東京、銀座にある大帝國劇場に、肩で揃えた髪に細面の麗しい女性が颯爽と歩いていく。その姿に誰もが振り向いたが、その女性はその場にふさわしくない軍服姿だった為、その誰もが慌てて視線を戻した。
彼女の名は藤枝かえで。帝國陸軍所属、現帝國華撃團・花組の副指令である。
「ふう…。」
かえでは自室に戻ってきて、いつもの洋服姿に着替えた。
かえでは才色兼備を備え、花組の誰もがかえでを深く信頼している。
表向き、大帝國劇場の支配人付きの経営者、とはなっているが、その正体は大帝國陸軍中尉殿である。
今日は陸軍省に用事があったため、軍服姿であったのだが…。
いくら美人とはいえ、軍服姿に声をかける人間は、そうはいない。
けれど、かえでとて年頃の女性である。
たまにはデートの一つや二つしてみたい。
そんな事を考えていると、天井裏から声がかかってきた。
「副指令、よろしいですか?」
「…加山君?いつからそこにいたの?」
「…たった今ですが…」
「まあ、いいわ。入ってらっしゃいな。」
「それでは…。」
かえでの部屋の天井から降ってきたこの男…。
帝國華撃團・月組隊長、加山雄一。
帝國華撃團・花組が表であるとすれば、月組はまさに裏。
情報操作や諜報を主任務とする加山達・月組は、目立つ事は断じてないが、月組無くして帝國華撃團は立ち行かない、というくらい重要なのである。
さて、この月組の隊長・加山は、花組の隊長、大神一郎とは海軍士官学校からの友人である。
加山は、真面目な大神と違って、ユーモアにあふれ、外交手段に長けているが、その実、相手の心理を深く見つめ、どんな事を考えているか、を見抜くことにかけては、その追随を許さない。
だからこそ加山は月組の隊長を務めているのだが、唯一頭の上がらない人物こそが、このかえでであった。
「加山クン、まさか私の着替えを覗いていたんじゃないでしょうね?」
出し抜けにかえでは加山にそう言った。
加山は慌てて
「そんな事はしませんよ。」
と言ったが、心中穏やかではない。
かえでにそのことを見透かされると、
「なんか慌ててるわよ、加山クン?」
見ると、かえではくすくす笑いながら加山を見ている。
どうやら一杯食わされたようだ…。
その事に加山が苦笑すると、
「副指令にはかないませんね…。」
と、ため息を交えてそう言った。
すると、かえでは悪戯っぽく、ころころと笑った。
ひとしきり笑われて、憮然としながら加山は話を切り出した。
「ところで…俺に何か用事でも?」
かえでは、特に用事も無いのに加山を呼び出す事は無い。
しかし、普段かえでに定時報告をするのは、いつも消灯時間よりも少し前の時間の時に、と決められていた。(夜更かしは美容の敵だからである)
「あら、何か用事が無いと私に呼ばれるのは…嫌?」
かえでは加山にそう言うと、寂しげに微笑んだ。
案の定、加山は慌てて
「そんな事はありませんが…」
と言った。
しかし、それに構わずかえでは加山に畳み掛ける。
「そりゃ私は帝國華撃團の副指令だから、軍服を着なきゃいけないわよ。けれど、それで男の人が敬遠するって言うのは、どういう事?」
「え、えーと…。」
「私だって年頃の女の子なのよ? 男の人とデートの一つや二つしたいわよ。」
「そ、それは…。」
もうダメだ。こうなったかえでは誰にも止められない。加山は黙って最後まで話を聞いて、それから考えるしかない。かえでとの長年の付き合いからの経験で、そう思った。
「…と、言うわけで。加山クン、今度の休み…私とデートしない?」
「はい…って、ええっ?」
加山は返事をしてから驚いた。けれど、それはかえでの神経を逆なでする結果になった。
「なによ、私とデートするのは嫌?」
「そ、そう言うわけじゃありませんが…」
「じゃあ、どういう事なのよ?」
(やっちまった!)
ふと加山はそう思った。
かえでは基本的に我が強い。それに、海外での生活が長かった為に、自分の意見はどんどん言う。加山が返答に窮していると、
「やっぱり…私とじゃ嫌?」
かえでは急に落ち込んだような顔になって、切ない声でそう言った。
(だめだ、これがあの人の手なんだ!)
