処方箋
「マリアの馬鹿ぁっ!大っ嫌いっ!」 怒声をマリアに投げつけてアイリスが舞台から走り去った。さくらがおろおろとした様子で走っていくアイリスの後ろ姿と、それを冷たい目で眺めて止めようともしないマリアの両方を交互に見ていた。 「なぁ、マリア。アイリスに今のはちょっときつかったんじゃねえのか?なんたってアイリスはまだ小さいんだしよ。」 マリアはカンナの方を振り返りもしないで冷淡な口調で返事をする。 「舞台の上では大人も子供も関係ないわ。」 「そ、そりゃそうだけどよ。」 困ったカンナに紅蘭が横から助け舟を出す。 「でも、いくらなんでもなぁ…。アイリスかて、多少、気乗りしない時だってあるんとちゃうやろか?」 「だからって、見に来てくれるお客さんにそんな言訳が通用するとでも思うの?」 とりつくしまもない。紅蘭は『こら、あかんわ』とでも言いたげにひょいっと肩を竦めた。 「ともかく、これじゃ、どうにもなりませんわね。」 毎回のアイリスの我侭にイラついていたすみれの言葉にも今度ばかりはいささかマリアを非難する口調が含まれていた。険悪なムードになりつつあるのに我慢できなくなったさくらがその場を逃れるための言訳をひねり出した。 「あの…私、アイリスの様子見てきます。」 「必要ないわ。」 しかし、マリアは冷たい口調で行きかけたさくらを制止した。さくらはしぶしぶマリアの言葉に従い舞台中央まで戻ってきた。沈黙が舞台の上に広がるが、マリアはそれを無視して台本を開いてみんなをくるりと見まわす。 「…お稽古、続けるわよ。」 否を言わせぬマリアの迫力に残った4人はしぶしぶ稽古を再開するのだった。 「大体なぁ…稽古、5時間ぶっ通しってのはどうかなぁ。」 その日の夜。誰とはなしにサロンに集まった4人がお茶を飲みながら今日の出来事について話し合っていた。 「そうですわ。5時間だなんて、ちょっと横暴すぎますわよ。」 珍しくカンナと意見のあったすみれも続ける。 「ただなぁ、稽古が進んでなかったんは事実やし。初日までそんなに時間がないのに完成度はまだまだ低い。マリアさんかて、その辺を心配してのことやったんとちゃうかな?」 紅蘭はマリアを擁護する意見を言ったがすぐにすみれに横槍を入れられる。 「だったら、アイリスだけお稽古すればいいのですわ。何も、私までお付き合いしなくても…。」 「そうだよなぁ。おまえは今回はワキ役だもんなぁ。」 カンナの茶化しにすみれがカッとして喧嘩ごしで反論しかけるがあっさりと紅蘭に止められた。 「今はそんなことで喧嘩してる場合ちゃうやろ。問題は、アイリスや。さくらはん、どうなん?」 「それが…。」 さくらが困ったように俯いた。 「呼びかけても返事をしてくれないんです…。お部屋にいるのには間違いがないんですけど。」 さくらの言葉に全員がはーっと重いため息をついてうなだれた。 「そりゃ、主役を下りろとまで言われたらなぁ…。」 カンナがぽつりと呟いた。みんなはアイリスが主役を貰ってどんなに喜んだかをよく知っている。親指姫。まさにアイリスが主役になるにはうってつけの演目。いままでメインになった演目は大恐竜島、つばさと2つほどあるが、いずれも紅蘭と一緒だった。今回、初めて自分一人の主役の演目なのだ。台本を貰ったときに目を輝かせてそれはそれは嬉しそうにはしゃいでいたのはまだ記憶に新しい出来事である。 「どうしましょう…?」 さくらが困り果てた様子で上目遣いにカンナを見る。 「あたいが言ったところでマリアが謝ると思うか?」 カンナの言葉に3人がふるふると首を振った。いくらマリアとカンナの仲が良かったとしてもそれに流されて謝るような人間ではない。ましてや、今日の事なんて完全にアイリスが悪いと思っているだろう。事実、稽古を真面目にやらないアイリスに非があるといえばあるのだが。 「アイリスの機嫌をとった方が早そうですわね。」 すみれの言葉にみんながうなづいた。 「…これでいい、ご苦労だったな、マリア。」 「いえ…。残りの分は明日にでも仕上げて持って参ります。」 「おう。悪いな。」 「いえ…仕事ですから。」 