―何故君と出逢えたの?―

―マリア・タチバナ編―

 

「大神、お前は本日四月一日付を以て帝國海軍中尉に昇進する事になった。」
「ほ、本当ですか?」
「ああ、この辞令に確かに書いてある。海軍大臣の山口さんの認印付きでな。…どうだ、大神。昇進した心境は?」
「はっ、帝國海軍中尉大神一郎、粉骨砕身の気持ちで頑張ります!」
「ケッ、相変わらず堅ッ苦しいヤツだな…ま、それがお前の持ち味なのかもしれんが…。」

そこで帝國海軍中将、現対降魔迎撃特殊部隊帝國華撃團総司令官・米田一基は口篭もった。

「それと…お前にはもう一つ知らせがある…」



太正十五年四月。
後に第三次降魔大戦と呼ばれる事になる、武蔵との戦いから2ヶ月…。
帝國海軍中尉に昇進した大神は、フランスのパリに留学する事になった。
大神は先の大戦において、常に被害を少なく、かつ迅速な行動を以て敵を撃滅した戦果を高く評価され、海外に留学するという、軍に所属するものにとっては、願ってもないエリートコースに乗ったのである。
だが…大神にとってはあまり嬉しくない知らせだった。
何故なら大神にとっては、この帝劇が何よりもまさる大事な家族なのだから、そこから離れるというのは、何よりも耐えがたい事である。
実は、米田とてこの話は内心喜んで良いものかどうか、相当迷ったのだ。
だが、米田は大神はもっと大きくなれる人物だ、と心で感じていたので、その迷いを振りきって、あえてこの知らせを大神に伝えた。



「隊長…。」

大神はマリアを見た。いつもは、みんなを引っ張るリーダーの彼女が、どこか頼りなげに…大神を見ていた。
大神が、そんなマリアを見るのは、これで二度目だった。
一度目は…そう、熱海で温泉旅行に行った時、誰かにキネマトロンを持ち去られて、その行方を探している時に洞窟に閉じ込められた時以来だった。

「マリア…。」

大神はマリアをじっと見ていたが、やがてマリアが、ふ…と目をそらすと、そのまま立ち去って行ってしまった。

「マリア…。」

大神はマリアが立ち去って行くのを、見守る他に無かった…。



一方、マリアは…。

「隊長…。」

大神から逃げるようにして部屋に帰ってきたマリアは、どうしたら良いか、途方に暮れていた。
大神がフランスへ旅立って行く…。
大神の昇進は、マリアにとってもちろん嬉しい事だった。
どんなにつらい時でも、どんなに心細い時でも、どんな苦境に陥った時も…大神がそばにいて、自分を励ましてくれていた…。
それだけがマリアの心の支えだった。
自分は花組の年長者として、リーダーとして、いつも毅然とした態度で、みんなを励まし、時には叱り、花組をまとめてきた…。
だが、それは…いつも後ろに、あの人がいてくれたから…。
だからこそ自分は頑張れた。強くなれた。

(それなのに…。)

マリアは声を押し殺して泣いた…。声を上げると、きっと大声で泣いてしまいそうだったから…。



そのころ、大神の自室では…。

「はあ…。」

帝國海軍中尉になれたと言うのに、大神の心には暗雲が立ち込めていた。
もちろん、それはマリアを思ってのことである。
確かに、自分は花組を率いて、なみいる敵を蹴散らしてきた。
だが、それは自分の背中を安心して預けられる仲間がいたから。
自分の作戦を完全に理解し、後方をきちんと守ってくれる彼女がいたからこそ、どんなに思いきった作戦も安心して行う事が出来たのである。

(マリア、泣いてるだろうな…)

しかし、それを他のみんなに悟らせるような事はすまい。
何故なら、彼女はそういう女性だから…。
きっと自分が旅立つ時にも、気丈な振る舞いで自分を見送るだろう…。
だが、そういう彼女だからこそ、今自分が何をすべきか、また、しなくてはならないことを、大神は直感していた。

(そうだ!)