と、思いつつも、加山は
「はい、俺の次の休暇は次の水曜日なんですが、その時で良ければ…。」
と言った。
日曜、祝日などは誰もが気を緩める為に、重要な情報が漏れる可能性が結構ある。だから基本的に月組の休暇は平日にある。
すると、かえでは顔を輝かせて、
「わかったわ。ありがとう、加山クン。」
と言った。
(はあ、果たしてこの人に勝てる日が来るのか…)
月組の隊長にしては、頼りない呟きを漏らして加山は自分の部屋に戻って行った。
そして水曜日。
加山は帝劇某所の月組専用の控え室で、これから始まるデートの事で頭を悩ませた。
(うーん、何を着て行こう…)
加山はデートに着て行く服について悩んでいた。
加山は基本的に白いスーツの上下、赤いシャツを着ている。
隠密行動部隊の割には派手ないでたちだが、かえって疑われないらしい。
しかし、これはいつも帝劇で着ているので加山としては面白くない。
せっかく副指令…いやかえでが誘ってくれたのだから、こんな時くらいは違う服を着て、かえでをあっと言わせたかった。
(…こうしてみると、俺って着たきり雀なんだなぁ…)
どうでも良い事をふと考え込んでしまう。
それでも、かえでを待たせるわけには行かないので、手早くいつもの服に着替えて帝劇の玄関まで行った。
すると、かえではロビーの陰で玄関先に視線を向けていた。
加山は不審に思って
(どうしたんです?こんな所で…)
かえでを驚かさないように小声で話しかける。こういった所はさすが月組といったところか…。
かえでは加山を見ると、玄関先を指差した。
そこには、大神とマリアが互いに顔を真っ赤にして下を向いている所であった。
(なるほど…)
加山はかえでが今日を指定した理由が分かったような気がした。
この見るからに危なっかしいカップルの行く末を見守ろう、としての事のつもりなのだろう。
だとすると、加山の休日を水曜日にしたのはこういう事だったのか、と考えると、加山の背筋は寒くなった。
(まさか、な…)
しかし、かえでのカンは侮れないものがある。
まあ、何はともあれ、今日はかえでとのデートなのである。
かえでにそう促すと、
「まあまあ、少し待ちなさい。加山クン、車を裏に回してあるから、彼らに気付かれないようにまわしてきて頂戴。」
(確信犯か!)
加山はそう直感し、大神に同情した。
しかし、車を裏に回したからといって、せいぜい行き先を探るくらいしか出来ない。まさかいちいち後をつけて行くんじゃないだろうな…と思ったが、かえでに進言する勇気など持ち合わせている筈がない。
(やれやれ…)
加山はかえでを怒らせない内に裏にあった車を、怪しくないように帝劇の隅に止めて、かえでを待った。
やがて、大神とマリアがタクシーに乗ると、かえでが息を切らせて加山が乗っている車に乗りこんできた。
「さ、早く追ってちょうだい!」
「はいはい。」
「あら、どうしたの?」
「いえ、大神が可哀相かな、と…。」
「あら、それじゃ貴方は彼らのような、あぶなっかしいカップルをほっとくつもり?」
かえでにそうつっこまれて加山は半分ヤケになって、
「いえいえ、それじゃ行きますよ。」
と、大神達の乗っているタクシーの後を尾けはじめた。
それから、しばらくして
「これからどうするんです?」
加山がかえでに質問すると、
「あら、なにが?」
と、返された。
「いえ、いちいちヤツらのいちゃいちゃを見せつけられるだけ…のような気がしまして…」
加山がそう言うと、かえでは悪戯っぽく笑って、
「まさか、そんな事をする為にわざわざ貴方を呼ぶわけないじゃない。」
加山はそんなかえでの仕草にどきっとしたが、
「こういう時もあろうかと、ちょっとした仕掛けをしてあるのよね。」
…前言撤回。
「仕掛けって?」
「これよ。」
と言って、かえでは車のダッシュボードに当たる部分をくるっと回すと、なにやら物々しい機械が現れた。
加山はその機械を知っていたので、思わず叫んだ。
「それは…軍御用達の盗聴器!」
「そう、そしてこれをこうすると…」
かえでがダイヤル操作をすると、若い男女の声が聞こえてきた。
言わずもがな、大神とマリアの声である。
「ど、どうして…」
加山が驚いた顔をしてかえでに尋ねると、
「あら、まだ気付かないのかしら?」
と、また悪戯っぽい顔をして尾けている車を指差した。
「あの車のナンバーに見覚えないかしら?」
加山はすぐさまそのナンバーを確認した。
間違いない、あれは月組所有の盗聴器付きの車だ。
「副指令!」
加山は思わずかえでに怒鳴った。
「私用で月組の備品を使わないで下さい!」
それをものともせず、かえでは涼しい顔をして加山に言った。
「あら、別に私用って訳じゃないわ。私はあの子達の行く末を見守ってあげたいのよ。」
と言われて、加山は唖然とするしかなかった。
しかし、加山ははっとしてかえでに尋ねた。
「そう言えば…どうやって月組の盗聴部隊に指令を出したんです?…アレは…自分にしか出せない筈なんですが…。」
月組の盗聴部隊は、その特殊性と独立性を保つ為に、加山にその全権限を持たされていた。月組はあくまで独立し、帝國華撃團にだけその情報網を使う事を許されている。今回のようなことはあってはならないはずなのだ。
しかし、かえでは笑って
「あら、そういう事を女の子に聞くもんじゃないわ。」
と言った。実にあっけらかんと…。
加山はそれでもう全て聞く気が無くなった。
(この人が暴走したら日本は終わりだな…)
かえではそんな加山の気配に気付いて、苦笑しながら
「まあ、華撃團すべての隊員は、なんだかんだ言っても、花組の子達が大好きなのよ。例え自分の身に何があろうと、ね。」
と言った。
加山はそんなかえでの表情を見てドキッとした。
かえでがどこか遠くへ行ってしまいそうな気がして…。
(確か副指令の姉君は…)
かえでの姉、藤枝あやめは帝國華撃團副指令だった。
しかし、三年前の事件で帰らぬ人となった。
加山は直接会ったわけではないが、当時の資料を調べて既に知っている。
だから、今のかえでの言葉で、かえでまでどこかに行ってしまいそうな気になったのだ。
(そんな事はさせない。…月組隊長、加山雄一の名にかけて!)
