蒸気鉄道から降り立つとすぐ目の前が劇場になっている。
ゆっくりと見上げると時計が4時を指していた。久しぶりに見る劇場は、今日は公演も切符の売り出しもないのか静かである。若い女性が売店から大事そうに包みを抱えて出てくるのは、きっとマリアあたりのブロマイドでも買ったのだろう。通りに面しているテラスには誰もいず、外から見える食堂の中にも人っ子一人いない。鞄を持ち直すとゆっくりと劇場の正面玄関に向って歩き出した。
ここにまたこうやって戻ってこれるなど全く思っても見なかった。京極との戦いの後、帝都には平和がもたらされ、それは今でも続いている。と、そう思っていた。
が、実際のところ、三度、人々の生活を脅かすものが現れ、そのためにここの隊長に返り咲くことが出来たのだ。
これは幸運なのか不運なのか。
ともかく留学を終えた今、こうやって再びこの劇場に戻ってくることができたのだ。
さぁ、また懐かしくて新しい生活が始まる。俺は正面玄関の扉をゆっくりと押し開けた。
「隊長っ!!」
「お兄ちゃんっ!」
「中尉!」
「大神さん!」
「大神はんっ!」
「中尉サーン!」
「隊長。」
支配人に帰国及び着任の挨拶を済ませ、久しぶりのモギリ服に着替えるために支配人室を出ると一斉にみんなに囲まれた。売店にいた椿ちゃんが俺の帰ってきたのをみんなに知らせたらしい。
「やぁ、みんな。これから、またよろしく。」
そう言った後、矢継ぎ早に繰り出される巴里でのことについての質問に一通り答えると、ぐるりとみんなを見回す。嬉しそうに綻んだ笑顔、笑顔、笑顔。ふと顔が足りないことに気が付いて視線を少し離れた場所に彷徨わせると、相変わらず遠慮がちに輪の中には入らずに、外側から見ているものがある。
マリアは少し強張った表情で立ち尽くしていた。本来なら副隊長であり、帝都留守中を護ってくれた彼女に先に挨拶するべきだっただろうか?
「マリア、ただいま。」
「おかえりなさい。…また、よろしくお願いします。」
淡々とした口調で彼女はそう言って深深と頭を下げる。その余所余所しい態度にやはり怒ってるのだろうか、それとも以前、米田長官に釘をさされたことを気にしているのか、どっちとも判断がつかずにいた。
「こちらこそ、よろしく。」
またこれから新しい戦いが始まる。だから、きっと後者に違いない。マリアは、そんなことぐらいで怒るような女性ではなかったから。単純な考えから結論を導き出し、笑顔でそう言うと、マリアの顔がさらに強張った。
「私は歓迎会の準備をして参ります。また後ほど。」
強張った顔のまま早口でぼそぼそと言うと踵を返して小走りに厨房へと消えていった。やはり何かあったのだろうか。らしくない態度に訝りながらその後姿を見送った。
「おにーちゃん、歓迎会はねぇ、6時からだからね。遅れないでね。」
アイリスの言葉にはっとして我に帰る。まぁ、いいや。また後で話すことも出来る。時間はたっぷりとあるのだから。俺はそう思いながら一度自室へ引き上げた。
夕方から始まった歓迎会は盛大なものだった。おそらくマリアの手製だろう料理がテーブルに所狭しと並べられ、隙間に飲み物がようやく置かれる。会場となった楽屋には花組の面々は勿論のこと、長官やかえでさん、かすみくんやゆりくん、椿ちゃん、それに薔薇組まで顔を揃えて大騒ぎになった。
カンナが秘蔵の泡盛を出してきた辺りから様子がおかしくなってきた。一人潰れ、二人潰れ、眠くなって自主的に部屋に戻るものや強制送還されるものが出始めた。最後まで残って片付けをしようかと思っていたが、夜の見回りの時間がきてしまったために後を残った人に任せて久しぶりの見回りに出た。
