その時、隊長は泣いていたのかもしれない。
階段を上がって行くと丁度ぱたぱたと駆けて行くマリアの後姿と、それを呆然と見送る隊長の姿をみつけた。硬直した隊長はわずかに肩を震わせて、追いかけることもできずにそこに立ち尽くしている。喧嘩か何かしたと誰が見てもわかる情況で、そんな様子に声をかけづらく、一瞬階段下に身を隠したが、隊長の普段の勘の鋭さはどこへやら、かえってそんな素振りをしている自分の方が傍から見れば間抜けにうつるくらいだった。
あたいは声をかけて良いものかどうか、しばらくそこに待っていたが、いつまでもこうしているわけにも行かず、また隊長の硬直状態がなかなか解けないことからも勇気を出して声をかけてみようと隊長の側に寄っていった。
あたいはマリアにはいつでも笑ってて欲しいと思っている。花組発足前に出会ってから、ずっと苦楽を共にしてきた大事な相棒だから、他の誰には言えなくても様子だけで察してくれる奴だから。大事な相棒をどんな奴にも渡したくなかったけど、それでもマリアが自分で選んで、ついていくって決めたからあたいは黙って見守ることにした。その相手がマリアよりも背が低くても、みんな均等に相手をする優柔不断さの持ち主でも、夜の見まわりでいっつも風呂を覗こうとしてても、挙句の果てにはあたいとすみれの喧嘩も止められず最後にはやっぱりマリアの力をかりなくちゃいけないような奴だとしても。良く言えば一生懸命さとあきらめの悪さだけが取柄の隊長を好きになってしまったから仕方ない。相棒のあたいにできることはマリアがいつも、あのキレーな微笑を浮かべていられるように影ながら力になってやることだけだった。
「隊長、何やってんだよ、そんなところで。」
わざとらしくならないように、あたいの演技力を総動員して声をかけると、はっとしたように隊長は振り向いた。
「あ、いや…。」
慌てて隊長は取り繕おうとしていたが、憔悴しきった顔がショックの大きさを如実に物語っている。目は定まらずに宙をさ迷って、なんとかこの状況を誤魔化したいと言う意思が現われている。
「あれ?マリアが一緒じゃなかったのか?」
すっとぼけるのは得意じゃないけれど、何があったのかを聞き出すためにわざととぼけて尋ねて見た。
「いや…。」
そう答えている間にも隊長はわずかに目を潤ませて、寒くもないのに少し鼻を赤くしている。やっぱり何かあったのは間違いがない。もう一押しとばかりにあたいは更にとぼけて続ける。
「隊長、ここんとこ忙しいのか?あんまり一緒にいるの見かけねェなぁ。マリアに冷たくしてるとふられちまうぞ?」
からからと豪快に笑い飛ばすと、それがツボにはまったようで、みるみるうちに隊長の顔が曇って、潤んだ目元にはじんわりと涙の粒が形成され始めた。あたいはマリアが泣くのには慣れてるけど、男に泣かれるのには慣れてない。でも、この隊長が泣くなんて。脳裏にはまさか…?の考えが一瞬浮かぶ。
「おいおい、なんだよ、隊長。しけた面して…って、まさか、おい、本当にふられたのか?」
それぐらいのしょげように聞いてみると隊長はそれでも静かに首を振る。そうだよな、まさか、あのマリアがべた惚れの隊長を振るはずなんてないのだから。
「まだ…最後通告は受けていない…。」
最後通告だァ?ってことは、そこまで深刻な状況になっていると、そういうことなのだろうか。
「何やったんだよ!」
あたいは隊長の肩をがしっと掴んで、力まかせにゆさゆさと前後に揺さぶった。首の据わらない赤ちゃんのように隊長の首が前後にがくんがくんと大きく揺れる。そんなこと、考えられない。あのでかい身長に似合わない少女趣味のあいつが、自分の惚れた男をふるなんて絶対にありえない。
「分からないんだ…。全く心当たりが…ない…。」
呆然としたまま隊長が答える。とりあえず、浮気とかそういうんではないらしい。
「マリアに聞いて見たのかよ?」
「聞くも何も…マリアは話しかけようとすると逃げるから…。」
「逃げる…?マリアが?」
聞き返すと隊長が力なくうなづいた。あたいの脳裏にはさっきの駆けて行くマリアの後姿が思い出される。
「もう1週間にもなる…。」
そう言うと隊長はがっくりと項垂れてぼろ人形のようにそこで座り込んだ。
