんな感じなのかな、と少し期待していたのだが、幸か不幸か下方に雲はなく、珊瑚礁の薄青緑色の海に縁取られた陸地が広がっていた。
 その陸地は先ほど注視した時よりも、はっきりと構造物が見えてきた。時が経つにつれ、陸地が大きく広がってゆく速度が早まってゆくように感じられる。


パラシュート開傘  そろそろだなと思っていると、軽い衝撃を感じた。パラシュートを出したのだ。私からは見えなかったが、この時インストラクターの背中にあるコンテナから、畳まれているパラシュートが伸びて行っている所だった。
 そしてそのラインが伸び切ると、パラシュートは風を孕み、次第に開いてゆく。
 完全に開き切るまでは数秒かかる。時速200キロという速度でいきなりパラシュートを開くと大きな衝撃を受けるため、これはわざとそうなっているようだ。

 何度かの減速Gを感じたあと、ふと気づくと体を包んでいた風の音が無くなっていた。上を見上げるとカラフルな四角いパラシュートが奇麗に開いている。ああ、良かった、ちゃんと開いている。

 パラシュートが開かないなどという事態は滅多にあることではなく、万が一そんな事態になった時のため予備のパラシュートまで装備しているこのスカイダイビングでは、そのまま地面に突っ込むなんていう可能性は皆無に近い。それは充分わかってはいるのだけれど、やはりこの時はほっとする瞬間だった。

 落下していた時間は、正確に時計で測ったわけではないが、約30秒といったところだろう。落下速度を時速200キロ一定とすると、その時間で約1700メートルを一気に降下したことになる。それでも、まだ地上まで1000メートル以上の距離を残している。

 我々のパラシュートは、ゆっくりと空に浮いている。今までとはまるで違った静かな空中散歩の時間だ。このパラシュートはインストラクターの両肩のあたりに接続されており、別に設けられている左右のトグルを引くことにより自由に進行方向を変えられる。この点、私がいつも楽しんでいるパラグライダーとそっくりだ。いや、正確には、パラグライダーがスカイダイビングのパラシュートにそっくりなのだが。
 ただ、スカイダイビングは高速自由落下状態からの安全確実な開傘を、パラグライダーは自由落下から開くことをしない代りにより速く、より遠くへといった翼としての機能を目的に進化していった。それぞれ目的と用途が異なっている。


 それにしても、周りの景色が美しい。緑豊かな陸地と、美しい珊瑚礁の海。空は青く透き通っており、質感のある白い雲が上方に浮かぶ。この景色を眺めているだけでも、満足できそうだ。

 感心しながら周りを見回していると、インストラクターがトグルを渡してくれた。自分で操縦してみろと言う。早速やらしてもらうことにする。片方のトグルをぐっと引くとバンクがつき、いつも乗ってるパラグライダーに比べてかなり大きな沈下を感じると共に、旋回してゆく。この感覚、少し昔のタイプのパラグライダーと一緒だ!

 しばらく右へ左へとその操縦感覚を確かめた後、片方のトグルをそのまま引き続けて連続旋回に入れてみる。パラシュートは同じ方向へぐるぐる回り出した。トグルを引くのに思ったよりも力が必要なので遠慮がちにやっていると、インストラクターが手を添えてさらに引き込んだ。途端にバンク角が深くなり、回転速度が早まる。パラシュートのあたりを軸にして、ぶら下がっている我々が紐の先に付けた玉のように振り回され出した。同時に強い遠心力を感じる。パラグライダーでは「スパイラル」と呼ばれるこのスリルたっぷりの連続急旋回は、主に急激に高度を下げたい時に使用する。このパラシュートでも、同じように回転しながらどんどん高度を下げてゆく。
 強く下方へ押さえつけられながら、そのGに耐える。しばらくそれを続けた後、引いていたトグルを戻しつつ、反対側のトグルも引いて回転速度を落とし、通常の直線飛行に戻る。


 そんな飛び方ばかりしていたので、すぐに高度は下がり、そろそろ着陸を意識する高さになってきた。サイパン南西部のススペ地区、その外れにあるビーチロード沿いの運動場が着陸地点だった。空中でインストラクターがあそこだと指差す。見ると緑の森と点在する建物の中に、その運動場の四角い土地が見えた。彼はさらに運動場にあるトラック内に吹き流しが置いてあり、それによると風向きは海方向からだと言う。ちなみに空中では風向きが分かりづらいことと、着陸は必ずアゲインストつまり風上に向かって行う必要があるために地上にある吹き流しは重要な情報源になっている。しかし私の目には緑色の運動場のほぼ中央にあるその吹き流しらしきものは確認できるのだが、それがどちらにはためいているかは判別できなかった。
 その間にも次第に高度が下がってゆく。彼は運動場の上空近くに達すると左に旋回し、風下方向へ流す。ようやく私にも吹き流しの様子が見えてきた。パラシュートは追い風に乗り、一旦内陸方向へ回り込む。そうやって着陸進入に丁度いい高さになると今度は右へ180°旋回し、進行方向を風上に向けた最終進入体勢に入る。旋回したことにより高度はぐんと下がり、運動場が眼前に広がってきた。

パラシュート  地面に近づいてくると、このパラシュートが結構な勢いで降下していることがわかる。このまま何もしないで着地したとすれば、かなり痛そうである。
 しかし、さすがはパラグライダーのご先祖様。両方のトグルを引く「フレアー」の操作により降下速度がガクンと落ち、我々はきれいに芝生の敷かれた運動場の中央に降り立った。

 驚いたことに、我々より一組先にジャンプしていっただけのカメラマンがすでに着地していて、我々を撮影していた。

 それになぜか、タンデムでは一番最後にイグジットしたはずの我々が最初に着地している。どうやら急旋回ばかりやっていたため他の組を追い越してしまっていたようだ。


 空を見ると青い空にモクモクと沸き上がる雲を背景に、カラフルなパラシュートが次々と降りてくるところだった。それを見上げながら私はこの素晴らしい体験をする機会に恵まれた幸運に、感謝していた。


−おわり−


PHOTO: SKYDIVE SAIPAN INC. STEVE V/S



ページ最終更新:1998/4


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