そう言って支配人室から辞するために頭を下げかけたマリアに米田が申し訳なさそうな顔をして呟いた。 「あやめ君がいなくなってから、マリアにゃ迷惑かけっぱなしだな。」 珍しい米田の弱気な発言にマリアがふっと微笑んだ。 「私なら大丈夫です。尤も、隊長があれこれとマニュアルを書いておいて下さったから、そんなには手間もかかりませんし。」 あやめがいなくなった後の帝国華撃団は大変だった。何しろ、デスクワークのほとんどが機能しなくなってしまったのだから。それを大神がなんとか頑張って動かしてきたが、その大神も海軍に戻らねばならなくなったときに後任となるマリアの為にマニュアルを一式作成して行ったのだ。戦闘がないために戦闘の経過報告書はなくなって多少仕事は軽減されたものの、まだ帝都のあちこちには霊気が残り、それが凝って時折おかしな現象を引き起こす。花組が出張るほどのことではないにしろ、他の部署が始末し、それについて書き上げた報告書を米田が目を通す前にチェックするのも大事な役目のひとつだった。そのほかの華撃団運営に関してのさまざまな書類、計画書だの機材の開発の設計書原案だの設備購入の見積書、アメリカやヨーロッパからの機密文書に果ては経理の伝票までありとあらゆる書類が集まってくる。米田は新しいプロジェクトのためにそれに時間をかけていることができずに自然とほとんどがマリア任せになっていた。他の組の者もできるだけやってはいるが、元花組隊長にして語学力堪能、帝撃発足の折の隊員集めであやめが不在の時に代理をしていた(当時はこんなに大変ではなかったが)という実績からあやめの仕事のほとんどがマリアに自然となだれ込む。 「あやめさんは…こんな中で私達を気遣ってくださったのですね。」 マリアはふと長官の机の上に置いてある写真の中で楽しげに微笑んでいる女性を眺めた。先の降魔戦争で殉職したことになっている彼女。一度は失った花組のみんなの命を戻してくれた人、そしてマリアにとっては闇の中に落ちそうになったマリアの人生を光の中に戻してくれた人。 「ああ。」 米田も寂しそうに写真に目を落とした。 あの出来事からもう随分と経つのに、まだあやめのことを思い出す自分がいる。あやめを思い出すのは決まって自分がくじけそうな時なのだ。あやめさんならこんな時には一体どうしただろうと。そしてまた今もそう思いかけて、はっとしてその思いを払拭sるように小さく首を振る。いけない、こんなことじゃ。心の中で自分を叱咤すると米田に気づかれぬように小さく息を吐いて背筋をしゃんと伸ばした。ちらりと米田を見るとまだ思い出の中にいるようだった。 「…では、これで。」 米田を気遣って、マリアは小声で言うと頭を下げ、身を翻し部屋を出て行く。ドアの外に消えて行く後姿をデスクから米田は心配そうに眺めていた。 「こんな中で…か…。…そろそろアレが必要かも知れんな…。」 米田はため息をついて引出しをあけた。 翌朝。昨夜は怒って食事に降りてこなかったアイリスもさすがに空腹に負けたのか朝食にはきちんと降りてきていた。しかし、決して機嫌が直ったわけではなく、平然と食事をするマリアに恨みの視線をばしばし飛ばしながらの朝食であった。いくらアイリスが不躾な視線をマリアに送っても当の彼女は平然と食事をしている。このムードはやはりよろしくない。朝っぱらの食事はもっと楽しく食べようと、そういう主義のカンナはなんとか場を盛り上げようとあれこれと試みるが全てそれは徒労に終わる。別にマリアの食事中の無口は今に始まった事ではないのだから、盛り上がらないのは別にマリアのせいではないのだが、やっぱりみんなマリアの仏頂面(食事の最中にそんなににやにやしている人もどうかと思うが)に苦々しい思いをしながら食事をしていた。 「なぁ…マリア。何を怒っているんだよ?」 「何をって?」 とうとう我慢できなくなったカンナが切りだした。しかし、マリアは表情を崩すわけでもなく、平然と聞き返した。 「怒ってるんだろ?」 「いいえ。いつもこうじゃない?」 あまりに普通なマリアの物言いにカンナが腑に落ちないと言ったふうに聞き返す。 