ウイットネス・リーの間違い

特に目立つ彼らの間違いは次の六つです。
  1. 三位一体論
  2. 原罪論
  3. 教会論
  4. 救済論
  5. バプテスマ論
  6. 使徒論

  1. 彼らの三位一体論は一神三様論と呼ぶことができます。彼らは、御父も御子も聖霊も同じ唯一の神が時と場合に応じて自身を変化させて現わした、三様の表現であると言っています。すなわち唯一の神がある時には父なる神になり、ある時には御子になり、ある時には聖霊になると言うのです。これは極めて非聖書的な三位一体論です。
  2. 彼らのリーダーであるウィットネス・リーは彼の著作の中で罪とはサタンであると語っています。アダムが罪を犯した時、サタンがアダムの中に入ってきて、罪となった、だから罪とはサタンの性質である、と主張しています。従って、サタンは罪という姿で、キリスト信者の肉の中に存在すると語っています。この表現は非聖書的です。
     またウィットネス・リーは、肉体と、アダムからの古い人間性を意味する肉とを混同しています。
  3. 彼らは、一地方、一都市に一つの教会しか存在してはならないと言います。そして彼らの教会のみが真の教会であると主張します。聖書には、「コリントにある神の教会へ。」とあり、その「神の教会」が単数であることがその理由です。
     しかし使徒の時代の教会の形態と現在とは非常に異なっていることを私たちは認めなければなりません。事実、時代は変わってもキリストのからだである教会は地上に一つしかないことには変わりありません。そして使徒の時代では、全てのクリスチャンは、キリストにあって一体であるという事実に立って、何処にいても、「神の教会」と呼ばれる一つの交わりを保っていたのです。ですからコリントの町に数個の集会があっても、その町の全信者宛には「コリントにある神の教会へ」と書けばこと足りたのです。
     しかし、「神の教会」に分裂が生じてしまいました。異端も入り込んでしまいました。全信者がキリストにあって一体である真理の証が壊れてしまいました。現在、クリスチャンの中に無数の分派、教派、教団が出来てしまっています。
     それですから、私たちは謙遜に、自分たちがキリストの一つのからだの真理を証することに失敗した失敗者であることを認め、世界的規模では不可能でも、個々の地方教会において、キリストにあって私たちが一体である真理を具体的に表現することに努めるべきであるのです。
     ですから、自分たちこそ真の、唯一の「神に教会」であり、そこにのみ聖霊が働いておられると主張することは、他のクリスチャンの集まりは「神の教会」ではないと言うことになり、極めて非聖書的と言わなければなりません。
  4. 彼らは、人はキリストを信じる信仰とバプテスマによって救われると語っています。マルコ16:16をその根拠としています。  
     「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」
     この聖句は、原語のギリシヤ語から判断すると「信じる者、すなわちバプテスマを受ける者」という意味であり、バプテスマを受けることと信仰の告白が同意義に用いられているのです。そしてそれに続く「信じない者は罪に定められる」というみことばと合わせて理解するとき、この聖句の全体の意味が分かります。キリストを信じた者は、特殊な場合を除いて、全てバプテスマを受けるのは当然です。そして罪に定められる者は「信じない者」であって、バプテスマを受けない者ではありません。新約聖書全体の教理から、救いはキリストを信じる信仰によるということは明白です。バプテスマを受けることによって救われると言う教えは非聖書的です。
  5. 彼らは、キリスト信者が「父・子・聖霊の御名」によってバプテスマを受けるとき、その信者は三位一体の神の中に「入れられる、一致させられる。」と、意味不明のことばを用います。私たちは、キリストを信じ救われ、バプテスマを受けることによってキリスト信仰を公に告白し、キリスト信者の群れの中に加えられます。またキリストを信じたとき、聖霊によってキリストのからだである教会の中に入れられ、その一部とされます。彼らの「三位一体の神の中にバプテスマされる」という表現は、非聖書的です。
  6. 彼らは、彼らのリーダーであるウィットネス・リーを現代の使徒であると認め、また彼自身もそれを主張しています。特定の人を、使徒パウロやペテロのような権威ある者と認め、またその言葉を聖書の使徒と同列に置くことは、全ての異端の集まりがやることです。