大神は自分の部屋を出て、マリアの部屋に向かった…。





「マリア、いるかい?」

大神は早速マリアの部屋のドアを叩いた。
マリアは泣き疲れて、けだるそうにしていたが、大神がすぐそこにいる、と言う事で、あわてて身支度を整えてドアを開けた。
大神はマリアの痛々しそうな顔を見て、予想通り、と思ったが、それをあえて顔に出さずに、

「マリア、明日…横浜まで行かないか?」

と、言った。
マリアは自分の泣き腫らした顔を、大神には見せたくなくて、ずっと下を向いていたが、その気配からして分かる。大神は気付いている、と。
だが、そんな素振りを見せないように…マリアを気遣っている、と思わせないように…自分に接してくれているのが、痛いほど分かったので、マリアは出来るだけ明るい口調で、

「はい、分かりました…時間は九時で良いですか?」

とだけ言った。

(大丈夫、私はこの人の前では笑顔でいられる…)

大神もそれを察したのか、

「ああ、それで良い。」

と、大神もできるだけ明るい口調で言った。



―翌日―
大帝國劇場玄関前。
大神は九時になる前から、濃緑のスーツの上下に、黒のシャツ、赤のネクタイという、悪友のコーディネートに身を包み、マリアを待った。

「そろそろかな…。」

と、その時。

「…お待たせしました。」

大神がマリアに振り向いた時、大神は絶句した。
マリアはいつもの黒のスーツではなく、アイボリーを基調としたスーツに、ベージュのブラウスを身につけていた。そして、驚くべき事にマリアはスカートをはいていた。それは膝が少し出るくらいのタイトなものだったが、マリアのイメージからして、それは良く似合っていた。

「…。」

大神はいつもと違う雰囲気のマリアに見ほれていた。

「…隊長?」

マリアは小首を可愛らしく傾げて、ボーっとしている大神に声をかけた。

「あ、ああ…。ごめん。」

マリアは訝しげな顔をして、

「…似合わないですか?」

マリアは(やっぱり、やめておけば良かったかしら…。)などと思ったが、次の大神のセリフは、マリアの頬を赤く染めた。

「良く似合うよ、とても綺麗だ…。」

と、次の瞬間には、またボーっとマリアに見とれていた。
しばらくの間、玄関前で二人して赤くなっている二人に、通りかかった人達は微笑ましくその光景を見守った。


それからしばらくして、我に返った大神は

「そ、それじゃ行こうか…。」

といい、マリアの手を取って玄関から外に出てタクシーを拾った。
マリアの手を握って、少しすると、マリアの手が汗ばんでくるのが分かる。
そんなマリアを、大神は可愛い、と思ってマリアの顔を見ると、案の定マリアの顔は真っ赤に染まっていた。

(やっぱり女の子だなぁ…)

大神は不意にマリアを抱き締めたくなった。

(い、いかん!何を考えているんだ、俺は…。)

タクシーが二人の前に止まると、大神はマリアをエスコートする紳士のごとく、タクシーのドアを開けてマリアをタクシーの中に入れた。

「横浜まで…。」
「へい、かしこまりました!」

タクシーの運転手は威勢の良い声で車を出すと、タクシーは車の波に消えて行った…。


タクシーの中で、大神とマリアは横浜についたら何をしようか、と相談していた。

「今日は良い天気だから、とりあえず海を見に行こうか。」
「はい。」
「そして山下公園にでも行こう。あそこは木が多くて、休むには絶好だからね。」
「はい。」
「芝生の上で昼寝すると気持ち良いんだ…。」
「はい。」

大神がとりあえずの予定を言うたびに、マリアは笑顔で「はい。」としか言わなかった。
そんなマリアを不審に思って、大神はマリアに

「…マリアはしたい事とか…ないの?」

と、言ってみた。すると、マリアは顔を赤らめて、

「私は…隊長といられるだけで幸せですから…」

といって、顔を伏せてしまった。
大神は改めてマリアをかわいい、と思った。
だが、あくまでこれはデートなのだ。自分はともかくマリアが楽しめないと意味がない。…まあ、かくいう自分もマリアが居さえすればそれで良いのだが。