「ふーん。覚えがない…か。」
あたいはすっかりとしょげ返った隊長の供述に、多少の納得できない点を抱えていた。消灯時間はとっくに過ぎているけれども、右手にレニ、左手に泡盛を抱えて隊長の部屋に押し入り、更に詳しい事情聴取を行っていたのだ。
「どう思う、レニ?」
「うーん。」
レニは今聞いた現状と、彼女が知っている限りのマリアの近況を考え合わせて、その明晰な頭脳を動かして状況の分析に努めているようだ。レニを呼んで来たのは、やっぱりあたいよりもレニの方が分析力、洞察力に優れていることからだった。
最近は花組の男役として人気急上昇中のレニは実際、私生活でもあたい達二人とはすこぶる仲も良く、行動を伴にしていることが多い。あたいとマリアのコンビは花組設立当初からのコンビであるが、レニはというと、マリアとは一見師弟コンビに見えるようだが(実際マリアはそう思っているかもしれないが)天然ボケのマリアに的確で冷静なツッコミのレニであることは明白な事実であり、またあたいとは体力派と頭脳派レニといった正反対のコンビになっている。あたいと違う立場でマリアのことを見ているレニだからこそ分かることがあるかもしれない。それもレニを呼んできた理由の一つだった。
「まず、思い当たるのは…1週間前…いや、5日くらい前のことだけど。」
レニが口を開く。帝劇地下にある蒸気演算機といい勝負の頭脳に何かが閃いたようだ。
「マリアはデパートに行ったようなんだ。その時に…。」
「その時に?」
あたいは身を乗り出した。
「化粧品を買い込んできたようだよ。しかもかなりの量だった。」
「化粧品だぁ…?」
あたいは顔をしかめた。マリアは白人系の中でも上質の、白過ぎるほどの肌をそれなりに大事にはしていたが、織姫やすみれのように念の入った手入れをすることがほとんどなかった。ただ本当に丁寧に洗顔をし、その後に軽く化粧水をつけるだけですませていたのだ。本人のポリシーとしてシンプルな化粧しか施さず、そんなに大量の化粧品を買い込むなど信じられない話なのだ。
「全部かよ?」
「おそらくね。…デパートの紙袋じゃなくって、マリアの使ってる化粧品のメーカーの紙袋だったから。」
デパートの紙袋ならば、他のものを買った時に大きい袋を貰ったという可能性もありえるだろうが、それが化粧品メーカーの袋ということは、その化粧品メーカーのものを大量に購入した何よりの証拠であろう。
「そう言えば…。」
そこまで聞いてあたいも思い当たる節がある。
「あいつ、最近、風呂なげぇと思わねぇか?」
「…言われてみれば。」
レニもうなづく。
「あたい、このあいだあいつが出る頃にたまたま出くわしたことがあったんだけどよ。あいつ、風呂場になんだかもちこんで、しきりに顔をいじくってた。」
「今までに、そんなことしたことがなかったね。…何故急に…。」
あたいたちはちろりと隊長の顔を見る。隊長はぶんぶんと首を振って思い当たることがないことを再び強調した。
「ふつー、化粧するってのは、皺が増えたとかそういうのを隠すためだよな?」
「そうだとは言いきれない。もっと綺麗になりたい、そういうのもあるよ。」
レニの言葉にあたいは眉をよせ、口をへの字に考え込む。
「それから、最近、マリアはサロンに顔を出していない。」
レニの発言にあたいもうなづいた。そう、ここのところマリアの姿を食事の時くらいしか見ていないのだ。
「隊長、マリアは今、忙しい?」
「そんなはずはない。」
隊長はすぐさま否定する。
「次の公演はレニが主役だし、マリアはちょい役だからさほど忙しいはずもないはずだしな…。」
あたいの言葉にレニもうなづいた。
「とにかく、何かのきっかけがあったに違いないんだ。」
レニは再び力説する。それはあたいも疑ってはいない。
「まさか…。」
あたいは頭に閃いたことをつい言いかけて慌てて言葉を飲み込んだ。
「何?」
レニがあたいにその先の言葉を言うように促した。
「好きな男でもできたとか。」