「そうか?」 「そうよ。」 それきり再び食堂には静寂が戻る。 「お先に。」 これ以上ここにいても仕方がないと判断したのか、すみれが席を立って出て行った。続いてアイリス、さくら、カンナと続いていく。最後に紅蘭が戻ろうと席を立って行きかけたが、ふと足を止めて一人残ってコーヒーを飲んでいたマリアの方を振り返った。 「なぁ、マリアはん…。」 「何?」 「とりあえず、謝ったほうがええんとちゃう?」 紅蘭が心配そうにマリアの様子を伺った。 「一時しのぎで謝っても根本の解決にはならないでしょう?」 「そりゃ、そうかもしれんけど…、けどなぁ、アイリスかて、引っ込みがつかなくなってきてるんとちゃうやろか?」 「自分で間違いを正すことを覚えないと、ろくな大人にはならないわ。」 平然と言ってのけるマリアにやれやれと紅蘭は大きくため息をついた。 「みんな…マリアはんみたいに強い人間ばかりじゃないんや…。」 そう言い残して紅蘭も部屋に戻って行った。 その日の練習は誰一人として舞台に来るものはなかった。マリアは舞台で待ったが、時間になっても誰も降りてこない。 「誰も来ない…か。」 ため息混じりに呟いて立ち上がった。…仕方がない。こうなるのではと頭の中で予想できていた彼女は舞台中央まで歩み出て客席の方に向って立った。足を肩幅の広さに広げて背筋を伸ばす。一人でだってお稽古はできる。まずは発声練習からである。 「あ・え・い・う・え・お・あ・お。」 誰もいない舞台で一つずつの音をしっかりと発音する。黙々と練習をするマリア。お芝居をする上での基本練習。あまり効率はよくないけれど一人でだって練習はできるのだ。発声や口の運動を一通り済ませるとマリアは台本を開いて自分の出番のシーンの練習を始めた。 結局、午前の稽古には誰も参加する者はなく、マリアが一人で練習しただけにすぎない。午後からはアイリスに取材などが入っているために自由行動となっている。マリアは自室に戻ると米田から頼まれていた仕事を仕上げるために机に向いペンを取った。机の上にある書類のストッカーには目を通さなければならない資料が山と積まれ、翻訳をしなければならない書類も随分と溜まっている。マリアは一番上にあった書類を取って目の前に置いた。1ページ目をめくって仕事を始めようとしたけれど、頭の中には舞台の事が浮かんでくる。本当ならばこの時間もお稽古をしたいところなんだけど。今日、何度目かのため息をついてぼんやりと少し上のほうを眺めた。 親指姫の完成度はまだまだ低く、点数をつけるならばどう贔屓目に見ても45点がいいところだろう。もちろん、自分も含めてのことなのだが。これをお客様にお見せするというのはどうだろう。せっかく期待して足を運んで下さるお客様を裏切る事になってしまわないか。 「マリアの馬鹿ぁっ!大っ嫌いっ!」 ぼんやりと考え込んでいた脳に突然鮮やかにアイリスの罵声が蘇る。それと同時に心の中もちくりとわずかに痛んだ。カンナが言うように確かに言い過ぎなのかもしれない。ただでさえ私のものの言い方はきつい部類に入るのだからと反省もした。けれど、マリアは自分が間違ったことは言っていないという自信もある。主役が何よりも努力しないと、どうにもならないのに。お稽古は大事だ。見に来てくれる人のためにも。お客様に楽しんでもらう為にに出来る限りの稽古をし、完成度を高め、最高の状態で舞台に立つ。マリアにとってはこれが当たり前なのだが、アイリスにとっては違うのだろうか。甘やかすのは簡単だし、なぁなぁにすれば全てが丸く収まるのは自分だって分かっている。だけど、果たしてそれが正しいことなのだろうか。アイリスの為になるんだろうか。 「みんな…マリアはんみたいに強い人間ばかりじゃないんや…。」 違うわ、紅蘭。私は強くなんかない。自分でも嫌になるほどに弱いから、それを隠すために正論で武装する。何事にも耐えられる強さが欲しいと一番望んでいるのは私なのに。いつも正しくありたいと、強くなりたいと願っているのは弱いから。弱いから、こんなことでさえ悩んでしまうのに。