超短編小説作品

少年の忘れ物


 少年は誰かに名前を呼ばれた気がした。振り返ってみると、少年 の背後に大きな白い壁が立っていて、いま歩いてきたはずの道をふ さいでいた。少年には、この壁はなんだろうとか、ここはどこなの だろうとか、そういった疑問はわいてこなかった。ただ、壁の向こ うになにか忘れ物をしてきたような気がしてならないだけだった。
 少年の目の前にそびえ立つ壁は真っ白だった。少年がいままで見 た白の中でいちばん白かった。上にはどこまでも高く、横にはどこ までも長く、続いていた。少年が壁を見つめていると、また壁の向 こうから誰かが少年の名前を呼ぶ声が聞こえたような気がした。少 年は一歩踏み出し、両手で壁に触ってみた。壁の表面はなめらかで、 冷たく、そして硬かった。少年はなんとかしてこの壁の向こうに忘 れ物を取りに行きたかった。しかし、どうすることもできず、ただ 立ちつくしていた。
 その忘れ物は、少年にとってとても大切なものだった気がする。 しかし、それがなんだったか思い出せない。思い出せないが、取り に行きたい。この壁の向こうへ戻りたい。戻りたいが、戻れない。 壁がそれを許してくれない。この壁に逆らうことはできない。冷た く硬い壁の前で、少年は無力だった。
 しかたなく、少年は壁に背を向けてゆっくりと歩き出した。壁は いつか消えるかもしれないから、壁が消えたらすぐに忘れ物を取り に行けるように、とてもゆっくりと歩いた。はじめのうちは何度も 立ち止まって後ろを振り返ったが、振り返るたびに白い壁が少年の 視界を覆い、少年のほのかな期待を押しつぶした。
 どれくらいの時間がたっただろうか、少年は、歩き続けるうちに 後ろを振り返る回数が少なくなり、そしていつしか壁のことを忘れ てしまった。歩く速さも、ゆっくりだったのが前の速さに戻った。 むしろ前よりも少し速くなった。少年は壁の向こうに忘れ物をし、 そして忘れ物をしてきたことさえ忘れてしまった。それは悲しいこ と。それは喜ばしいこと。
 壁の向こうから誰かが少年の名前を呼んだ。しかし、その声は少 年には聞こえない。声が聞こえないかわりに、少年は少しだけ背が 伸びた。壁の向こうからの声は、もう少年には聞こえない。もう二 度と。


戻る