加山はこの愛しき上官を必ず自分が守って見せる…そう誓った。
そう誓っていた加山は、知らず知らずのうちに険しい顔になっていたようだ。
かえでが加山の顔を覗いて
「…ねえ、加山クン?」
と言ってきたので、加山は焦りながら返事をした。
「な、なんです?」
「月組の子を怒らないであげてね。あの子だって大神君たちが本当に好きで、心配してやってくれているだけなんだから…。」
加山は目を丸くしてかえでを見た。
(そんな事で怖い顔をしていたわけじゃないんだがな…。)
だが、かえでは本気で心配しているらしい。
本来、彼女のような上官にとっては、我々のような陰の諜報機関は、いわば使い捨てのコマのような物だ。…いや、そうでなくてはならない。
だが、彼女はその使い捨てのコマのような我々を本気で気遣っている。
加山は知っていた。
昨年十一月。
陸軍のクーデターがあった時。
我々月組の情報収集が上手く行かず、敵に先手を打たれた時だ。
あの時は何か匂っていたのだが、どうしても情報が上手くつかめなかった。
慎重に事を進めていたのだが、焦りに先走った部下が命を落とした。
今年の一月。
ミカサを発進させる時。
ミカサを発進させる時、それを妨害しようと降魔が攻めてきた。
降魔を帝劇に近づけないように、月組が降魔を食い止めようとした時、もともと戦闘部隊ではない月組が足止めをしよう、とするのは無理があった。
ミカサが発進しようとして、甲板状の市民を避難させ、更に降魔を食い止めようとする月組に疲れが見え始めた時、何人かの部下が命を落とした。
一瞬だった。
降魔の醜い爪が部下の肩口からその部下を引き裂き、降魔から吐き出される酸に部下が巻き込まれた。その時はまだ息があったのだが、なんとかミカサを発進させた時には、すでに息を引き取った。
そして、最終決戦から凱旋したかえでは、加山からの報告を聞いたときに、涙を流して物言わぬ骸と化した部下に対し、深々と頭をたれた。
あの時、加山はかえでに言葉をかけることができなかった。
誰が出来ようか…。自分の不手際で部下の命を奪っておきながら。
しかも我々は元々そういう世界に生きている。
そうなっても仕方の無い事なのに、だが目の前の上官は心の奥底から悲しんでいるのだ。
加山はその時から、以後この上官を悲しませるような事をすまい、と固く決心した。
だから、本来の上官である自分より、かえでの願いを聞いた部下を叱るようなことはすまい。
だが、そう思っても腹が立ってきた。
かえでにここまで心配される部下が何となく羨ましかったのだ。
(後で一発殴っておこう…)
一発が数発にならねば良いが…。
やがて、盗聴器から大神とマリアの声が聞こえてくる。
「今日は良い天気だから、とりあえず海を見に行こうか。」
「はい。」
「そして山下公園にでも行こう。あそこは木が多くて、休むには絶好だからね。」
「はい。」
「芝生の上で昼寝すると気持ち良いんだ…。」
「はい。」
「…マリアはしたい事とか…ないの?」
「私は…隊長といられるだけで幸せですから…。」
加山が盗聴器から聞こえてくる大神とマリアの会話を聞いて、なんだか背中がむずがゆくなってきた。
「大神〜ぃ、お前ってヤツは…なんって恥ずかしいヤツだ…」
「まあまあ、そう言わないの。マリアだって、大神君に誘われて、かなり浮かれていたんですもの。そういうものじゃないかしら?」
確かに、これから長い別れになるのだ。端から見ててどれだけ恥ずかしくても、彼らが良いならば、それで良いではないか。
しかし、そう思うと、その彼らを尾行している自分たちに罪悪感が生まれてくる。
なんとか二人きりにしてやりたいが…。そう思って、思いきってかえでにぶつけてみた。
「しかし…」
大神とマリアの会話が途切れた時、不自然にならないように、加山はひとり呟いた。
しかし、そのまま黙ってしまったので、かえでが先を促した。
「いえ、こうやっていると、俺達って…ただの出歯亀ではありませんか?」
「…そうね、彼らもようやく二人きりになれたのだし、そっとしておいてあげましょうか。」
と、かえでは苦笑しながら言って、横で運転している加山に、目で合図した。
「…どちらに?」
「あなたの好きなところで良いわよ?」