強ければ自分のやったことが良かったのかなんて迷わなくても済むのに。 マリアは頭を抱えた。強くなりたい、正しくありたい、優しくなりたい。それだけのことなのに、自分にはそれさえもできやしない。こんなんで、隊長の留守を預かって花組をまとめることなんてできない。 一体、あやめさんならこんな時にはどうしただろう?隊長だったら?きっとあの二人ならこんな状況でさえうまくまとめて、そして良い方向に持って行けるだろう。それが本当の統率力と言うものだ。絶対的にそれが欠けている自分を悲しいほどによく分かってはいる。だからと言ってすぐにそれが身につくものでもない。花組における統率力はいかに実戦の経験があろうとも、戦略に長けていようとも全く役には立たない。舞台の上でも演技力があるとか、人気があるとかそんなことは二の次なのだ。ここでは信頼とそれに値する人としての魅力と。それが圧倒的にものを言う。悲しいけれど自分には後者がない。それが今のこの状況の一番の原因であることは彼女自身、痛切に感じている。だからと言って今更みんなの人気取りができるような性格だったら今ごろはここにこうしているわけはないのだけれども。 マリアは自嘲気味な薄い笑いを浮かべるとゆっくりと首を振り、ペンを置いて椅子から立ち上がった。錠をかけてあった窓を開け放つとふわりと心地よい風が部屋の中を巡り、カーテンを動かしていく。窓の外に向いて深呼吸をし、空気と気分を入れ替えると再び机に戻りペンを持ち直し書類に目線を戻した。 マリアが処理の済んだ書類の束を持って支配人室を訪れたのは夜も随分更けてからだった。思ったよりも通訳に手間取った書類があり、こんな時間になってしまったのだった。 「こちらは先日、ニューヨークから届いた書類です。それからこちらは新しい光武のパーツの見積もりです。この価格で決定しましたので、こちらに試算表を作りました。」 米田の机の上に次々と書類が並べられて行く。実際、あやめはかなり有能な人物であったがマリアだってそう劣るものでもない。人間が堅すぎると言うきらいはあるけれど、それはマリアの個性というもので、これでも最近は少しずつ丸くなってきているのも米田はよぅく知っている。何しろ、あやめ亡き今はマリアと一番長い付き合いになるのだから。 「最後にこちらが経理書類です。金額は確認してありますのでここに印鑑をお願いします。」 マリアは書類の枠をさした。米田が引出から印鑑を取り出し、はあっと日本酒臭い息を印鑑に吹きかけてから彼女の細い指が指し示すところに押印した。 「ありがとうございます。これは私がかすみに提出しておきますので。」 「おう、頼むぜ。」 「はい。」 「じゃあこれも頼むぜ。」 米田が新しい仕事の書類をマリアに手渡した。本当にきりがない。次から次へと色々な仕事が舞い込んでくる。マリアが渡された書類を整えて部屋を出ようとすると米田に引き止められた。 印鑑をしまいかけた米田が同じ引出から1通の封筒を取り出しマリアに渡した。 「なんでしょうか?」 「処方箋だ。」 「処方箋?」 米田はそれきりまた日本酒を飲み始めた。これ以上は何を尋ねても返答が戻ってこないことを察した彼女は部屋を退出して廊下に出、白い封筒を改めて手にとってみる。表書きはなく、くるりと裏返すとそこには几帳面そうなきっちりとした綺麗な文字で『大神一郎』とだけあった。その名前に、マリアはどくんと心臓に一気に血が流れ込むくらいに驚いた。どうして?,マリアはその中身の見たさにいつもは静かに上がる階段を駆け上がって急いで自室に戻って行った。 「けっ、名前だけであれじゃあ…な。」 米田は階段を駆け上がる音を聞いて可笑しそうに笑っていた。 部屋に戻ると封筒の封を慌てて切り、便箋を開く手ももどかしいくらいに急いで中を見た。便箋には几帳面で綺麗な文字が整然と並んでいる。 『マリアへ。 君がこれを読んでいると言うことは、きっと今、君は辛い状況にあることだろう。あやめさんがいなくなって華撃団の運営も大変なこの時期に、君に全てを押し付けて海軍に戻らなければならなくなった自分をどうか許してほしい。』 