「横浜…楽しみだね…。」
「はい…。」

それからはお互い赤くなって、一言も口をきけなかった…。



その頃、大神達の乗っているタクシーの後を、一台の白い車が追っていた。そして、その車の中では、かえでと加山が何やら怪しい機械に耳を傾けていた。

「大神〜ぃ、お前ってヤツは…なんって恥ずかしいヤツだ…」
「まあまあ、そう言わないの。マリアだって、大神君に誘われて、かなり浮かれていたんですもの。」

なんと、タクシーの後部座席には、盗聴器がしかけられていたのだ。
実は大神達の乗っているタクシーの運転手は、月組の一員だったのである。

「しかし…」

大神とマリアの会話が途切れた時、加山はひとり呟いた。
しかし、そのまま黙ってしまったので、かえでが先を促した。

「いえ、こうやっていると、俺達って…ただの出歯亀ではありませんか?」
「…そうね、彼らもようやく二人きりになれたのだし、そっとしておいてあげましょうか。」

と、かえでは苦笑しながら言って、横で運転している加山に、目で合図した。

「…どちらに?」
「あなたの好きなところで良いわよ?」

かえでが悪戯っぽく笑いながら言うと、加山は俄然張り切って、

「お任せ下さい!こんな事もあろうかと、いい店を見つけておいてあるんです!」
「…どんな事を思っていたのかしらね?」

かえでが冷ややかな視線を注ぎながら、加山にそう言うが、加山は気にしなかった。
そして、「いい店」に入った加山とかえでだが、その店を出るときに加山は青い顔をして出て来るのだが、それは別のお話。



それからしばらくして横浜港についた。
大神は先に外に出て、マリアをタクシーからエスコートした。
火照った顔に潮風が心地よい。

「わぁ…。」

マリアは海を見て素直に喜んだ。

「マリアは、海を見るのはこれで2度目かな?」
「そうですね、アメリカに渡ったときも海を見ましたけれど、そんなにじっくりとは見ませんでしたし…。」
「そうか…。」

大神はマリアがアメリカに行く時のことを思い出した。
米田から呼び出された大神は、隅田川のほとりでマリアと再開し、その余韻に浸る間もなく、マリアはアメリカに行ってしまった。

(あの時は…寂しかったな…)

大神はそれから少し沈んだ表情になった。
しかし、マリアが自分のほうを向いている、と気付き、またもとの表情に戻った。

「…隊長?」
「いや、何でも無いんだ…。ただ、マリアがアメリカに行った時のことを思い出してね…。」
「そうですか…。」
「ああ、あの時は…大変だったなぁ…新しい仲間の織姫君やレニが入ってきて、なかなか打ち解けてくれなくて…。あの時ほど、マリアがいなくて心細かった事は無かったよ。」
「まあ、私はトラブル処理係ですか?」

マリアが大神に恨みがましい目でみると、大神は慌てて

「いや、そうじゃなくて…ああ、何て言ったら良いか…」

言葉を見つけようとするが、どうも上手く言えない。
マリアはそんな大神を優しい目で見ていた。

そんな事をしている内に、春の陽射しがぽかぽかと心地よくて、二人はいつしかまどろんでいた。…二人、肩を寄せ合い、マリアは大神の肩に頭を乗せて…。



「…ん。」

大神が、ふと肌寒さを感じて目を開けると、どうやら何時の間にか眠っていたらしい。辺りは既に暗くなり始めていた。
そして、大神の肩に頭を乗せて、気持ち良く眠っているマリアを、しばし眺めていた。

(いつも気丈に振舞っていても、こうしていると可愛いんだよな…)

大神は、その寝顔をいつまでも見ていたかったが、さすがにこのままでは風邪を引く、と思い…非常に残念ではあるが…マリアを起こすことにした。

「マリア、マリア。」

大神が肩を優しく揺すってマリアを起こそうとするが、マリアは

「…ん…」

と言って、一向に起きる気配はない。
再び肩を揺すって起こそうとするが、マリアはどうも疲れているらしく、目が開く気配は無い。

(仕方ないな…)