かえでが悪戯っぽく笑いながら言うと、加山は俄然張り切って、
「お任せ下さい!こんな事もあろうかと、いい店を見つけておいてあるんです!」
親友の微笑ましい恋愛を邪魔しないで済むことと、ようやくかえでを誘い出す事に成功した加山は、勢い良く返事をした。
「…どんな事を思っていたのかしらね?」
かえでが冷ややかな視線を注ぎながら、加山にそう言うが、加山は気にしなかった。
そして、加山は車をそのまま渋谷の道玄坂に向けた。
渋谷は今も昔も変わらない、若者の街である。
渋谷の道玄坂は活気があって良い街である…若者を狙ってやくざ者が闊歩していなければ、であるが。
だが、別に加山は気にもせずに、かえでを連れて道玄坂のある居酒屋に入った。
そこは和風が基調だったが、流れている音楽はジャズだったり、とそれとなく洋風が同居していて、なんとなく怪しげであった。
店頭で出迎えた一人のウェイターが加山に向かって挨拶した。
「お客様、いらっしゃいませ!…って、何だ加山じゃないか…。」
加山はそれを気にした風もなく、手を挙げて挨拶した。
「ご挨拶だな、大瀬古…。まあ良い、開いてる席はあるか?」
大瀬古と呼ばれた男は加山の雰囲気からして
(何かあるな…。)
と思った。
…案の定女性を連れている。
…しかも、結構美人ではないか…。
大瀬古が加山に目配せすると、加山はしぶしぶ頷いた。
「お客様二名様ご案内致します!」
大瀬古は気を効かせて、奥のカウンター席に案内した。
「お客様、いらっしゃいませ。こちらが本日のお通しになります、お絞りをどうぞ。」
加山とかえでがお絞りを受け取ると、
「加山は『久保田』の『万壽』…だよ…な?」
大瀬古は意地悪そうな顔をして言った。
加山はしぶしぶ頷いた。
それに反応して、かえでが大瀬古に話しかけた。
「あら、『久保田』があるの?」
「はい。ただ今、当店では、各地の地酒の売り出しを行っておりまして、『久保田』の他にも、様々な地酒を取り揃えておりますが?」
「あら、それはいいわね…。それじゃ私は…この『〆張鶴』をもらおうかしら?」
大瀬古は驚いた。最近の女性は、地酒に興味の無い女性が増え、カクテルだのビールだの、といった物しか頼まない女性が多かったからだ。
本来日本酒党である大瀬古には、こういう酒を分かってくれる女性が嬉しかったのだろう、元気な声で注文を繰り返した。
「では、『久保田』の『万壽』、『〆張鶴』でよろしいでしょうか?」
「ええ、お願いね。」
「はい!それでは、まずお飲み物のほうをお持ち致しますので、少々お待ち下さい!」
大瀬古は元気な声を残すと、すぐさま厨房に駆け出して行った。
そして、すぐに大瀬古は久保田、〆張鶴を持って加山達の所にやって来た。
「それでは、お料理のご注文の方をお願いします!」
「そうね、今日のお勧めはどれかしら?」
「はい、本日のお勧めは、蟹と湯葉のさつま揚げ、真鯛のお造り、はまちのお造りになっております。」
「どれも美味しそうね、加山クン、どれにする?」
加山は諦めたのか、ヤケ気味に言った。
「全部まとめて持って来い!」
すると、大瀬古はさすがに気が引けたのか、加山に囁いた。
(安心しろ、この前の件もあるし、ちょっとは差し引いて、おまけまでつけてやる)
加山が大瀬古を見ると、大瀬古は不敵に笑った。
すると、加山は大瀬古が何をする気かを問う気も起こらず、ただ大瀬古を追い払った。
そして、しばらくかえでと談笑していると、大瀬古が料理を運んできた。
お勧めで大瀬古が勧めた、真鯛、はまちのお造り、蟹と湯葉のさつま揚げは言うに及ばず、手羽先唐揚げの甘口、中辛、大辛のセット、ねぎ間の塩焼、皮の塩焼、モモの唐揚、汲み上げ豆腐、法蓮草のサラダ、などなど。
どれも美味しそうで、日本酒との相性も抜群のものであった。さすがにダテに居酒屋で働いてはいないようだ。
だが…。
(おい、俺はこんなに頼んではいないぞ!)
と、小声で大瀬古に話しかけたが、
(言ったろ?少しはおまけをつけてやるって。)
(しかし、こんな事をすれば、お前…)
(なに、そんな事になったら、俺のここでの価値はそんな程度だった、ってだけだ…気にするな。それに…大切なお客さんなんだろ、お前さんのお隣は?)
