超短編小説作品

平和な月夜


 僕はとても疲れていた。月でも見て疲れを癒そうと、缶ビール片 手にマンションの屋上にあがった。
 屋上には見知らぬ先客がいて、柵から身を乗り出して夜の街を見 下ろしていた。彼は僕に気づいて軽くこちらを一瞥したが、視線は すぐに自分の興味に戻ってしまった。月明かりに一瞬照らされた彼 の顔もひどく疲れているように見えた。僕が彼と対角線をなす位置 に座り込んだとき、僕の背後から彼の方へ夜風がひとつ吹き抜けた。
 空を仰ぐと、ほぼまんまるの月の下半分を雲が流れていた。それ はどこか足もとのおぼつかない酔っぱらいを連想させ、僕は月と乾 杯した。喉を鳴らして冷たいビールを飲み、僕はひとつ息を吐いた。 また空を見上げると、月がほのかに赤らんで見えた。僕はもう一口 ビールを胃に流し込んだ。冷たい缶ビールと酔っぱらいの月が、僕 の疲れを癒していくのを感じた。
 彼はといえば、身を乗り出しては戻り、上体を奇妙に前後させな がらずっと下を気にしていた。またときどきこちらを振り向くこと もあった。彼は裸足で、足もとには脱いだくつがきちんと揃えてあっ た。
 僕は疲れのせいか、缶ビールを飲み干したところですっかりいい 気分になっていた。僕の顔はかなり紅潮していただろう。そして月 もまた頬を赤く染めていた。僕は先刻までの疲れから徐々に解放さ れつつあった。
 すると、さっきまでしきりに下を気にしていた彼がいつのまにか 僕の目の前に立っていて、苦笑いをたたえた口で話しかけてきた。
「あんた、いい顔してるねぇ。さっきはあんなに疲れた顔してたの に、ビール一本だけで幸せそうな顔になっちゃって。僕ね、いろん なことに疲れちゃって、ここから飛び降りようと思ってたんだ。で もあんた見てたらなんだかそんなのばかばかしくなってきたよ。」
「そうかい、まあつらいことはいっぱいあるけど、どれもたいした ことはないさ。月と一緒にビールでも飲んで、それで忘れればいい。」
 そう言いながら立ち上がった僕はいくらか酔いがまわっていて、 足もとがふらついた。バランスを崩した僕がとっさにつかまった柵 がいとも簡単に崩れ去った。僕はそのまま落ちそうになったが、彼 が僕の腕をつかんで引き寄せ、事なきを得た。
「お互い、命の恩人ってことか。」
 そう言った彼の顔は疲れの色がさっきよりも薄くなっていた。僕 はすっかり酔いがさめてしまったが、僕と彼とそして月の三人は思 いっきり笑いあい、夜は更けていった。


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