いつも夜遅くまで仕事をしている大神にしては珍しく、終業早々に支配人室を退出し劇場の裏手にある自宅へと向かった。
途中、廊下で会った由里や売店の椿などに冷やかされながらの帰還である。
公演日はそんな早くに戻ることはできないから、この日が休演日だったことも非常に嬉しいことだった。もっとも、それはかえでが気遣ってくれたせいであるが。
ともかく、劇場の裏手にある自宅への道を辿りながら、そこここに輝く店の明かりをみながらふと考える。
何かを買っていったほうがいいだろうか。
銀座には珍しいものを売っている店があちこちにあり、今、こうして歩いている大神の正面にもぴかぴかに磨き上げられたガラス戸に、金の優雅な文字で店の名前が書かれているお店がある。中をちらりと見ると、そこにはやはりこれも丁寧に磨かれたであろうガラスのショーケース内にちょこんと行儀よく収まっている小ぶりのフランス菓子。
そういえば、ここのお菓子はおいしいとさくら君が言っていた。
買って帰ろうかと、一度は足をそちらに向けたが、すぐにそれも思い直して自宅への道へと戻る。
買って言ったところで余計に苦しめるだけなのだ。
だから、余計なことはすまいと、それよりも早く帰るのが一番だと足を速めた。
家の玄関を開けると、辛そうな表情の彼女が出迎えに出る。
どんなに具合が悪くとも、それだけは必ずしようと思っているようだが、逆にそのことが彼女を苦しめているような気がして、何度もそんなことはしなくていいんだと言っているにも拘らず、頑としてこれだけは譲らない。
「大丈夫かい?」
「ええ…。」
そう返事する顔色は酷く悪く。
「辛かったら横になっていて構わないよ。」
そういいながら上着を渡すと、彼女はゆっくりと力なく首を振り、ハンガーに大事そうに彼の上着をかけた。
「大丈夫です。…今、夕食の支度を…。」
ふらふらと、覚束無い足取りでキッチンへ向かうのを止めたい気分だったが、そうしたところで彼女は決して聞き入れない。
仕方なく、大神はその後姿を無言で見送ると夕食の支度が整うまでデスクにつく。
調べ物をしようと、漢字辞書を取り出してぱらぱらとめくっているうちに、思いがけず夢中になってしまい、彼女が呼びに来るまですっかりと没頭してしまった。
「本当は、何かをしたかったんだけど。」
テーブルの上には燭台に置かれた蝋燭が1本。
大神が食事を終えるまで、彼女は同席しなかった。
大神もまた、無理強いをすることはしない。彼女を気遣いながらも一人でもくもくと食事を取り、終わってから自分で片付けようとすると、慌てて彼女が出てきてやるといって譲らなかったので仕方なくそれを任せる。
時々肩で息をつきながら作業をする後姿をみながら、大神は小さな燭台と白のシンプルな蝋燭を用意した。ぱちり、とライターでその頂にオレンジの炎の冠を載せ、キッチンの照明を落とすと代わりにそれが室内を照らしてくれる。
ちょうど片付けの作業が終わった彼女がゆっくりとふりむくと大神の向かいの椅子に座った。
「いいえ。…何もいりません。」
血の気の引いたような唇が動く。
「…本当は帰りにお菓子でも、と思ったんだけど食べられないだろう?」
「…すいません。」
申し訳なさそうに頭を下げるのに、慌てて大神が首を振る。
「あ、いや、そうじゃなくって。…買ってきたら匂いだけでも辛いだろうから。…それに、指輪とか、ネックレスとかも考えたんだけど、今、つけられないっていうし。」
「ええ…。むくんでしまうことがたまにありますから…。」
「他のものを考えたんだけどね、服とかもだめだし。」
「そうですね。」
「だからね、何も思い浮かばなくって。…本当に申し訳ないんだけど、来年まで待ってくれるかな?来年は、ちゃんと今年の分も一緒に贈るから。」
ひどく申し訳なさそうな表情で誤る大神に、彼女はようやく微笑んだ。
「…本当に何もいらないんですよ。…だって、もっともっと大事なものを一郎さんからいただいたんですもの。」
そういって彼女はほら、と自分のお腹を指し示す。
服の上からでも少しだけ膨らみの目立つようになったお腹がそこにある。
「…あ…いや…。」
大神は、真っ赤になって口ごもったが、マリアは微笑んだまま続ける。
「…私には、何よりのプレゼントなんです。…毎日、楽しみで、幸せで。」
「でも…そのせいで…ご飯も食べられないほど辛いのに…。」
彼女はつわりがひどく、炊き立てのご飯の匂いにも反応してしまう。それどころか、油の匂いなども酷く障るらしく、大神と一緒に食事をとれなくなっていた。
幸い、パンや野菜には何の反応も出ないからそういったものを口にして過ごしている。
「大丈夫ですよ。あと1ヶ月ほどしたら嘘のように楽になるそうです。…ですから、何も気になさらないでください。」
ようやく彼女の笑顔を見れて大神はほっとする。
本当にここ何日も辛そうだったから。
「…それなら、なおさら。あんまり無理しないで、辛いときには横になってくれよ。マリアが参ったんじゃ、子供にだって障りがある。」
「でもあまり大事にしすぎても良くないという事ですから。…ね?」
悪戯っぽく笑うマリアに大神はやれやれと肩を竦めて。
「じゃあ、来年。来年は今年の分も盛大に祝おうな。3人で。」
「ええ。3人で、ですね。」
嬉しそうに微笑んだ彼女はとても綺麗で…いや、綺麗というよりもむしろ神々しくて。
大切でかけがえのない命を育んでいる彼女に感謝と、愛を込めて、大神はそっと彼女を抱きしめてキスをした。
もしかしたら、来年のプレゼントは次の命になったりして、なんてことを頭の片隅にちらりと浮かばせながら。
END
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