悪びれずに大瀬古は言い放った。
加山は大瀬古を見たが、ただ笑っているだけだった。
(まあ、さすがに日本酒代だけは払ってもらうが、な。)
その言葉にがくっとしたが、加山は素直に大瀬古の好意に甘える事にした。
「素敵なお友達じゃない?加山クン?」
大瀬古がその場を離れてから、かえでは加山に言った。
加山は疲れた表情で
「まあ、面白い男ではありますがね」
とだけ言った。
それからは、加山はただかえでの愚痴を聞かされる羽目になった。
「だからね、私は好きで軍人をやっていりゅわけじゃらいのよ…。」
「…。」
「それにね、軍人をやっていりゅと、なんだか怖い、ってイメージが付くらひくって、男のひろなんか敬遠して行くのよ。…ひろいと思わない?」
「はあ…。」
加山はただひたすらに話し始めたかえでを見て、溜息をついた。
(話し上戸だったとは…。)
最初のうちは、かえでも上官としての体面からか、仕事の事とか、帝劇のみんなの事とかを話していたのだが、杯を重ねるにしたがって、どんどんろれつが回らなくなってきた。それだけならばまだしも、今度は散々愚痴を聞かされる羽目になっている。
しかも、だんだん方向性がズレてきている。ただ頷いているだけにしても、これではたまらない。
しかし、そんな加山の様子に気付いたかえでは
「こらぁ!ゆーいち!きーてるの?」
と、加山を名前で呼んで更に絡んできた。
「え、ええ。聞いてますって…。」
「いや、聞いてない!大体貴方は、私の…」
「え?」
加山はかえでの言葉を反芻してかえでに振り返ってみると、かえでは
「ふにゃあ…。」
テーブルに突っ伏して寝てしまった。
「副指令?」
「ん…。」
加山はかえでを呼んでみたが、さっぱり起きる様子が無い。
仕方ないので、しばらく一人で飲んでいると、大瀬古がやって来て、
「なんだ、お連れさん、寝ちまったのか?」
「…ああ、よっぽど疲れているんだろうよ。」
「まあ、お前みたいなヤツが部下じゃあ、疲れるだろう…。」
加山は大瀬古に噛みつきそうな勢いで言った。
「…どーゆーイミだ?それは…。」
「そーゆーイミだ。…可愛いじゃねえか。男の前で寝ちまうってのは、そいつによっぽど気を許している…ってイミだろ?どうやら、この女性は育ちは良いみたいだしな。」
「何故分かる?」
「当たり前だ。俺はこう見えてもウェイター歴は長いんだぜ?」
答にならない答を返して、大瀬古は軽くウィンクした。
「ふ…ん。」
「まあ、お前さんも年貢の納め時のようだしな…。せいぜい大事にしてやるこった。」
いきなりな大瀬古のセリフに加山は慌てて
「な、何を…。」
そういう加山に非難の目をして、大瀬古は
「それ、お前のそういう所だ。お前さんの悪い所は。人にはさんざんお膳立てをしておいて、手前ぇの事になるとさっぱりだからな。少しは自分の為に素直になりな。でねぇと…逃げられるぜ?」
「…。」
黙りこんだ加山の様子を見て、大瀬古はちょっと言い過ぎた、と思ったのか、
「まあ、お前も少し飲みすぎだ。水を持ってきてやるから、それを飲んだら今日の所はとっとと帰りな。」
「…客を追い出すのか?この店は?」
「閉店時間だからな、帰ってもらわないとけーさつ屋さんに連絡する事になるな。」
大瀬古の言葉に、加山は苦笑して、
「分かった、今日の所はおとなしく帰るとしよう。」
「ああ、ちゃんと送って差し上げるんだぜ?」
「全く…酒の飲み方も知らん上司を持つと…苦労するぜ、ホントに…。」
「でも、そこが良いんだろ?」
「…まあな。」
やがて、大瀬古が水を持ってくると、
「さ、可哀相だが、ちょいと起こしてやって、これを飲ませろ。」
「…なんだ?これは?」
「俺様特製の気付薬だ。…効くぜ?」
「…変な薬じゃないだろうな?」
「だとしたらどうする?」
大瀬古はまたも悪びれることなく言った。
「…。」
加山はそんな大瀬古に殺気を漲らせて睨んだが、大瀬古は全くひるまない。だが、ちと言い過ぎたか、と頭をぽりぽりかいて、
「…安心しろ、そいつは単なる胃腸薬だ。いくら良い酒でも飲み過ぎれば単なる毒でしかない。…そのお嬢さんは、ちと飲みすぎていたからな。まあ、ウチにとっては上客ではあるが、ね。」
と、こっちが安心するような顔をして、大瀬古は忌憚なく言った。
そんな大瀬古に加山は
「ありがとう。」
と言ったが、大瀬古は頭を振って、
「そいつはそっちの女性に言うべきだな。」
と言った。
「…何故?」
「分からんか?」
分かるわけがない。かえでは今日ここに来てから、というものとにかく良く喋った。普段のかえでからは想像できないくらいに。まあ、愚痴ばかり言っていた気がするが。
愚痴ばかり聞かされていたのだから、こちらが礼を言われても罰が当たるまい。
加山は分けのわからない、という顔をして大瀬古に話しを促すと、
「ちょいと話を聞かせてもらったんだが、彼女はお前の上司なんだろ?」
「ああ。」
「そして、彼女は聞いた所によると、かなり上の上司…だな。」
「…ああ。」
「それだけ上の上司がわざわざお前を選んだのは…何故だと思う?」
「さあ、な。いつも傍にいるから、愚痴るには最適だったんだろ…。」
「それがお前のひねくれた所だ、加山。」
即座に言われて、加山はいきり立った。
だが、そんな加山を諌めて、大瀬古は先を続けた。
「まあ聞け。上司ってのは基本的に愚痴をなかなか言えねぇもんだ。…愚痴を言った時点で、そいつは上司失格の烙印を押されちまうからな。特にお前達の世界では、ちょっとした愚痴が即ヤバイ事に繋がっちまう…。更に、こういう事は言いたくねぇが、女が出世するってのは…周りに良い感情を与えねぇ。…くだらねぇ事だがな。」
吐き捨てるようにいって、大瀬古はそこで言葉を区切った。
そして、遠い目をして、何かを睨みつけるような表情をした。
(一体この男には何があったんだ?)