懐中電灯片手に見回る夜の劇場は静まり返っていた。カツンカツンと自分の足音が反響する。久しぶりの見回りに、勝手を忘れてしまい、見回る順番や確認する場所も思い出しながらだったから少し時間がかかったが、ようやく全ての場所を終えて一度楽屋に戻る。けれど、そこには誰もいず、とりあえずテーブルの上だけが片付けられた状態で電気も消えていた。そのまま最後に見回りを残した舞台から客席に下り、ロビーへ抜け、ロビーの階段から2階に上がってきた。ふとテラスを見ると外に出るガラスの扉が開いていて、外に誰かがしゃがみこんでいる。そっと扉の側によるとマリアが膝をついて蹲っている後姿があった。
「マリア?」
声をかけるとびくっと肩を震わせて、すばやくこちらを振り返る。どうやらかなり驚かせてしまったらしい。
「どうしたの?」
「あ、いえ…なんでもないです。隊長こそ、どうなさったのですか?」
「夜の見回りの最中なんだけど。」
そう言いながらしばらくぶりにテラスに出てみる。大通りに面したテラスは銀座の町並みが見渡せる。巴里ほどではないけれど、帝都の夜景も随分と明るい。左右を見ながら懐かしい景色に目を細めた。
「やぁ、久しぶりの夜景だな。幾分、前よりも街灯が増えたかな?」
この夜景を見ると本当に帝都に戻ってきたんだと実感した。ちらほらと見える人影が、本当に三度の災難に見舞われそうになっているのかと疑いたくなるような平和な光景であった。夜半をとうに回っているので蒸気鉄道も終わり、車もあまり通らない。明け方までの一瞬の静謐を取り戻した夜景をもう一度感慨深く見下ろすとマリアの方に振り返る。マリアはなんだか視線を彷徨わせ落ち着かない様子で後ろに控えていた。
「久しぶりなんで、勝手を忘れてしまったよ。…さ、そろそろ中に入ろう。冷えてきたよ?」
少し肌寒い気配に風邪を引かないようにマリアに促す。
「お祈りもいいけどね、もう遅いし。」
先ほどから強張った表情でいるマリアに言うと、しゅんとしたように高い身長を縮こませて萎縮する。
「はい。…もう休みます。おやすみなさい。」
早口でそう言うと、マリアは小走りに自分の部屋のほうに駆け戻っていってしまった。
なんだか様子のおかしいマリアに、さっきの自分の口調がきつかっただろうかと少し反省をする。しかし思い返してみると、今日ずっと様子がおかしかった。歓迎会の最中も側には決して寄って来ず、普段は水でも飲むかのように平然として煽る酒もあまり口にしなかった。誰かに話し掛けられれば返事はするものの、ただそこにいるだけで、他の面々のように楽しんではいなかった。確かに以前から馬鹿騒ぎするタイプではなかったけれど、それにしてもなんだか様子がおかしかった。直接聞いてみようか?そう思ってマリアの部屋に足を向けようとしたが、時間が時間であることを思い出し、明日、朝に話してみようとそのまま自室に引き上げてしまった。
翌朝、朝食に出る前にマリアの部屋に寄っては見たものの、彼女はとうに起き出してどこかへ出ていたようで、結局二人で話すことは出来なかった。朝食のときには他のみんながいるから聞くことも出来ず、朝食後には以前のように事務の手伝いの仕事が入ってしまう。この分では二人で話すことが出来るのは夕方以降になるのだろうか。マリアのことを気にかけながら伝票整理に勤しんでいるとアイリスとさくらがすごい勢いで事務室に駆け込んで来た。
「大神さん!大変ですっ!」
「おにーちゃんっ、喧嘩なのぉっ。早くとめてぇ!」
やれやれ。すみれとカンナの喧嘩は相変わらず健在のようだ。苦笑しながら真っ青な顔をして駆け込んできた二人に返答する。
「いつものじゃれあいじゃないのかい?」
「そうじゃなくって、今日はマリアさんとカンナさんなんですっ!」
「いいっ?」
さくらの言葉に吃驚しながら俺は伝票を放り出して慌てて楽屋に駆けていった。カンナとマリアなんてこの帝劇の中で一番の仲のいい二人じゃないか。その二人がどうして?楽屋の前に到着すると中の様子を伺う4人の姿が見えた。俺の姿を見るとみんな場所を開けてくれる。まずは入り口で中がどんな様子なのか伺うとかなり険悪なムードが漂っている。