許すだなんて最初から怒ってません。マリアはそう心の中でつぶやいた。海軍に所属しているのだから、部署の移動は軍人として当たり前のことなのに。 『この先、恐らく君が大変な事もあるだろうと、その時に自分が一体何をしてやれるかと考えたら、結局何もできない自分に本当に腹が立つ。ずっと君を守りたかったのにそれができない自分が情けない。だから、せめて、少しでも君の大変さが軽くなるようにと思ってこの手紙を認めて米田長官に預けて行くことにした。君が大変そうな時に手渡すようにとお願いして。』 隊長…。マリアは大神の気遣いに思わず鼻の奥がつんっとしてじんわりと涙が浮かんでくるのを必死で押えた。 『さて、そういうわけで、残念ながらマリアが今現在、どのようなことに直面し、大変な思いをしているかが具体的には分からない。でも、俺のやった方法でどんな問題もすぐに解決できる方法があるから、以下の文面に従ってみてくれるかい?』 なんだろう…?マリアは首をかしげながらその下に続く文面を読んだ。 『用意するもの。まずは時間。それから小麦粉、バター、砂糖、卵、バニラエッセンス、生クリーム。それから季節の果物、おいしい紅茶。』 はぁ?マリアはクエスチョンマークを頭に乗せながら読み続ける。 『まず、君は用意した時間を使って君の得意なフルーツがたっぷりのケーキを焼くこと。それができたらおいしい紅茶を入れてサロンで優雅にティータイムを楽しむこと。』 なおさら分からない。一体、何を言いたいのだろう? 『そうしたら、ケーキの匂いに釣られてまずはカンナがやってくるからゆっくりと話をする。そうしたらカンナの声にきっとさくらくんやすみれくんやアイリスも来るだろうから、そうしたら地下格納庫にいる紅蘭を呼んでみんなでゆったりとティータイムを過ごすこと。もしも、今の君や花組にゆっくりとティータイムをすごす余裕さえないというなら、多少大変なことかもしれないけどなんとか工面して、とにかくゆっくりとみんなで過ごす時間を作ること。全ての大変な局面はお互いの行き違いや誤解、そうじゃないとしたらみんなの団結力が足りないことによるものであるから。特に君はなんでも一人で背負い込もうとする傾向があるから充分に気をつけるように。ゆっくりと他愛のない話でも構わないから、みんなで話す機会を持ってみるといい。そうすれば、道は開けるはずだから。自分自身、そうやって何度もみんなに助けられてきたからこの方法は絶対にうまく行くと思うよ。 最後に。とても心配だから書いておく。どうか、決して無理をしないで。全てを一人で背負い込むようなことだけは決してしないで下さい。結果はどうであれ、みんなで全力を尽くせば、あとで後悔だけはしないで済むはずだから。 マリアが胸を張って、前を向いて歩いて行けるように。少しでも君の役に立てたらと思います。 大神一郎』 そして、追伸として便箋の一番下に書かれていた一文を読み終えてマリアは手紙を抱きしめた。隊長、ありがとうございます。心の中で何度も何度もそう繰り返した。どうして隊長はいつもいつも、こうやって私が辛いときに救いの手を差し伸べてくれるのだろう。私こそ、隊長にして上げられることが何もないというのに。 翌日の午前中はお稽古の予定であったのだが、またしてもストライキ中のメンバーはやってこなかった。マリアは俯きかけた自分の顔を上げると大きく深呼吸をして今日も一人でお稽古を始めたのだった。 その姿をそっと舞台の袖から覗いている影が一つ。そして、その影は少し後ろから近づくもう一つの別の影の存在に気づかなかった。 「やれやれ。強情なことだ。」 舞台袖でマリアを見つめていた影はその声にひっと肩を竦めてしゃがみ込んでから、恐る恐る声の小隊を確かめるべく振り向いた。 「米田のおじちゃん…。」 「なぁ。アイリスよ。おめぇもそうは思わねぇか?」 後ろから近づいた米田がアイリスに向ってふふんと笑いながら舞台上で発声練習を続けるマリアを眺めた。 「…。」 アイリスは無言で俯いてもじもじと抱えているジャンポールの足をもてあそぶ。 