超短編小説作品

遠いところへ


 具体的な不満や不安があるわけではないけれど、なんとなく今の 暮らしから離れてみたくなることがある。
 十一月に入ったというのに、季節はずれの台風が通りすぎた。 「中型で強い」台風だったらしい。今はカナダに留学している学生 時代の友人田中が、縦と横の尺度で台風の規模を表すのはすばらし い発想だと言っていたのを思い出した。もう一年近く連絡を取って いないが、田中は遠い国で今も微分方程式を解いているだろうか。
 夕方のニュースが台風の爪跡の映像を伝えている。なぎ倒された 街路樹、決壊した堤防、膝まで水に浸かっている父親に肩車されて はしゃいでいる子供。かなりひどい被害がでているところもあるよ うだが、僕の住んでいるあたりは暴風警報すら出なかった。だから 僕はその映像にまったく説得力を感じない。僕には遠いところので きごとにすぎない。
 小さい頃、よく祖父が昔の台風の話をしてくれた。屋根の上に避 難したとか、氾濫した川の水が二週間ひかなかったとか。同じ話ば かりで、幼い僕は話の内容をすっかり覚えてしまっていたのだが、 祖父は遠い昔のことを何度も話してきた。
 祖父は二年前に亡くなった。遠いところに行ってしまった。祖父 は亡くなる少し前、僕にこんなことを言った。
「わしは年寄りだから死ぬのはちっとも怖くないし惜しくもない。 でも、おまえはまだまだ死んじゃいかん。わしの生きた年くらいは 生きろ。なにがあっても死んじゃいかん。殺されたって死んじゃい かん。」
 そのとき僕は、台風の話のときよりも動きが鈍くなった祖父のく ちもとから目をそらし、黙ってうなずいた。僕は今も祖父の遺言を 守っていることになる。
 台風は真夏だろうと季節はずれだろうと、遠いところからやって きて、遠いところへ行ってしまう。田中も祖父も台風も、僕の知ら ない遠いところへ行ってしまった。
 きっと今僕がいるここよりももっといいところがあるんだろう。 田中も祖父も台風もそういうところを見つけたんだろう。僕にも見 つかるだろうか。ここになにか不満や不安があるわけではないけれ ど、ここを離れてみたらなにかあるかもしれない。僕も遠いところ へ行ってみよう。田中ともちがう、祖父ともちがう、台風ともちが う、僕だけの場所を見つけよう。
 ふと外を見ると、東の空の低いところに真っ赤な満月が昇ってき ていた。あらゆる距離感を失わせるようなその輝きに、僕はしばし 目を奪われた。


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