「おめー、もちっと素直になれよなっ!」
カンナの怒声。
「悪かったわね、性格なのよ。」
低くて怒気のこもったマリアの声。
「そこが素直じゃないっていうんだよ。」
迫力充分のマリアの釣り目にカンナも負けてはいず、ふたりの睨み合いが続く。いつものカンナ対すみれくんよりもかなり迫力があり、中に入っていくのはためらわれた。
「いったい、何が原因なんだ?」
俺は小声で隣にいたさくらに聞いた。
「わからないんです。私達が片付けを手伝おうと楽屋に入ろうとしたら既に睨み合いだったんです。」
「何か、マリアさんがカンナさんに隠し事をしているようですわ。それでカンナさんが怒っているようなんですけれど。」
さくらに続いてすみれが困り果てた顔をして説明した。さすがのすみれも今回ばかりは中に入れないらしい。多少の喧嘩なら止めることが出来てもマリアとカンナでは自分の手に余ると、回転の早い彼女は判断したようだ。他の誰かならまだしも相手がマリアである。普段のしっかりとした性格に反して内面が花組の誰よりも一番ナイーブであるのをすみれはよく知っていた。
「カンナはマリアの事になるとすごく気にするから。」
後ろから冷静に言うのはレニ。
「おそらくカンナが何かマリアにおせっかいを焼こうとして不発に終わったってところだね。」
そのレニの予想には俺も納得できる。そしてそのカンナのおせっかいが実はマリアにとって大事なことであろうことも。カンナはマリアにいつでも優しい。副隊長という立場と、もともとの責任感の強さと生真面目さから一人で全てを背負い込もうとするマリアを気遣って助けている。それはマリア自身もよく分かってるのに、時折素直にそれに甘えられなくて自己嫌悪に陥ったりすることも以前はよくあったのだから。
おそらく、カンナもマリアの様子がおかしいことに気付いていたのだろう。
「そういうことばっかり言ってると大事なもの、なくしちまうんだぞ。それで泣くのは自分なんだからなっ!」
「そんなこと、あなたに言われなくっても充分にわかっているわ。余計な御世話よ。おせっかい。」
その言葉にやはりレニの分析は正しいことが裏付けられた。
「なんだとぉ!わかってるんだったら直せばいいだろ?へそまがりっ!」
睨み合いが続く。どうやらそう簡単にはこの喧嘩は終わりそうにない。ふと気付くとそこに集まっていた6人がじぃっと目線で早く行けと訴えていた。
「仕方ない。行くか。」
俺は意を決して楽屋の中に入っていった。
「二人とも、どうしたんだ?」
なるべく明るく、深刻過ぎないように気を使って言うと、すぐさま二人はこちらに視線を向け、続いてしまったというような表情になる。どちらか理由を言ってくれるだろうか。そう思いながら二人を交互に見ていたが、二人とも困ったような顔をすぐに浮かべる。
「隊長…。」
マリアは視線を外し俯き、カンナは右手でぽりぽりと照れ隠しのように頭を掻く。
「いえ、なんでもありません。」
マリアは下を向いたまま冷静に答えた。そしてそのマリアの返事を受けるようにカンナも返答をよこす。
「うん、ちょっとな。」
「よければ、事情を聞かせてくれないか?」
そう言ってみたけれど、二人とも視線を合わせずにもごもごと何かを口篭もってごまかしている。カンナもマリアも二人とも困惑の表情を隠せない。これがアイリスやさくらやすみれなんかだと我先にと事情を説明し自分の味方に引き込みたがるものだが、さすがに年長の二人はそう単純にはいかないらしい。
「だめかな?」
もう一度押してみる。しばらくの沈黙のあと、マリアは俺に視線を向けないまま早口で答えた。
「隊長には…関係のないことなんです。失礼します。」
そうしてマリアは足早に楽屋から出ていってしまった。
関係のないこと…。俺はその言葉にショックを受けていた。