大神は、やれやれ、といった表情で、マリアをおぶっていくことにした。
大神はマリアをおぶっていて、その見た目よりも軽いマリアに驚いた。

(マリアも女の子なんだな…)

と、不意にマリアについて考えた。

初めて会った時は、帝劇の支配人室の前だった。
その時、大神は初めて軍人らしい人にあったな、と思った。
高い身長、サラサラしている金髪、隙の無い身のこなし、そして…見るものを圧倒する切れ長の碧眼…。
初めての戦闘では、マリアの後方支援が実に的確で、大神はマリアに助けられた、といっても過言ではなかった。
そして、黒之巣会と名乗る団体の幹部・蒼き刹那との戦闘で、子供をかばい、大怪我をした時に、マリアに言われたあの言葉…「あなたは隊長失格です!」…あの時ほど落ち込んだ時も無かった。
そして、マリアの過去…。
蒼き刹那によって、過去を暴露されたマリアは、無謀にも単身で刹那のもとに行き、逆に捕らえられ、大神は単身でマリアを救出しようと、刹那のアジトに乗り込んだ。
捕らえられていたマリアは、いつもと違い、実に弱々しく、頼りなげだった。
その時は何とか刹那を撃破する事が出来たから良かったが…。
去年の熱海の旅行では、キネマトロンを探し求めて、洞窟の中に閉じ込められ、泳ぐ事の出来ないマリアの手を引っ張って海岸にたどり着いたはいいが、マリアの意識が無く、人工呼吸をしようとした時に…あの時は残念…いや、マリアが無事で良かった。


「隊…長…。」
「…ん?」
「私は…」
「何だい?」

と、言ってみたが、その続きがいつまでも来ない。
どうやらマリアは寝言を言っている様だった。

(あのマリアが…)

大神の知っているマリアは、冷静沈着、的確な判断で大神を助けてくれるが、時として、非常に少女っぽい趣味を持ち合わせている「お茶目さん」だった。
大神が帝劇の見回りをしている時に、その時舞台でやっていた「愛ゆえに」のさくらの役「クレモンティーヌ」の舞台衣装を、こっそり鏡に写し出していた時もあった。
ある時はゴキブリに驚き、つい愛銃のエンフィールドを抜いたこともあった。

(マリアって、冷静なようでいて、実はとても奥ゆかしいんだよなぁ…)

大神は不意におかしくなって、体を震わせていると、マリアも気付いたようだ。

「…隊長?」
「ん?」

すると、マリアはハッとして、自分の状況を判断した。

「す、すみませんッ!」

慌ててマリアが、大神の背中から降りようとしたが、大神はそれを制して、

「いいからいいから。…マリア、疲れているんだろう?」

というと、マリアは何故か素直に

「はい…。」

と、頷くのみであった。



(マリアは…)

マリアは、これまでの人生で、普通では思いつかないような重荷を背負っている。
ロシア人の父が日本人の母を見初めて、ロシアに連れ帰り、マリアを産んだが、やがて戦争が勃発し、敵国の妻を持つということで流刑地に流され、過酷な労働の中で父を、優しかった母を亡くし、流れに身を任せて革命軍に身を置き、その青春を戦いの最中に過ごした。
そして…いつしか彼女の心の中に、革命軍の隊長の面影があったが、隊長を戦いの中で亡くし、その隊長を死に追いやったのは自分だ、と後悔して、失意の内にアメリカで殺し屋家業に身を置いた。
そんなマリアをアメリカで見つけたのは、あやめだった。
マリアは…こんなにも軽いのに…こんなに華奢な体に、これほどつらい過去を秘めている少女であった。

(これからは…マリアが舞台にだけ打ちこめるような…そんな時代を作らねば、な。)

大神は、この幸薄い少女に、これからの未来を戦いなどではなく、舞台でいつまでも輝いていられるような、そんな未来がくればいいな…と考えていた。
そしていつか。マリアが自分の子供を抱いて、隣りに居てくれるような事を想像していた。

(な…なに考えてんだ!俺は…!)