言うのをためらったが、もう遅い。しぶしぶ発した言葉に隊長はみるみるうちに真っ青になっていった。これは本当に冗談にはならない。何しろ、マリアは上は貴族院の議員の息子から下はおませな子供まで、熱心な求愛者が後を絶たないのである。隊長にして見ればいつ振られても可笑しくはない状況がすぐそこに、いつでもあるのだ。蒼白になったまま動かなくなった隊長を見ながらレニが言う。
「カンナ。そうと決まったわけじゃない。…隊長、ショック受けちゃったじゃないか。」
「あ、わりぃ、わりぃ。…っておまえが言えって言ったんだろ?」
「言ってはいないよ。」
「どっちにしろ…もう聞こえてないみたいだぜ?」
二人で隊長の顔を見ると、顔面蒼白の上に影まで落ちて、まるで鬼王とかたつむり京極とサタン山崎の攻撃を一気に食らったような顔になっていた。
「相当参ってるね。…ま、いいや、少し調べてみよう。」
「ああ、そうだな。」
あたいたちは呆然自失の隊長を一人、硬直したまま残して部屋を出ていった。
「うわ、なんだよ、その顔。」
翌朝。隊長の顔を見て開口一番にあたいが叫んだ言葉はそれだった。
「寝てねぇのか?おい。」
真っ黒になったくまが眼の下に貼りつき、寝不足を雄弁に語っている充血して真っ赤な目。そしてこけた頬。虚ろな瞳。たった一日でここまでなるものかぁ?世の中の妖怪変化の類だってこんなにはすごくないといった風情である。
「と、とりあえずよ、あたいとレニで調べてやるから、もうちょっと待ってろよ。」
昨日の失言に責任を感じたあたいは慌てて隊長に告げた。やっぱ、マリアのためにも、隊長のためにもちゃんと原因を追求したほうが良い。隊長はやけに素直にうなづいて、肩を落としたまま悲しそうにとぼとぼと中庭に掃除に向って行った。その姿を見送りながらあたいは腕組みして考えた。さて。どうしたものだろう。とりあえずあたいはレニの部屋に行って見ることにした。
「まずは化粧のことが関係するのか調べたほうが良さそうだよね?」
レニはすでに朝食も終えて、来月の舞台の台本の読み込みを行っていた。今朝の隊長のすさまじいまでの形相をレニに話すと、さすがにレニも心配したのか、台本を手放して一緒に今後の方策を考えてくれる。
「そうだな。可能性のあるものをどんどん消して行きゃ、そのうち当りがでるかもな。」
「まぁ、多分、化粧がポイントだとは思うんだけどね。」
やけに自信ありげにレニが呟く。
「マリアの行動はわかりやすいからね。本人は隠している積りでもこっちから見ればばればれだよ。ね?」
レニが同意を求めてくる。いわれりゃそうかもしれない。特に隊長関係になるとこっちが赤面するほどの素直さで、当てられっぱなしのあたいたちには時として目の毒、耳の毒になることもある。
「そだな。」
あたいが同意するとレニが我が意を得たりと言った顔で笑うとそのまま部屋から出て行こうとする。
「レニ、どうする気だ?」
「まぁ、まかせといてよ。」
ふふっと微笑むとレニはそのままマリアの部屋に直行した。
「まぁ…熱心なのね、レニ?」
マリアは部屋で掃除をしている最中だった。レニはマリアにセリフのアクセントがおかしくないか3箇所ほどチェックをして欲しいと頼み込み、マリアの部屋に入り込むのに成功した。
「カンナじゃ頼りにならないんだよ。真面目にやってくれないし。」
レニがごろにゃんとマリアに甘えると、後ろからついてきたあたいにマリアは軽くめっと睨んだ。マリアはレニには滅法甘い。そのこともちゃーんとレニは分かってて、こういうことを言うからたまったもんじゃない。心の中では文句を言っていたがまぁ、今は仕方ない。
「どこなの?」
「ここと、つぎのページのここと、それからここ。」
レニがマリアにアクセントを習っている間にあたいはそっと部屋の中を見まわした。するとごみ箱の中には化粧に使ったと思われるコットンが捨ててある。それも1枚や2枚じゃない。こんなに使っているとは、随分ぬりたくっているようだ。レニに熱心にセリフを教えているマリアにそっと目をやると、うっすらとファンデーションが塗ってあった。
「ありがと、マリア。おかげで助かったよ。」
レニはにっこりと天使のような顔で微笑んでお礼を言う。これがあの悪魔の計算力を内側に秘めている微笑だとはマリアは知らない。
「あとはもう大丈夫なの?」
「うん。もし、また不安なところが出てきたら、聞きに来ても良い?」