マリアはまだ他人を心の中には住まわせてくれないらしい。
それでも自分に喝を入れるように、何時の間にか下向きになっていた顔を上げると改めて残ったカンナに問い掛ける。
「カンナ…?」
するとカンナは先ほどよりも一層困惑した表情を浮かべた。
「悪いな。あたいからは言えねえや。マリアの気持ちの問題なんだ。」
やはりマリアの様子がおかしいことをカンナもわかっていて、それが原因だったようだ。
「とりあえず、二人が喧嘩しているもんだから誰もここに入れなくって困っていたんだ。みんなに入ってもらっていいかな?」
「あ、ああ。ごめん。…それじゃあ、あたいはもう行くよ。悪かったな。忙しいのに。」
「いや…。」
カンナも力のない笑顔を浮かべて楽屋から出ていった。
本当は俺が解決しなければいけない問題だったのに、カンナに肩代わりをさせてしまって悪いことをした。カンナの後姿を見送りながら心の中で密かに謝る。
本当にマリアは一体どうしてしまったのだろう。なんだか妙に避けられているような気がするし。留守中に何かがあったのだろうか?
「何だったんですの?」
カンナと入れ違いにすみれが入ってきてぼんやりと考え込んでいた俺に尋ねる。
「さぁ…。」
留守中にマリアに何があったのか、俺こそが聞きたいところなんだけど。
とりあえず、解決したとは言いがたいけど喧嘩は終わったようなので俺は一度事務室に戻っていった。
それにしてもさっきのマリアの言葉が気にかかる。隊長には関係のないこと…か。
マリアのことなら、関係のないことなんて一つもないと思っていたのは自分の思いあがりだったのだろうか。それほどには信頼も信用もされていなかったらしい。
そのことに酷くショックを受けていた。
いや、仕事中だ。考えないようにしよう。そう思って目の前に山と詰まれた伝票に目を落とすが、すぐにまた思い出してしまう。
どんよりと晴れない気持ちのまま伝票を整理し始めた。
暗い気持ちでなんとか仕事を終わらせて食堂へ行き夕食を取る。いつもは隣同士で食事をしているマリアもカンナも今日は食堂の端と端でもくもくと食べていた。マリアは他人に目もくれずに食事をし続け、終わるとすぐに部屋に戻ってしまう。食事の時間はごく短く、どうやらあまり食べていないようだ。あまりそれはよくないことなのだけど。
「隊長、マリア、おかしいよ。」
レニの言葉に俺はうなづいた。
「マリアがおかしいの、直せるのは隊長しかいないよ?マリアは自分が認めた人じゃないと自分のこと言わないし。カンナがだめならあとは隊長しかいない。」
認めた人…か。心の中でそっとため息をつく。俺は…マリアに認めてもらっているのだろうか。
そんな俺の心の内には全く気付かずレニは続ける。
「二人がああだと、みんな落ち着かない。花組の要だから。」
言われてはっとして初めて周囲を見回すと、食事をしているのにそわそわして、いつものように楽しそうな笑顔はない。ちらちらと互いを見て、カンナを見て、そしてため息をつく。
「そうだね。」
俺は返事をしながら食堂の隅でぼんやりと食事をしているカンナを見た。
カンナは相変わらずすごい量の食べ物を前にしているが、どうも食べることに今ひとつ集中できないでいるようだ。がつがつと食べては少し止まり、またしばらくしてからがつがつと食べ始める。そんなことを続けていた。
こんなんじゃ花組がおかしくなってしまう。
せめてマリアとカンナは仲直りさせないといけない。マリアとカンナの仲違いの原因がマリアの様子がおかしいことに起因するならば、それを解決しなければならないだろう。確かに俺には関係ないかもしれないけど…でも、なんとかしなければ。
俺は食事を終えるとマリアの部屋に向かった。
「マリア、いる?」
マリアの部屋の扉をノックした後に声をかけてみた。
「…はい…。」
中からは疲れたような生気のない声が返される。
「いいかな。」
尋ねてみるが返答はなかった。