「謝っちまえよ。」 「…。」 「楽になるぜぇ?」 「だって…。」 アイリスは小さな、小さな声で呟く。 「あーん?」 「きっと、マリア、怒ってるもん。」 アイリスの返事に米田はくすくすと笑いながら言う。 「大丈夫だよ。ああ見えても、素直に謝ったらマリアだってうるさくは言えねぇんだからよ。昔からそうだろ?あいつは素直な奴には滅法弱いんだ。」 米田は頭の中でつんつん頭の今は遥か南洋にいる海軍士官を思い出しながら笑って舞台袖から出て行ってしまった。 その日の午後。マリアは厨房で季節のフルーツをたっぷりと使ったケーキを作っていた。厨房から流れ出る甘い香りは劇場内に広がって行く。ケーキが出来上がるととっておきの紅茶と雑誌とでサロンで優雅にティータイムと、大神の手紙の通りにしていた。 「うん?マリアか。なんだかいい匂いがするなぁ。」 果たして、本当にカンナがやってきた。 「ふふふ。よかったらカンナ、食べない?」 「おっ、サンキュ。」 マリアはカンナにケーキを切り分けて、紅茶をいれてやった。カンナはケーキを受け取ると、マリアの3倍くらいの大口でばくりっと口に入れた。 「ん、んまい。」 「ありがと。」 カンナはしばらくケーキをうまそうに大口でばくばくと平らげていた。マリアはカンナに料理を作ってやるのが好きだ。なんでもとても美味しそうに食べてくれる人だから作り甲斐がある。そう思いながら見ているとケーキを食べ終わった彼女は紅茶で甘くなりすぎた口を直す。 「珍しいねェ。マリアがケーキだなんて。しばらく作らなかったのに。」 言われて見ればそうである。最後に作ったのはいつだったろうか。確か、まだ隊長がここにいた頃だったと思い返すと存外に昔だったと言うことに気づいて自分でも驚いてしまう。 「最近、マリアは忙しそうでずっとゆっくりとしゃべっている暇なんてなかったからな。ま、たまにはいいかもしれないな。」 カンナの言葉に、いつもあやめの代わりの仕事が忙しくてこうやってサロンでくつろぐこともしばらくはなかったということを思い出した。 「なぁ、そんなに隊長代理の仕事って忙しいのか?」 「そういうわけじゃ…。」 そこまで言いかけてマリアがはっとする。そうだった。大神の手紙に書かれていたのはこのことだった。いつも、自分で背負い込みすぎるって。マリアは苦笑しながら小さく首を振るとカンナに言いなおす。 「ううん、そうね、ちょっと今は忙しいわね。」 「なら、あたいも手伝うよ。あたいにもできる仕事、なんかあるだろ?」 嬉しそうに微笑むマリアの顔を見てカンナもつられたように微笑んだ。 しばらく二人で楽しそうに話をしているうちにマリアは、恐る恐ると言ったふうにサロンを覗き込む人影を見つけた。 「アイリス?」 その人影の主を見止めると名前を呼んでみる。するとアイリスは俯いておずおずとサロンの中に入ってきた。 「アイリスもどう?今日はね、自信作なのよ?ほら。」 マリアがケーキを見せるとアイリスの顔がぱっと上にあがる。怒ってないのを確認すると急にほっとしたのか泣き顔に変わって行った。 「マリア…。」 「なぁに?」 低いけれど優しい、マリアの声にアイリスは勇気を出して見ることにした。 「あの…ごめんなさい…。」 しゃくりあげそうになりながらようやくそこまで言うと、アイリスはマリアに駆け寄って跳びついて膝の上で泣き出した。 「ごめんなさい、ごめんなさい。もう、お稽古さぼらないから…。」 「いいのよ、もう。私も言いすぎたわね。」 マリアはしばらくの間、それはそれは愛しそうにアイリスの背中をゆっくりとなで上げていた。 その日の夜。夜の見まわりの代行をカンナに頼んだマリアはスーツの胸ポケットから大神からの手紙を取り出して開き、もう一度最後の追伸の部分を読み返した。 『追伸 君の脆さも優しさも人には分かりにくいかもしれないけど、いつかは分かってくれるときが来るから。俺だって分かったんだから、ね?』 優しさはともかくとしても脆さの方は、あなた以外に見せる気はありませんけどね?マリアはそう思いながら窓から星空を見上げた。 END |