加山は目の前の、昔から知っているはずの友人の過去に興味を持ったが、大瀬古は一息ついて言葉を続けた。
「…だが、そんな危険を犯しても彼女はお前に愚痴を聞かせたんだぜ?」
加山を正面から見据えて、大瀬古は加山を試すような目つきになった。
「お前は、そんな彼女を背負えるか?どんなに辛かろうが、彼女をかばえるか?」
加山は黙りこくった。
確かに俺達のすむ世界は、魑魅魍魎とした連中が血眼になって栄光を掴もうとしている。他人を蹴落とす為なら手段を選ばぬ連中もいるだろう。
仮にそんな輩が帝劇を…かえでを狙ってきたとしたら…。
(俺は…守れるか?救えるのか?副指令…いや、かえでを…。)
加山は傍で、すうすう可愛らしい寝息をたてて、ぐっすり寝ているかえでを見て思った。
(断じて手を出させるものか!例えどんな化け物が来ても、かえでを好きにさせてたまるか!)
「ん…。」
かえでが声を出したので、加山は焦ってかえでを見たが、かえでは相変わらず、すうすう寝息を立てて眠りこんでいる。
(まいったな、本当に惚れちまったか…。)
「答は出たようだな…。」
加山ははっとした。大瀬古がそばにいることを忘れていたのだ。
「大瀬古!お前…。」
「安心しろ、別に誰にもチクッたりしねぇよ。」
「…。」
加山は憮然としていたが、
「お前は…ホンット、素直じゃねぇな。」
大瀬古がケラケラ笑っているのを横目に、加山は憮然とした顔でかえでを見ていた。
本当に守りたい女性を見つけた男の目で…。
(貴女は必ず俺が守ります、副指令…いや、かえで。)
それからしばらくして、かえでが目を覚ました。
「…ん?あら、加山クン?」
かえでが目を覚ますと、店の雰囲気はすっかり暗くなっていた。
「お目覚めですか?」
大瀬古がかえでに声をかけると、かえでは慌てて身支度を整えた。
「ご、ごめんなさい!」
「いえ、別に構いませんよ。まだ店の閉めをやっている途中ですから。」
大瀬古は相変わらずにこにこ笑ってくれているが、ふとかえでは違和感にとらわれた。
「あの、加山クンは?」
大瀬古はちょっと困ったような顔で、
「加山でしたら…そちらに。」
大瀬古が指差した方を見ると、加山がぐっすり寝こんでいた。
「あらあら、どうしたのかしら?」
「ちょっとイジメ過ぎましたかね?」
と、大瀬古が言うと、かえでが大瀬古に続きを促した。
すると、また困った顔をして
「えーと、男同士の会話、というものでしょうか、少し話すのは憚られるのですが…。そしたら、加山のヤツ、酒をやおらあおり始めましてね…。」
大瀬古は、これ以上は勘弁してくれ、という表情を向けたが、それでもかえでは、大瀬古をじっと見つめていたので、根負けして大瀬古は話した。
「いえ、加山も年貢の納め時だな、って事を話していただけですよ。」
すると、かえでは分けの分からない顔をしていたが、瞬間理解したのだろう、赤い顔になって俯いてしまった。
そんな仕草を見て、大瀬古は
(可愛い…おのれ、加山…羨ましすぎるぞ…)
「悪いとは思いましたが、貴女と加山の話を少し聞かせていただいていたんです。…そして、加山に随分打ち解けているんだなぁ、って思いましてね。」
「そんな…。」
反論しようとするかえでを大瀬古は制止して、
「まあ、安心して愚痴を言える相手なんか、そうザラにはいません。…何だかんだ言っても、ヤツも貴女を心底から信頼して、そして…されているって事を無意識に自覚してます。…料金、上乗せしようかな?」
大瀬古がおどけて言うと、かえではくすくす笑ったが、次の瞬間、深刻な顔になって、
「でも…私は彼らに危ない道を渡らせているんです。いつか彼らを…彼を失いそうで…それが怖いんです。」
苦渋に満ちた顔でかえでが言うと、
「良いじゃありませんか。」
大瀬古が実に簡単に言い放った。
かえでは睨むように大瀬古を見た。
「良いです…って?」
「ええ。」
かえでは大瀬古の真意を図りかねた。
出会ってほんの少ししか経っていないが、こういう時に冗談を言う男ではない、と言う事くらいは分かる。だからこそ、かえでは困惑した。
そんなかえでを見て、大瀬古はこれほどまでに心配してもらえる加山が羨ましくなった。
(…やっぱり料金上乗せだな…)
「…男はね、ホントに惚れた女のためでしたら、何がなんでも…這いつくばってでも生き延びますよ。…途中で死んで悲しませるようなヤツは、思いが中途半端だった、って事です。そんなに中途半端に思われた女の方はえらい迷惑ですからね、そんな男の為に涙を流す事ぁない。」
「でも…。」
