死後に救いのチャンスはあるか?

 最近、久保有政氏という人物が、レムナントという雑誌を発刊し、それによって、キリストを信じないで死んだ人々も、死後ハデスの中で悔い改め、最後のさばきの時福音を聞いてキリストを信じるチャンスがあり、救われえると宣伝している。
 このような異端の教えは、過去にもしばしば現われては消え、消えては現われて来た。それはモルモン教、ローマ・カトリックの教理と共通しており、聖書全体の教理と全面的に衝突する。 彼はTペテロ3:16〜20とTペテロ4:6を根拠とし持論を展開しているが、はたしてこれらの聖句が彼の主張を支持しているのだろうか。結論から言えば否である。

 彼のこれらの聖句解釈の背景には、彼独特の思想(現代のニューエイジ思想にかぶれた人間主体主義、すなわち、ヒューマニズムと人間中心の相対主義−−聖書の絶対性すなわち神の絶対的主権を排除したあいまい主義)があり、それに合わせて、これらの聖句を解釈し、あたかも自分の考えが福音伝道に貢献しているかのごとくに思い込んでいるのである。
 しかし、この考えは、ニューエイジ思想に強く影響を受けている現代の青年信者に非常な悪影響を与えることは明白である。また間違った聖書絶対主義である「エホバの証人」から脱出して来た人々に与える動揺は恐ろしいばかりであると思われる。元エホバの証人たちは、「エホバの証人」の組織絶対主義、「エホバの証人」の誤った聖書絶対主義から、正しい聖書教理に立った聖書絶対主義、神絶対主義に帰らなければならないにもかかわらず、帰って釆たキリスト教会に、このようなとんでもない相対主義が幅を利かせていることを見たならば、彼らはどのようなショックを受けるだろうか。

 これが彼ひとりの考えで止まっているならば、たわごととして無視もできるが、この思想を書籍を通して公にし、初信者を惑わし、特に仏教の教理と相通じる点で、日本人キリスト者を不健全な教理に走らせ、偶像礼拝からの分離を鈍らせているという事実がある以上無視することはできない。
 また特に元エホバの証人たちが、教会内に死後のさばきについて、このように異なった教えがあることを知った時に非常に大きなダメ−ジを受ける事を考えるならば、私たちは黙っているべきではない。
 特に、彼は「神道は偶像礼拝ではない」と言い出している。(レムナント97年2月号)さらに彼はプロテスタントもローマ・カトリックも近い将来合同するだろうと発言し、それが必然的な流れであると語っている。(レムナント94年5月号)
 ローマ・カトリック教会の法王ヨハネパウロ二世は1997年に進化論を科学的事実と認定し、1997年2月には世界に終末はないと宣言した。
 彼がそのようなローマ・カトリックとの合同を認めることは、進化論を事実と認めることであり、終末をも否定していることになる。彼は自分の機関紙レムナントでは進化論を否定しているが、このような矛盾を見るときに、はたしてそれが彼の本心であるかは極めて疑わしい。

 彼の考えを列挙しよう。

  1.  人はキリストを信じただけでは救われない。神に忠実でなければならない。信仰とは神に従う事である。(これはアメリカのジョン・マッカーサーの危険な主張と同じである。)
  2.  ガンジーのような善人、聖人はキリストを信じないで死んでもさばかれない。ハデスの慰めの場所に行って、慰められている。そして最後の審判のとき、天国にはいることが許される。だから善人は、その善行のゆえに、死後にも 救いのチャンスがある。すなわちハデスでキリストを信じることがあり得る。
  3.  人が未信者として死んでも、なお救われる機会があると語った方が、デメリット(不利益)よりもメリット(利益)がある。

 以上が久保有政の主張のあらましであるが、これ程キリスト信仰の根本教理に反する教理は、エホバの証人やモルモン教の教理と同様であり、他に例を見ない。これはメリット、デメリットの問題ではない。これは聖書の権威の問題である。

 では、一番問題になっているペテロの手紙第一3章18〜19節はどのように理解すべきだろうか。
 「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉において死なれ、霊において生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」ペテロの手紙第一3章18節

 「肉において死なれ、」‥‥誰にも明白であるように、キリストが肉体をもって十字架の上で死なれたことである。
 「霊において生かされて」‥‥このみことばの意味は、それに続く「私たちを神のみもとに導くためでした。」とともに理解されるべきである。キリストが「霊において生かされた」のはハデスにいる者を神に導くためではなく、「私たちを」である。すなわち地上にいる者を神に導くためである。ペテロの手紙第一2章24,25節がこれを支持している。だから「霊において」は、むしろ「御霊によって」と訳されるべきなのである。すなわち、キリストが御霊の力によって復活されたことを意味している。

 「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。」ペテロの手紙第一3章19節

 「その霊において」‥‥これは原文のギリシャ語では前節の「霊において」の霊を先行詞とする関係代名詞で表現されている。だから前節の「霊において」と同様、「御霊によって」と訳されるべきなのである。
 「捕らわれの霊たち」‥‥原文では「獄中の霊たち」である。すなわちペテロがこの手紙を書いたときにもこの「霊たち」は「獄中」にいたのである。そしてこの「霊たち」は、次節が語っている通り、ノアの時代に神のみことばに従わなかった「霊たち」のことである。ではキリストが御霊によって、彼らのところに行って、みことばを宣べられたのは、何時のことであったのであろうか。これは
 「彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、またどのような時をさして言われたのかをしらべたのです。」ペテロの手紙第一1章11節と調和させて理解されるべきである。すなわちキリストは、ノアの大洪水の前、御霊によってノアを通して、その当時の人々に、みことばを語られたのである。
 この聖句は、決してキリストが十字架上で死なれた後、復活までの間にハデスへ行かれて、そこにいる霊たちに福音を語られたとは語っていない。

