| 太正15年、春。俺は明日、留学のため日本を離れて仏蘭西へ行くことになっていた。あまり多くはない荷物をまとめ、明日久しぶりに袖を通す海軍の士官服をつるし、最後に荷物の確認をすませてベッドに入ろうとした矢先のことだった。部屋のドアがノックされる。「はい?」
 こんな夜更けに。いぶかしげに思ってドアを開けるとそこにはマリアが立っていた。
 「夜分遅くに申し訳ありません。」
 「ああ、大丈夫だよ。」
 「あの…これ、船の中で読んで下さい。」
 そういって彼女が差し出したのは手紙だった。俺はそれを受けとってからマリアの顔をもう一度見た。冷静な彼女にしては珍しく動揺の色が隠せないでいる。
 「ありがとう。」
 それだけしか言えない。他になんて言葉をかけたらいいのかわからない。下手な慰めなんか今は言い訳にしかならないから。どう取り繕っても、何を言っても今の俺達には確実に何時間後かに別れの時間がやってくる。
 「隊長…。」
 マリアが震える唇でようやくそれだけの言葉を搾り出す。
 「うん?」
 こぼれそうになる涙をこらえるように少し大きく目を見開いてから彼女はゆっくりと深呼吸をしてから言った。
 「気をつけて…。」
 「ああ。」
 本当はマリアに沢山話をしたいことがある。このまま離れてしまいたくない、一緒にいたい。抱きしめたい。そんな思いが頭の中をよぎっていく。いや、一番に言いたいのは、帝都に戻ってくるまで待っていて欲しい。そのことだった。しかし、冷静になって考えて見れば表向きにはマリアは花組のトップスタァで、帝都の女性の憧れの的で一介の海軍士官などが手を出せるような相手ではないのだ。彼女ほどの人であれば、もっといい男性と縁があっても不思議ではない。だから…言えない。こんな自分に彼女を縛り付けておくことなんかできない。
 「何か?」
 不思議そうにマリアが俺に尋ねる。ゆっくりと首を振ると彼女は少し寂しげに微笑んだ。
 「それでは、失礼します。」
 「あ、ああ。おやすみ。」
 マリアが踵を返して自分の部屋に戻って行く。その後姿を見送っているうちにだんだんと別れのつらさが募ってきた。本当にしばらくの間、会えなくなってしまうのだ。廊下の角を曲がって、マリアの姿が見えなくなったとき急にいたたまれなくなり、慌ててマリアの部屋に走って行った。
 「マリア!」
 ドアをノックする。すぐに驚いた表情のマリアが中から出てきた。そのままマリアの華奢な体を力いっぱい抱きしめた。
 「た、隊長…?」
 「マリア…、ごめん。俺…。」
 俺の耳の側でマリアの小さいため息が聞こえた。
 「隊長、中へどうぞ。」
 ここでは他の隊員に見られてしまうと冷静に判断をしたマリアはそう言って部屋の中に招き入れてくれた。余計なものがほとんどない、相変わらず綺麗に片付いた部屋。
 「どうなさったのですか?」
 「俺、大事なことをマリアに言ってない。…俺がまた帝都に戻ってくるまで…、待っていてほしい。」
 その言葉に彼女は目を真ん丸くして頬を赤らめる。
 「待ってても…よろしいのですか?」
 「待ってて欲しいんだ。」
 マリアの見開いた目がみるみるうちに潤み、ついでぽろぽろと大粒の涙が両の瞳からこぼれでた。
 「すいません。」
 マリアは慌てて人差し指で自分の涙をぬぐった。
 「隊長は…これから海軍士官として出世なさる方ですから…私のようなものが側にいてはご迷惑になるのではと。だから…待ってますって言えなかったんです。」
 マリアは俯いて言う。そうだった、マリアはそういう女性だったのだ。思わずもう一度、マリアを抱きしめていた。
 「同じこと、考えていた。マリアは花組のトップスタァで、俺なんかホントは話もできないような立場の人だから…だから、待っててくれって言えなかった。」
 肩を震わせて俺の肩に顔をうずめて彼女が泣いている。帝都に残して行ってしまう恨み言さえ言わずに、待っててくれとはいえなかった薄情者の俺に対して非難の言葉ひとつさえ言わずにいた。強そうに見えて実は脆いマリアが離れてしまうことを辛く思わないはずはないのに。俺はどうしてそんなこともわかってやってなかったのだろう。俺の為に。それを一番にして自らのことを犠牲にしてしまうマリアのそういう性格を一番知っていたのは俺ではなかったか。
 「向こうについたら一番に手紙を出すよ。ちゃんと毎日、マリアのことを考える。」
 「いいんですよ。」
 俺の言葉に肩の上にある彼女の頭が小さくかぶりを振る。
 「待っててくれって…その一言だけで私には充分です。」
 マリアの翡翠の瞳がまっすぐに俺の目を捕らえる。
 「必ず…帰ってきてください。」
 「ああ、わかった。」
 俺は小指をマリアの前に出した。
 「何ですか?」
 「約束しよう。指きりだよ。」
 「指きり?」
 「こうやってね、約束するんだ。」
 俺はマリアの手をとって自分の小指とマリアの小指を絡ませた。
 「指きりげんまん嘘ついたら針千本のーます。」
 くすくすっと彼女が笑った。
 「嘘ついたら針を千本も飲むんですか?」
 「うん。」
 「日本には物騒な約束の仕方があるんですね。」
 「それだけ、守らなくてはいけない大事な約束ってことなんだよ。」
 恥ずかしそうにマリアが微笑んだ。きっと、俺はここに戻ってくる。劇場へ、いや、花組へ。何よりもマリアのところへ。
 |