「ええ、もちろんよ。」
頼りにされたマリアは嬉しそうにうなづいた。こういうマリアの喜ぶツボ、ちゃーんと抑えてあるんだよなァ、こいつ。
「ありがとう、マリア。」
レニは少し大げさに喜んでマリアに抱きつく真似をした。
「あれ?…マリア、いい匂いがする。」
そこでレニはようやく本題に入った。
「マリア、どこかにおでかけ?ごめんね、邪魔しちゃったかな?」
「ううん…そんなことはないわ…。」
途端にマリアの顔が曇る。ホント、わかりやすい奴だ。
「…?どうしたの、マリア?」
レニが心配そうな顔で覗き込むが、マリアは少し困ったよう微笑んで首を振った。
「どうもしないわ。」
「でも、なんだかマリア、悲しそう。」
間髪入れずにマリアの言葉を否定する。マリアは困って、なんといっていいか考えあぐねている間にレニがさらに畳み掛けた。
「ボクじゃ頼りにならないかもしれないけど…マリアのこと大好きだから、少しでも力になりたいんだ。」
レニが涙うるうるの心配顔で言うとすぐさまこっちに振り向いた。
「ね、カンナ。カンナもそうだよね?」
さっきまでの涙うるうるはどこへやら、きつい目で援護しろとの合図をよこす。こいつのこーゆーとこ、すげぇよなぁ。そう思いながらもレニのフォローに入った。
「おう、もちろんだよ。…マリア、最近ちょっと様子がおかしいから心配はしてたんだぜ、これでもな。」
あたいの言葉にマリアが驚いたような顔をした。自分の変化に気づいている人がいないと思っていたようだ。実際に、あたいだってレニに指摘されるまではさほどおかしいとは思ってなかったけど。
「何があったか、あたいたちに言って見ろよ。力になってやるぜ。」
マリアはそれでも口をつぐんでしばらくの間は黙って俯いていた。
「マリア、ボク、マリアにはいつも笑ってて欲しいんだよ。」
レニがそうやってマリアにトドメを指すと、マリアは綺麗な翡翠の瞳にぶわっと涙の粒を浮かべて、次の瞬間にはベッドに突っ伏していた。
「うわーん(号泣)。」
なんとも情けない泣声はベッドのおかげでくぐもって外には漏れていないのが幸いだった。これが帝都一の女優の泣き方かよぉ?あたいは頭痛を覚えながらマリアを宥めにかかった。ひくひくとしゃくりあげるたびにマリアの背中が大きく上下する。
「どうしたんだよ、マリア。」
暫くしてから、ようやくマリアは落ちついて顔をあげた。涙で目のふちは真っ赤に染まって、鼻まで少し赤くなっている。えぐえぐとしゃくりあげながら子供のように手の甲で目に浮かぶ涙をを抑えていた。
「隊長が…私のこと、老けてるって…。」
涙声でぽつりと言ったマリアの一言は、最初はぴんとこなかった。老けてる?…つまり、トシだってことか?あたいは山のような化粧品とマリアの顔を見比べた。確かにマリアは花組では一番の年長者であるから、花組の他の隊員よりもオトナ(生物的には、だ)である。けれども、それは老けてるという表現には程遠く、どちらかというと、臈長けて、より一層磨きがかかったと言うほうが正しいとあたいは思う。確かに白人の血が入っているから東洋人よりは早く老けるかもしれない。けれども、染み一つない抜けるような、白雪の肌はまだ衰えを知らず、つやつやとしている。変な化粧水なんかあんまり使わないでもこのコンディション。これを老けていると誰がいうものだろう。
「聞き違えじゃなく?」
こくりとマリアの頭が上下する。
「老けてる…ねぇ…。」
考え込むあたいの横からレニが冷静にマリアに尋ねる。
「それって、面と向って言われたの?」
絹糸のような金髪の頭が左右にゆれる。
「…隊長が…紅蘭の部屋で…紅蘭と何かしながら…。」
マリアの顔がゆっくりと俯いて行った。
「どういう状況だった?」
冷静にレニが言うとマリアがぽつぽつと語り始めた。
「…隊長に用事があったの…。報告書を1つ、出すことになっていて…かえでさんに出す前に隊長にハンコを貰わなければならなかったから…探していたの。」
マリアは俯いたまま、時折しゃくりあげながら話をする。
「書庫にも、テラスにもいなくて…隊長室にもいなかったから…自分の部屋に戻ってきた。そしたら紅蘭の部屋から隊長の笑い声が聞こえたの。…それで紅蘭の部屋の前まで行って見たわ。…もし、紅蘭の用事のほうが大事ならば、後でもいいかなって思って、それで様子を伺っていたのよ。」