大神は一人で赤くなっていた。
そんな大神にマリアが気付いて、



「隊長?どうなさったんですか?」

と聞くが、答えられるはずもない。

「い、いや、何でもないよ。」

としか答えられなかった。
そんな大神にマリアは不審がるが、深くは追求しないでおく事にした。



(隊長は…)

マリアは初めて大神と出逢った時の事を思い出した。

「すみません、支配人室というのはこちらですか?」

あの時、海軍の白い軍服を着て、初めてマリアの前に立った大神を見た時は、正直、

(…何故こんな普通の軍人を?)

と、思った。
特に体がごついわけでもない、戦略に長けているとも思えない、場数を踏んでいるとも思えない、頼りない新米の軍人が、何故この少女ばかりで扱いの難しい花組の隊長に選ばれたのか。
マリアはそれまで花組の隊長として指揮を取っていたから、花組の少女達の扱いの難しさは熟知していた。だから、マリアは直感で

(2週間も持てば大したものね)

と、思っていた。
だが、この青年軍人はマリアの予想を越えて頑張った。
花組隊長の第一任務として与えられたのは、大帝國劇場のモギリだった。
さすがに初めの頃は、仕事の意味がわからず右往左往していたようだが、それでも大神は、この帝劇の暮らしに順応してきた。
大神を最初に見なおしたのは、さくらとすみれがケンカした時に仲裁に出たときだ。
あの時はとっさに出たとはいえ、女に頬を叩かれているのだ。
軍人気質丸出しの男だったら、その場ですかさず報復していただろう。
そして、花組に堅苦しい軍規を押しつけていたに違いない。
だが、大神は違った。

「俺は舞台の事はまるで分からないけれど、舞台ってのはチームワークが大切なんだろう?仲間同士、仲良くしようよ…」

隊長にしては何だか情けないような気がしないでもないが、大神は普通の軍人とは何かが違う…。

そして、次に大神に対する認識を改めたのは、蒼き刹那に捕らえられた時。
自分のミスで敵に捕まり、なおかつ人質にされ、大神にとっては足手まといにしかならなかった。
そして、大神が助けに来てくれた時、青き刹那はマリアの前で、大神を切り刻んでいった。あの時、大神から流れ出る血が、ロシアでの忌まわしき思いを思い出させた。

(あの時、一歩間違えれば…)

大神は、間違い無く青き刹那によって、嬲り殺しにされていたであろう。
しかし、そんな事態があろうことは大神にも分かっていたはずだ。
それでも大神は自分を助けに来てくれた…。
あの時の大神の言葉は忘れられない。

「俺は花組の隊長だ!隊員の一人を守れないで、何が隊長だ!」

その言葉を聞いたマリアは、胸が熱くなるのを感じていた事を思い出した。

(この人は…花組の隊長になるべくしてなったんだわ…)

そう考えると、マリアは大神の背中の広さが、普段よりも大きく感じられた。
そしてマリアは何だかほっとして、その背中に甘えたくなり…大神の首に回している腕の力を、ちょっと強めた。

大神はより密着してきたマリアの胸の感触に焦りながら、

「マ、マリア?」

と、マリアを呼んでみたが、

「もう少し…このままで…」

という、マリアの囁きに大神は赤くなりながらも、

「…ああ。」

と言って、歩みを進めた。



それからしばらくすると、マリアがひいきにしている横浜の知人のカフェに着いた。
さすがにおぶっては中に入れないので…残念ではあるが…マリアには降りてもらって、中に入った。

「ここに来るのも久しぶりだなぁ…」
「そうですね。この前は確か…お正月の時に来て以来ですね。」
「ああ、もうそんなに経つのか…」
「あれから帝劇を再建するので手一杯でしたからね。」
「色々あったなぁ…」
「…ええ。」