 次にペテロの手紙第一4章5,6節の解釈であるが。  「彼らは生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。」ペテロの手紙第一4章5節

 「彼らは」‥‥前節からの続きであるから、これは肉欲の欲しいままに歩んでいる異邦人たちのことである。
 「生きている人々をも死んだ人々をも」‥‥ことば通り、肉体的に生きている人々と死んでいる人々のことである。

 「というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊において神によって生きるためでした。」ペテロの手紙第一4章6節

 「死んだ人々にも」‥‥このことばの前にある「というのは」が、この「死んだ人々」が肉体的に死んだ人々−異邦人もユダヤ人も含めて−すべての人を指していることを明白にしている。
 「福音が宣べ伝えられていた」‥‥もちろん「死んだ人々」が死ぬ前、まだ生きていた時、彼らに福音が宣べ伝えられたのである。
 「それはその人々が肉体において人間としてさばきを受けるが」‥‥この「さばき」が問題である。このみことばはTヨハネ4:17「このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、わたしたちもこの世にあってキリストと同じようなものであるからです。」と調和させて理解されるべきである。この「さばき」とは、肉体の死を意味している。「死」はアダムが犯した罪に対するさばきとして人類に与えられたものである。私たちもキリストの再臨の日、すなわち「肉体の贖いの日」までは、この「さばき」をアダムの子孫である人間として受けなけらばならない。
 「霊において神によって生きるためでした」‥‥これには二つの解釈が可能である。キリスト信者は、肉体的に死んでいても霊的には決して死んでおらず、天で生きている。
 もう一つの解釈はこうである。キリスト信者は肉体において死んでも、キリストの再臨の日に、「御霊によって」よみがえらされる。
 どちらの解釈にしても、キリストを信じないで死んだ人々に、特にノアの大洪水の前に死んだ人々に福音が宣べ伝えられたという解釈は全く成り立たない。そのような聖書全体が語っている真理に反する解釈は、デタラメな「勝手気ままな解釈」として排斥されなければならない。

 救いに関して聖書が語っている真理は次のとおりである。

  1.  救いは100%キリストの血による贖いよる。であるから信仰によるのであって、決して行ないにはよらない。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」エペソ人への手紙2章8,9節
  2.  キリストを信じないで死んだ者には、死後に救いのチャンスは聖書の言葉の上で明確な保証はない。たとえ福音を聞かずに死んだ人々であってもある。「そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音にしたがわない人々に報復されます。」テサロニケ人への手紙第二1章8節
  3.  人のたましいの永遠の運命は肉体的に生きている間に決定される。キリストを信じた者は永遠のいのちを持ち、信じなかった者は永遠のさばきに入る。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」ヨハネの福音書3章18節「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく神の怒りがその上にとどます。」ヨハネの福音書3章36節「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」ヨハネの福音書5章29節

     久保有政氏のような人々は、「あなたの神は何と冷酷な神だろう。そんなことを言うと人々はつまずく。」という。その通りである。真理は人々をつまずかせる。十字架につけられたキリストは実にユダヤ人にとってはつまずきであったのである。キリストご自身が「つまずきの石、妨げの岩」なのである。人々がつまずくことを恐れて真理を曲げることは絶対に許されない。そのようなことを行なう者は「異なる福音」を語る者らであり、「かき乱す者たち」であり、「のろわれるべき」者らである。「他の福音と言っても、もう一つ別の福音があるのではありません。あなた方をかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。しかし、私たちであろうと、天のみ使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに述べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」ガラテヤ人への手紙1章7,8節

     もっと詳しくは山岸豊著「永遠の地獄」を読んでいただきたい。直接、ノア書房にご注文の方には、送料は出版元負担で送って頂けるそうだ。 (税込価格1,000円 大阪府堺市毛穴町98 電話0722-72-0116 FAX0722-73-0534)

     「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」テモテへの手紙第二4章3,4節 今は、世の終わりに近づいている。であるから久保有政氏のような人物が、ますます多く世に出て来るだろう。彼らはキリストを信じているようには見せかけているが、偽信者である。そして使徒パウロが語っている「十字架の敵」である。「というのは、私はしばしばあなた方に言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」ピリピ人への手紙3章18節

     特に、彼が、奥山実氏が旗振り役を務めている「聖霊の第三の波」に協力し、その伝道者養成のグループの一員として組織神学を教え、その波に乗っているという事実があるが、このことは「聖霊の第三の波」がどのような性格のものであるかを如実に示している。
     「聖霊の第三の波」の方々はこの問題に対し何らかの意見を示される必要があるのではないだろうか。
     このような汚れた「波」や「風」に、多くの信者がもてあそばれたり、吹き回されたりすることがないように、私たちは警戒の目をもって見張っていなければならない。

     どうかこの文を読まれる方すべてが、聖書が語る真理に固く立って、十字架につけられたキリストを熱心に宣ペ伝えられることを心から願う。
     「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」コリント人への手紙第一1章21節