マリアはそこで頭を上げる。
「でも、私、別に立ち聞きをするつもりじゃ…。」
「ああ、分かってるって。」
あたいは必死で言うマリアの肩をぽんぽんと叩いた。
「それで?」
「それで…隊長の声が中から聞こえたの。『その時にマリアを見たら見事に老けててさ。言おうかどうしようか考えたけど、結局言わなかった』って隊長は言ったの。」
マリアの瞳にまたぶわっと涙が盛り上がって零れ落ちてくる。
「聞き違いじゃなくって?」
「ちゃんと聞いたのよっ!…聞き違いであることを望んだけど…」
マリアの耳がいいことはあたいもよく分かっている。時折、聞こえなくっていいことまで聞こえちゃってくれるから、困ることがあるわけだ。
「で。この化粧品の山?」
レニの問いにマリアは白い綺麗なハンカチで涙を拭いながらこくりとうなづいた。
「老けてるかなァ?…どう思う?レニ?」
「老けてないと思うけど…。」
「いいのよ、私が一番年上なんですもの。一番先に老けてもおかしいことじゃないわ。」
マリアは『なぐさめはよして頂戴』みたいに言った。かわいそうに、結構ショックだったろうに、それでもあのボケ隊長の発言を自分なりに受け入れようと必死なところが健気ですらある。
それにしても。隊長が紅蘭にそんなことを言ってるとは。正直言って、あたいはそっちのほうが頭に来ていた。マリアが老けている、老けていないはともかくとして、自分の恋人の悪口などをそう軽軽しく他の女性の前で言うべきではない。もしそれがマリアとの仲を隠すためのカモフラージュだったとしても、それは良くないことだと思う。
「隊長に弁解の余地はあると思うか?レニ?」
レニは難しい顔をして考えていた。
「どうだろう…その前後の話しがわからないとね。マリア、その前後の話しで覚えている言葉はある?」
レニの質問にマリアは『あ』と小さい声を漏らした。
「マリアはそういうタイプだからね…って。」
自分でそう答えてから、マリアは再度ずーんと落ち込んで、がっくりと肩を落としてしまう。
「ふける…老いるの他には深くなる、逃げる、没頭する…それから鳥などがさえずる…、蒸される。一番近いのは没頭する…でも、言いまわしが変だな…『見事に老けてて』じゃなくって、『耽ってて』だよね?…聞き間違いではないんだよね?」
こくりとマリアがうなづいた。
「とすると、どれも当てはまらない。」
レニは冷静に同音語を並べていたが、どれもその時の状況や、後の言葉にあわないのを確認した。
「やっぱり、隊長にじかに聞いて見たほうが良さそうだよ。」
レニはそう結論付けるとマリアの腕を取って隊長室に向った。
面と向って老けたことを言われたくないマリアはなかなか隊長室へ足を運ぼうとしなかったが、嫌がるマリアを担ぎ上げてレニと一緒に隊長室に搬送した。そうして目の端が赤くなったマリアと、焦燥感から眼の下にくまができて真っ黒な隊長は久しぶりに対面した。
「で。隊長。紅蘭にマリアのこと、老けてるって言ったそうだな?」
あたいがぎろりと睨むと隊長はぬれ衣だとばかりにぶんぶんと首を振った。その様を見てマリアがわっと泣き出す。
「嘘なんてつかないでくださいっ!いいんですっ!わかってるんですっ!」
マリアが泣き崩れるのを隊長はおろおろとして見ているだけである。
「マ、マリア…。」
「どうせ、私は一番年上ですッ!いっつも怒ってばかりいるからっ、眉間に縦ジワできそうだしっ!」
「そんなこと言ってないってば。」
「だって、この耳で聞いたんですものッ!」
「いつ、どこで!?」
隊長の言葉にあたいは側で聞いてて頭が痛くなってきた。よくいるんだよな、ガキで、『何月何日何時何分何曜日だよ?』とかって聞く奴。あれと同じじゃねぇか。ったくよ、もうちっと大人になれや。深い溜息と共に反対側を見てみると、マリアは涙ぼろぼろで、それでも鼻水たらしてないのがさすがに女優って感じだった。きっと隊長を睨みつけ、鼻声で答える。
「1週間前の夜、紅蘭の部屋で!」
「紅蘭の部屋…?」