マリアと大神が中に入ると、カウンターからマスターの声がした。

「…マリア、マリアじゃないか?」

カフェの主人であろう、白髪を交えた壮年のマスターがマリアを呼んだ。

「お久しぶり、マスター。」

マリアが手を振ってマスターに挨拶すると、マスターは嬉しそうに目を細めて、

「久しぶりだなぁ、マリア。正月以来じゃないか。もっと来てくれれば良いのに…ん?そちらの方は?」

マスターは、マリアの隣りにいる大神に目を移すと、

「あ、こちらは帝劇でお世話になっている、大神さんよ。」
「はじめまして。帝劇で事務をしております、大神と申します。」

マスターは、大神の整然とした立ち居振舞いに何か感じたのか、少し不思議そうな顔をしたが、ハッと気付くと、

「あ、どうも…そう言えば、正月の時にもいらっしゃいましたよね。マリアと一緒に。…そうか、君とマリアが…」
「?」
「ま、マスター!」

大神が何だか分からない、という顔をしているのを余所に、マスターとマリアが目でやり取りをしていた。

以前、マリアは横浜でこの店を見つけた時、当時はまだ帝撃に所属したばかりで、彼女はそれまでの殺し屋家業の癖が抜けず、どこか一線を画す雰囲気をその身にまとっていた。
事実、その時に声をかけようとした軟派な男たちは、マリアの出す殺気に押されて、結局何も言えずじまいだった。
しかし、この店のマスターは、そんなマリアの雰囲気をものともせず、こう言ったのだ。

「お嬢さん、コーヒーは気を落ち着けて飲む物だ。…そんなに肩を張って飲んでも美味しくないよ?」

その時マリアは、そんな事を言うマスターに睨みを利かせたが、マスターには全然応えなかったらしい。それどころか、かえって穏やかに微笑まれて、マリアはそれまで張っていた気が緩み、涙が出てきた事を思い出した。
そして、泣かせてしまった事に慌てたマスターが、

「お嬢さん、これは特別サービスだよ。」

と言って、出してくれたサンドイッチの味を、マリアは忘れられない。
それ以来、この店のマスターとはマリアのかけがえのない友人となった。



「…もう、マスターったら…」

マリアは、この頭の上がらないマスターの微笑みに、遠い昔に亡くした父の面影を見た。

(そう、そうだったの…)

マリアはふとマスターに微笑みかけると、マスターは笑顔で奥のカウンターにマリア達を案内した。



奥のカウンターに案内された大神達は、とりあえずカクテルを頼んだ。

「俺は…とりあえずジントニックを…」
「それでは私は…ドライマティーニを…」

大神はマリアの頼んだカクテルを聞いて驚いた。
それはかなりアルコール度数の高いカクテルだったからだ。

「だ、大丈夫かい…そんなに高いのを頼んで…」
「え…お金なら大丈夫ですよ?」
「い、いや、そう言う事じゃなくて…」

すると、ころころとマリアが笑って、

「大丈夫です、私、こう見えても結構お酒強いんですよ?」

本当かなぁ…
大神は少し心配だったが、マリアがそう言うのならば良いか…そう思った。


「それでは…乾杯!」
「乾杯、隊長…。」

マリアがそう言うと、大神は少し渋い顔になって、

「こんな所で隊長はやめてくれよ、マリア。」
「え?」
「どうせなら、名前で呼んで欲しいな…俺は。」
「そ、そんな…。」

マリアは少し面食らって赤くなっていたが、大神が微笑んでマリアを見守っていると、

「…乾杯、一郎さん…」

と、大神にのみ聞こえるような声で、かすかに呟いた。
それを聞くと大神は満足そうな顔で、マリアの耳元で

「乾杯、俺のマリア…」

と呟くと、マリアの顔は熟れたトマトのように真っ赤になった。


それから少し他愛もない話で盛りあがって、さて帰ろうか、という時になってマリアに目をやると、案の定マリアはつぶれていた。

(しょうがないな…だからあんなに言ったのに…)

ドライマティーニを何杯かお代わりしたマリアは、多分にもれず、つぶれていた。
もともとマティーニはジン系のカクテルの中でも、かなり度の強いカクテルである。
それを酒が強いとはいえ、クイクイ飲むような酒ではない。
仕方なく、大神は再びマリアをおぶっていくことにした。


「マスター、今日はこれで帰りますよ。」
「そうかい、では、またいつか来て下さい。もちろんマリアを連れて…ね。」
「はい、そうします。」
「…大神さん、マリアを…」
「はい?」
「マリアをよろしく頼みますよ。…マリアは強がっているフリをして、その実、そんなに強い娘ではないんですから…。」

