半分よりも少し丸い月が天上にかかっている。梅雨のさなか、雨に濡れた木々の葉が月の光を受けて弱弱しく輝いていた。
宵の口から強くもないのに酒をかぱかぱと飲んだ鷹通は、その時分にはすっかり酔ってぐったりとしていたが、不幸なことに何もかもわからなくなるほどの泥酔はせず、脇息にもたれかかってぼんやりと月をみていた。傍らではいつの間にとりだしたのか友雅が琵琶で調子をとりながら催馬楽を口ずさんでいる。
「月…。」
鷹通の呟きに友雅が手を止める。
「友雅殿…月…。」
鷹通はもう一度呟いた。
「月がどうかしたのかい?」
友雅は琵琶を置いて高欄のところまででてきた。
「かぐや姫は月に帰ってしまわれましたけれど、神子殿は…ここにおいでになる。…けれども地上においでなのに…月にいるかのように…遠い存在になって…。」
それきり鷹通の言葉は途切れてしまった。元気をだした振りをしていても、やはり痛手は大きかったのだろう。鷹通の想いは短時間で思いきれるほど浅くはなかったことを友雅はよく知っている。おそらく初めて抱いたであろう恋心は儚い花となって散ったのだ。まっすぐで曇りのない心は届くことなく…。
振り返ると鷹通は脇息に突っ伏していた。寝たのだろうかとそっと近付いて見るとその肩がわずかに震えている。声も出さず、泣いていたのだ。
そういえば、鷹通の母は…。友雅は昔聞いた話を思い出した。鷹通は正妻の子供ではなく、使えていた女房に生ませた子供だったと。その母もやがてどこぞの受領に嫁し、正妻にひきとられ育てられていたという。声を押し殺してなくなど、この明るい青年には似合わなかったが、その話を思い出すと胸が痛くなるほど納得できた。
何も言えない。
友雅は再び琵琶を鳴らしながら鷹通のなぐさみに催馬楽を口ずさむ。鷹通の父親は中宮大夫。左大臣の信任厚く、懐刀として後宮の一切を取り仕切り、まだ上を十分狙える立場でもあるし、その実力もある。そんな男を父に持ち、彼自身もわき腹とはいえ、有能で将来有望とされているのだから、普通だったら、望めばたいていの女は手に入るというのに、誠に運が悪い。…いや、そうではない。生真面目過ぎるのだ。自分にはない情熱を持つ、白虎の片割れは自らの理想を妥協することを良しとせず、こうして傷つくのが分かっていながらも真正面から立ち向かう。今までに何度、この青年がこうして傷つくのを見てきたのだろう。
「だから放ってはおけないのだけれどね。」
友雅は鷹通の震える背中を眺めながら小さな声で呟いた。天の青龍が神子殿の心を占めていたことなぞ鷹通にも分かっていた。勝ち目のない恋だったのに、それでもこの馬鹿正直な青年は神子殿を思いつづけ、そして恋敵の彼に手助けまでしてやって、そして潔く散ったのだった。
しばらく、うつぶせたままでいた鷹通がようやく顔をあげた。悲しさに、目の色は赤く染まり、口を引き結んでいる。
「私は…人に愛される性格ではないのですね…。」
鷹通は悲しそうに力なく呟いた。
「そんなことはない。」
「いいのです、慰めなど…。わかっているのです。私は、昔から…。」
卑屈な子供だったのですと小さく口の中で呟いた。小さなことでも心に病んでしまう。そんな子供でも誰かに愛されたくって、もがいてきたけれどそれは年とともに諦めるようになってきた。せめて人に愛されないなら尊敬されるようになろうと、一生懸命努力してきたが、尊敬はうけてもそれは自分の心を満たさない。
「君のことを愛しているものだっているよ。」
「そんな方がいるわけありませんよ。」
「やれやれ、がんこだねぇ。」
友雅が肩をすくめた。鷹通はまた脇息に体をもたれさせるとふぅっと酒の匂いのするため息をひとつついた。
「友雅殿には…さぞかし、滑稽に見えるでしょう?」
にっこりと精一杯の笑みを作って鷹通は自嘲気味に言う。
「いや。私とて苦い思いを味わったことがあるからね。」
私の答えに鷹通は信じられないといったような顔をする。
「おや、意外かい?私だって、かなわない思いぐらいはもっているんだよ?」
そう、鷹通が手の届かぬものに焦がれるのと同じように、私だって決して手に入らぬものに焦がれていた。そして、それは手に届く距離にありながら、決して手に入らない。
「友雅殿をふるなんて…そんな方がいるのでしょうか?宮中はもとより、左大臣邸でも、うちでも友雅殿に憧れている者は多いというのに。」
信じられないといった顔で鷹通は言った。
「相手は信じられないほどの鈍感でね。…そこがまたたいそう可愛いのだけれどね。」
そう、恐るべき鈍感さを誇るのは…。私は苦笑した。