隊長は記憶の底を探るように首を傾げて、少し上向きに視線を向けて考え込む。その状態でしばらく考えてから、突如として『あ!』と一言短く叫んだ。
「ご、誤解だよ。マリア!」
隊長は安心したように、なんだか少し微笑んでマリアに言う。けれども、マリアはそんなの信じられないようで、相変わらずきっつい目で隊長を睨みつけていた。
「誤魔化されませんっ!だって、私…。」
そう言っている間にもまた新たな涙がぶわっと湧き上がってくる。
「いや、確かに言ったけどね。その老けてるじゃないんだよ。」
隊長はマリアを宥めながらゆっくりと説明をはじめた。
「あの時、紅蘭と俺は花札をやっていたんだ。…いいかい、花札って言うのはいろいろなルールがあってね。…前に、確か、4人でやったことがあるの、覚えてるかい、マリア?」
隊長がマリアに尋ねると、こくりとマリアが小さくうなづいた。
「ここでやっているのは2人でやるのが主流だけど、その時は、確か、アイリスがみんなでやりたいって言い出して、アイリスとマリアと俺とさくらくんでやったよね?」
再びマリアの頭がこくりと上下に揺れる。
「あの時、俺はみんなに言い忘れていたことがあってね。…4人でやる場合には役ができにくくなるだろう?で、そういう時には違うルールを適用することがあるんだけど、みんなにはうっかりして説明し忘れたんだ。」
「そのことが老けてるのとどういう関係があるんだよっ。」
あたいはいらいらして、思わず隊長に怒鳴っちまった。
「まぁまぁ、話しは最後まで聞いてくれよ。…でね、あのとき、なかなか決着がつかなかったよね?」
みたびうなづいたマリアが少し落ちついた様子で返事をした。
「確か、全部役が割れてしまって…4人ですから仕方がないでしょうけれど…。」
「でもね、最後にやったときにね、実はマリアに役ができていたんだよ。」
マリアは不思議そうな顔で聞いている。
「それはね、『ふけ』という役でね。自分の札の得点が20点以下ならば、それは役になるんだよ。俺が見たときに、マリアはカスと短冊1枚で、見事に『ふけ』てたんだな。」
「あ!」
あたいもレニも、マリアも思わず声を上げていた。その言葉は、マリアが聞いた言葉と同じだったから。
「だけどね、その時にはアイリスが僅差で勝ってたからそのまま黙っていることにしたんだ。その時の話しを紅蘭にしていたんだよ。紅蘭も関西のほうだから、そのルールは知っててね。」
「じゃあ、マリアはそういうタイプだからねっていうのは…。」
「うん。きっとマリアだって、分かっててもアイリスに勝ちを譲るだろうって意味。」
まるで名探偵のように、解説終了とでもいいたげに眉をぴょこんとあげた隊長の顔に、へなへなと隊長室の床に体中の力が全て吸い込まれて行く心地がした。
「で。マリアは、それを年をとったという『老けてる』に誤解してたわけだ。」
レニが言うと、マリアがみるみるうちに真っ赤に染まって、耳たぶまでまるでタコのように真っ赤になっていった。
「だってッ…そんなルール、知らなかったし…それに…最近、やっぱり、少し気になってたし…。」
弁解するマリアの声が段々と小さくなって行く。
「シワなんて全然ないよ。それに老けてもいない。もし、シワができても、マリアはマリアだから、変らずにずっとマリアを…。」
「隊長…。私だって…隊長にずっと好きでいて欲しいから…。」
さっきまでの険悪ムードはどこへやら、突如としてラブラブモード全開の二人にあてられないように、あたい達はずるずると力の抜けて重くなった体を引きずるようにして隊長室から出て行き、ぱたりとドアを閉める。
「もー、絶対、相談なんかのんねぇぞ。」
あたいの呟きに隣でレニも無言でうなづいた。
「紅蘭が絡んだあたりからヤバイ気はしてたんだよなー。前回もそうだったろ?」
「そうだったね…。…ボク…辞書買いなおそうかな…。」
レニが深い溜息をついた。今回はレニの辞書でさえ、さすがに花札のルールまでは網羅していなかった。
「そう言えば…こういう場合の諺、他にもあるんだって。夫婦喧嘩と夏の餅は誰もくわないって。」
「…確かに、あたいだってくいたくもない…。」
あたい達は揃って長い溜息をつくと、その場に崩れるようにしゃがみこんだ。
END |