なにかを言おうとするかえでを、またも制して、
「女の子は、女の子だってことで充分偉いんです。もっと堂々としていて良いんですよ。」
「何よ、それ。」
かえでは無茶苦茶な論理を展開する大瀬古に笑顔を見せた。
そんなかえでにおちゃらけた表情をして、大瀬古は続けた。
「そう、女の子は笑っていれば最強なんです、その笑顔の為に男は働くんですから。…沈んだ顔をさせるようなヤツはほっときなさい。そして、貴女が安心して笑顔を見せられる誰かを探す事です。貴女が貴女でいられる為の誰かを…。」
「…。」
かえではこの大瀬古という男の話をじっと聞いていた。
大して年も違わなさそうな青年なのに、妙な説得力を持っている…。
(この人は…一体どんな人生を歩んできたのだろう…)
期せずして加山と同じようなことを思って、かえではこの大瀬古と言う青年をじっと見た。
そんなかえでに気付いて、大瀬古は
「…何か語っちゃいましたね…いつもはこんなんじゃないんですがね。」
ハハハ、と自嘲気味に大瀬古が呟くと、
「いいえ、何か…とても大切なことを教えられた気がするわ…ありがとう。」
「いえいえ、こちらこそ妙な事を言っちまったようで…。」
大瀬古は恐縮して頭をぽりぽり掻いていると、何かを思い出したように、はっとして、
「ああ、そうだ、そろそろ閉店しなきゃいけないんですよ。申し訳ないんですが、今日の所はこれで…。」
「ああ、もうそんな時間なの?こちらこそ、こんな時間までごめんなさい。」
「いえいえ、こいつからたっぷり頂きますから。」
と、大瀬古はおどけて笑って見せた。
「さて、そろそろ此奴でも起こしますかね…さて、どーやって起こそう…。」
加山を起こす算段を考えていた大瀬古は、何か名案が浮かんだらしく、かえでに耳打ちした。
「…ゑ?」
大瀬古に何やら耳打ちされたかえでは、その普段の様子からは考えられない表情で大瀬古を見た。
その表情がおかしかったのか、大瀬古はひたすら笑って
「俺は向こうに行ってますから…。加山が起きたら俺を呼んでください。」
かえでが何かを言おうとする前に、大瀬古は奥に引っ込んでしまった。
しばらく憮然としたままだったが、やがてかえでは加山の耳に口を寄せると、
「……。」
なにやらかえでが呟くと、加山は条件反射のように跳ね起きた。
ホントに寝ていたのか、と思うような勢いで。
しかし、加山はかえでの方をむくと、
「あ、あれ?俺…寝てました?」
「ええ、気持ち良さそうだったわよ、加山クン。」
何故か赤い顔をしたかえでが加山に言った時、大瀬古がひょっこり顔を出した。
「おー、やっと起きたか。…ほれ、勘定書。」
かえでと加山が飛び跳ねそうな勢いで離れるのを見て、大瀬古は微笑ましくなった。
そして、加山が大瀬古の出した勘定書を見て、顔が青くなった。
「お、おい。なんだよ、この金額は!」
「ん〜?当たり前だろ?だってお前、さっきはとんでもねえ勢いで飲んだじゃねぇか。…『久保田』の『万壽』、『碧壽』だろ、『〆張鶴』だろ、『菊水』の良いヤツ…その他もろもろ…」
涼しい顔をして大瀬古はそう言ったが、本人は覚えがない。飲んだかもしれないが、どうも記憶がはっきりしない…。
(はめられたか?)
と思ったが、目の前の青年はそういうヤツではない。
…実はそういうヤツだったのだが、
「全く、つぶれにいくような飲み方をするからだ、少しは反省しろ。今回はウチで正解だったな…余所じゃ、もっとボラれるところだぞ。」
と、尤もらしい事を言われて、何となく納得し、加山はしぶしぶ代金を払って店を出た。
勘定を少し多めに貰った大瀬古は、
(まあ、お嬢さんからボッたんじゃないし、これくらいは許されるよな…)
と、ひとり悦に入っていた。
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ちょっと高額の支払いをした後で、加山は憮然としたままで、対してかえでの方は何やら機嫌が良いまま出てきた。
「…。」
店を出た加山とかえでは、酒を飲んでいる身で運転はまずい、という理由で二人、身を寄り添って歩いていたが。
「…。」
さすがに居酒屋での件が気になるのか、二人は黙っていたままだった。
(うーん、何を話したら良いんだ…)
(何を話せば良いのよ…)
「あの…。」
「ねぇ…。」
二人同時に話しかけて、お互いに譲った。
「あ、副指令の方からどうぞ。」
「加山クンの方から…。」
そこでまたぶつかる。
「…。」
「…。」
(あー、もう、何やってんだ、俺は!)
(ああもう、どうしてこうなるのよ!)