「それは神子殿ではなく、ですか?」
「ああ、そうだよ。神子殿も変わっていて、かなり楽しませてくれる方だけれど、そうだね、神子殿は例えて言うなら妹のような方なのだよ。」
「どんな方なのですか?」
「おや、鷹通は私の思い人に興味があるのかな?」
くすくすと笑いながら言うと、ただでさえ酒で赤い鷹通の顔がなおさら強く染まる。
「そっ、そんなつもりではっ…。」
「ふふふふ。まあ、いいよ。…そうだねぇ、髪はつややかでさらさらとして綺麗でね。肌の色は白く、瞳は黒目がちで、目を細めて優しげな微笑を浮かべているんだ。柔和な顔立ちなのに、凛とした強さもあってね。立ち居振舞いなどは美々しく、優秀で、花に例えると撫子のような人なのだよ。」
友雅が嬉しそうに、まるで少年のように微笑みながら語るのを見ながら鷹通はくすっと笑ってしまった。
「よっぽど御執心の方なのですね。でも今光源氏の名も高い友雅殿ならば叶わないことはないでしょう?」
「口にしたら最後、きっと二度と私に会ってくれなくなるからね。」
そう言った友雅の顔は、寂しそうで、鷹通は初めてそんな顔の友雅を見たような気がした。出会ってからいつも軽口ばかりたたいて、それでも仕事はできて、何かを馬鹿にしたような、さめた顔ばかりしていたのに、はかなげな表情を浮かべた。なんだか、鷹通はみてはいけないものを見てしまったようで、慌てて慰めようとした。
「そんなことはないでしょう?私が女性だったら、友雅殿にそこまで思われていると知ったら、きっと嬉しいと思いますよ?」
こんなことを言っても気休めにしかならないことはわかっているけど、友雅にそんな顔をしてほしくなくって、とりあえず口に出してみた。
「そうだろうか?」
「ええ、そうですよ。きっと嬉しいですよ。」
酔っているため、あまり回らない口で大げさに肯定してみる。
「では言ってみようか。」
にっこりと友雅がようやく笑ったので鷹通も安心してうなづいた。
「どこの方なのですか?」
「ここに。」
「え?友雅殿の女房なのですか?」
「いや。違うよ。ここに。」
そういうと、友雅はすぅっと手を伸ばして鷹通の腕をとった。
「えええ?」
パニックに陥った鷹通は現状を把握できずに、いきなりつかまれた腕を呆然と見ていた。さらに友雅はぐいっとすごい力で鷹通の体を自分のほうに引き寄せる。呆然としていた鷹通は、そのまま友雅の胸のなかにすっぽりと納まってしまった。
「わ、わ、わ。」
慌てて鷹通は起き上がろうとするが、しっかりと友雅に抱きしめられていて逃れることができない。いや、その前に、すでに酔いが回っていて、立ったとしてもきっと歩けなかっただろう。
「鷹通。どうか逃げないでおくれ。」
耳元で囁かれて、鷹通は全身にどわーっと鳥肌が立つのがわかった。ぞくぞくするほどのいい声はすっかりと鷹通の体から残った力を奪い取った。
そういえば、うちの女房たちが友雅の声は腰にくるって言ってましたよねー?こんなときにそんなことをのんきに考えている場合ではないのだが、鷹通はぼんやりとそんなことを考えてしまった。
その間にも友雅は鷹通を抱き直して、向かい合わせに座っていた。
「やっ…やめてください。」
「さっき、君は友雅殿にそんなに思われていたら嬉しいって言ったじゃないか。」
「それは女性だったらの話ですっ!」
「それで?」
「私は女性じゃありません!」
「私も違うね。」
鷹通の抗議などおかまいなしに友雅は強く鷹通の体を抱きしめた。優男に見えるが友雅は立派な武官なのである。着崩した服に惑わされがちだが、実は頼久と張るくらいに力は強い。文官の鷹通が友雅に叶うわけはなかった。
にっこりと極上の笑みを浮かべた友雅の顔が迫ってきて、逃げようとばたばたもがいたものの、それは余計に酔いを回らせ、友雅をあおっただけに過ぎず、結局。
「んんーーーっ!!!」
鷹通の形のよい唇は友雅に奪われてしまった。しかも、酸素欠乏になるほどの濃厚なキスをいきなりかまされて、経験不足でしかも酔っ払いの鷹通は完全にぐったりとしてしまったのだった。
「たきつけたのは君だからね。…責任は取ってもらうよ?」
耳元で、おぞましいセリフを囁かれ、それがイイ声なので余計に腰が砕け、鷹通は逃れようとじたばたしていた体から力を奪われる。
「…もう離さないよ。…愛しい…私の白雪…。」
そうして鷹通は、失恋の傷心を体で慰められ、翌日は出仕を休まざるを得なくなったのだった。
2組目のカップル成立…か?
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