マスターが真剣な目をして大神に言った。
その目は、自分の娘を男に託す父親のような目であった。
大神は背筋を正して、

「…はい。マリアは必ず私が幸せにして見せます。」

大神は、これほど緊張した時を過ごした時は無かったであろう、と思われた。
マスターはそんな大神を見て、ふと微笑み、

「…ありがとう。」

と言った。
(この青年ならば大丈夫だろう。…私の“娘”を安心して任せられる…)

「では、これで…。」
「ああ、いつでもお待ちしていますよ。」

大神はマスターに一つ礼をすると、店を出た。



(私が必ず幸せにして見せます、か…)

大神は先ほど店の中でマスターに言った言葉を反芻した。

(もうじき…パリに行ってしまうというのに…無責任だよな…)

そう、大神はもうじきにパリに行ってしまう…。
留学がどれくらいかかるか、分かりはしない。
ただ分かるのは、決して短い間ではないだろう、と言う事だ。

(マリアを待たせるのは…俺だってしたくない…だが…)

大神はそう思うと、ふと背中で寝息を立てているマリアに目をやった。

(この可愛い寝顔を、二度と辛い目に遭わせるわけには行かないな…)

どんなに辛い目に遭おうとも…マリアに逢えないことを思えば、そんなに辛くはないだろう…。
そして、少々の事ではくじけるわけには行かない。
大神はそう誓った。
だが、マリアはどうだ?
大神がいくらマリアに約束していても、マリアが大神の帰りを待っていてくれるだろうか…。
マリアが他の男に奪われたら…。
考えたくもないが、どうしても考えざるを得ない。
そもそも、待っていてくれ、と言う事自体、充分マリアを傷つけているのだ。

(マリア…君は一体どう思っているんだい?)

そんな時だ。

「隊長…。」
「ん?」
「私は…」
「なんだい?」
「私は…ずっと待っています…隊長が帰ってくるまで…ずっと…。」

心の中を見透かされたと思って、大神は焦った。
大神はとりあえずマリアに声をかけた。

「…マリア?」

だが、返ってくるのは…

「すう、すう…。」

規則正しい寝息だった。

「な、なんだ。寝言か…。」

大神はどっと疲れるとともに、嬉しさがこみ上げてきた。
それと同時に何だか笑いがこみ上げてきた。

マリア。
いつもみんなをまとめる花組のリーダー。
いつも頼りになる花組の副隊長。
だけど…
可愛いものに目が無くて、身に着けてみたいのに「どうせ似合わないから…」と言いながらも、陰でこそこそ衣装を合わせているマリア。
冷静で何事にも動じない割には、ゴキブリで我を忘れて発砲してしまうマリア。
大神はそんなマリアが好きだった。

(マリア…俺は…必ず帰って来る!この帝劇に…君のいる帝撃に…)

大神がそんな決意をしていると、大神の背中でそうと知ってか、マリアは微笑んでいた。



そして…ついに大神がフランスへ赴く日が来た。
大神はみんなの別れを悲しむ顔を見ないように、朝早くから帝劇を出た。
だが、そんな小細工は帝劇の、いや帝撃のみんなには通じないようだ。
「おおがみさ〜ん!」
「中尉ぃ!」
「隊長!」
「隊長!」
「お兄ちゃ〜ん!
「大神はん!」
「中尉さ〜ん」
「隊長!」
それぞれがそれぞれの呼び方で大神を見送りに来た。
大神は花組の気持ちが嬉しかった。
そして、大神が船に乗りこんで、花組に対すると、
「大神中尉に、敬礼!」
マリアの号令がかかると、花組は大神に対し、恭しく敬礼をした。
大神は自分が隊長を務めた花組を心から誇りに思い、自分も花組に対して敬礼をした。
大神はその敬礼が、今までしたどんな敬礼の中でも一番よく出来た敬礼だ、と思った。
(みんな、俺は必ず帰ってくる…だから…)
大神はマリアを見た。
(だから…今はさよなら、マリア…)

大神を乗せた船はゆっくりと新天地、巴里へ…。





END

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