加山は大神とマリアの事を、じれったいと言っていたが、まさか自分もこういうシチュエーションに陥るとは思っていなかったのだろう。だが、実際にこういう雰囲気になってみると、確かに気まずいものがある。
(自然なフリをして…いつもの様に切り出せば良いんだ!…とはいっても…なぁ…)
(そう、いつもの調子で行けば良いんだわ!何も後ろめたい事があるわけじゃないんだから…)
次に話を切り出したのは加山だった。
かえでは、うしろめたい事…すなわち、居酒屋で加山を起こしたセリフの事で、ちょっと対応が遅れたからだ。
「あの…副指令?」
「な、なあに?」
かえでがヤケに赤くなっているのを、加山は不審に思ったが、とりあえずは置いといて
「俺と飲んでいて…楽しかったですか?」
「な、何よ、急に…。」
「いや、何となく…。」
「た、楽しかったわよ?」
我ながら不自然な反応ね、と思いながら、かえでは言葉を返した。
「そうですか、それなら良いんですが…。」
「どうしたのよ、急に。」
「いえ、大瀬古に言われたんです。『愚痴を聞かされるのは信頼されているからだ』って…。しかし、俺は…。」
そこで急に黙ってしまった加山の言葉を、かえでは辛抱強く待った。
「以前ミカサを発進させる際、隊員を失いました。そして、その時…副指令を悲しませて…。信頼を失ってしまったのではないか、と…。」
「…。」
「それに、俺は貴女に余計な心配しかかけてないように思えて…。」
「そんなことないわ。私は貴方の上官ですもの、心配するのは当たり前…」
「それです!部下と上官…。俺は部下としてではなく、一人の男として…貴女が…。」
そこで加山は口を押さえた。言ってはいけない事だったのだ。
しかし、加山は長年にわたって溜めていた苦悩を吐き出した。
加山はどうしようもなくかえでが好きだったのだ。上官と部下としてでなく。一人の男と女として…。
だが、それを口にすればかえでは困るだけだ。帝國華撃團・副指令としての立場もある。だからこそ、加山は道化を演じるしかなかったのである。
だが、それを受けて、かえでも溜めていたものを吐き出した。
「私だって、貴方が好きだったわよ!」
「え?」
「でも仕方ないじゃない!気がつけば、こんな立場に立っていたんですもの。」
「え?え?」
かえでの思いがけない告白を聞いて、加山は焦った。
「私だって…。」
「副指令…。」
加山はどうしてもかえでを名前で呼ぶ事が出来なかった。
…名前で呼ぶと、超えては行けない一線を超えてしまいそうで…。
だが、そんな加山の思いを知ってか知らずか、かえでは涙を流して話を続けた。
「いつだって貴方は私を名前で呼ばなかった…いえ、呼んでくれなかった。だから…だから私は…。」
「…。」
かえでは涙を拭きながら、加山に向き直って、
「フフ、おかしいわね、今日の私は…お酒が入っているからかしら?…加山クン、今日の事は…」
「忘れませんよ、俺は。」
「…え?」
「今日の事は絶対に忘れません。」
「…。」
加山は後悔した。かえでがここまで悩んでいるのに、気がつかなかったからだ。
俺は誰だ?
帝國華撃團・月組の隊長ではないのか?
隊員のみならず、こんなに身近にいた女性の悩みすら気づかないで…しかも、自分の最愛の女性の苦悩を悟れずに…何が月組の隊長だ!
加山は自分を責めたが、今こんな所で、こうしていても仕方ない。
目の前の…いつもと違う、副指令という肩書きを持った、自分の最愛の女性を安心させる事…それが今、加山のすべき事だった。
「かえで…。」
しばらくして、泣いているかえでを後ろから優しく抱き締めて、加山は囁いた。
(え?)
かえでは、今、加山が言った事に耳を疑った。
確かに今、加山は自分の名を呼んだのだろう…。
加山の…思ったよりも広い胸に抱かれて…。
「加山クン…。」
「駄目だよ、俺がせっかく名前で呼んだんだから…。」
「…。」
かえでは体中が熱くなるのを感じた。
恥ずかしい、というのも確かにあるが、それよりも嬉しい気持ちが湧き立って体中が熱いのだ。
「…ゆういち。」
蚊が鳴くような声で、かえでは加山の名を呼び、加山はこの世の春を感じていたが、この可愛い、愛すべき女性を、ついいじめたくなった。
「ん?聞こえなかったなぁ…かえで?」
「…。」
「…どうした、かえで?気分でも悪いのかな?」
かえではしばらく赤くなっていたが、やがて体を震わせた。
かえでの様子がおかしい…。
加山の脳裏に嫌な予感が影を差した。
そしてついにかえでが怒った!
「いい加減にしなさい!雄一!」
「え、ええ?」
「ちょっとこっちに来なさい、雄一!」
「え?え?」
確かに名前で呼ばれるのは嬉しいけれど…。
(しまった、ちとふざけすぎたか!)
そう考えてももう遅い。
しばらくかえでからのお説教が続いた。
(とほほ…)
自業自得とは言え、かえでにお説教された加山は、しゅんと項垂れていた。
さすがに怒りすぎたかな、とかえでは苦笑して、
「ゆーいちっ!」
と、可愛らしく加山の名を呼んで、加山の肩に飛びつき、頬にキスをした。
そして、そのままかえでが加山の腕に、その細い腕を組ませて寄り添って歩いた。
街灯に照らされた二人の影が、一つの長い影を造っていた…。
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