「忙しいなら出直すよ。」
そう声をかけると今度は一瞬間を置いてから返答がある。
「…いえ、大丈夫です…。」
そうして部屋の中を歩く足音が聞こえてからドアがかちゃりと開いた。中から出てきたマリアはひどく元気がなく、強張った表情をしている。顔色も良くない。先ほどもあまり食事をしていなかったから具合でも悪いかと心配するけど、どうやらそうでもないらしいのは彼女の瞼が綺麗な二重を描いていたからだ。体調が悪くなると彼女は瞼が三重、四重になる。
「今、大丈夫?」
尋ねてみると、ぎこちなくうなづく。
「ええ…。」
「中に入ってもいいかな?」
「はい…。」
元気のない、暗い表情で返事をして俺を部屋の中に招き入れてくれた。
「マリア…その…。」
なんて切り出していいかわからずに一瞬迷ったが、それでも今までマリアには出来るだけ素直に、正直にありたいと思い続けてきたから今回もストレートに聞いてみることにした。
「昼の喧嘩のことなんだけど…。」
「あ、ああ…。」
マリアはなんだか意外そうな顔をして、それでも虚ろな表情でうなづく。
「ごめんなさい、みんなに心配かけたみたいで。楽屋から出たら、全員がいたんで。」
先ほどまでの張り詰めた雰囲気とは打って変わって明るい口調でマリアが答えた。
「何が原因だったの?」
ところが原因になると途端にマリアが沈黙する。やっぱり、俺には言えないらしい。改めて自分がいかに信用も信頼もされていないかがよく分かってしまう。
「ごめんよ…言いたくなければいいよ…。」
俺の質問に答えられないことが彼女の心の負担にならないように、できるだけ明るく言うつもりが、悲しくて鼻がじんとしびれてしまい、語尾の方がくぐもって暗くなってしまった。同時に心が真っ暗になる。微笑んだつもりの俺の顔はすごく情けない顔になっているかもしれない。本当に顔だけでなく情けない…。やっぱり、まだ一人前の隊長として、男として認められていないようだ。
「言いたいこと、我慢するのもよくないから。カンナはちゃんと話し合えばわかってくれると思うから、そのうちに話し合いなよ?」
ショックで働かない頭をなんとか動かして提案じみたことを言ってみる。けれど、カンナの性格云々なんてマリアが一番よく知っていることで、これじゃ自分が何をしに来たんだが、何を言ってるんだかわからない。
こんな状態ではマリアが信頼も信用しなくても仕方がない。ダメ隊長だ。
「じゃ、ごめんね、御邪魔して。」
もうそれ以上いたたまれずに俺は足早にマリアの部屋を出た。
ほとんど廊下を走るようにして自分の部屋に戻ってからどーんと一気に落ち込んだ。
フランスで何を勉強して来たって、隊員全員からの信頼も得られないようではまるきりの無駄になってしまう。ましてや、マリアの信頼を得られないのは一番どうにもならない。花組の副隊長なのに。…いや、それよりも、自分の好きな人に信頼してもらえないなんて、最悪である。
巴里へ出発する前、マリアから認めてもらったと、信頼してもらったと確信したのに、それは単なる俺の誤解だったんだろうか?
横浜港で、出向を見送ってくれたときのマリアの姿は今でも鮮やかに思い出せる。そして、船の中で読んでくださいと渡された手紙も大事にとってある。それは何度も何度も巴里で辛いことがあるたびに読み返した大事な手紙だったのに。
いつでも必死だった。ただマリアに認めてもらいたくて、隊長としても男としてもマリアの隣に立っても恥ずかしくないように、マリアに恥をかかせないように頑張ってきたつもりだった。少しは態度を和らげてくれるようになったマリアに、俺は少しは認められたと自負していたのだけど、それが自分の思い違いだったなんて。
…それとも、他に好きな人でもできたのかもしれない。
マリアほどの美人ならそれもありえる。それは…考えたくないことだけど…本当にそうなら仕方ない。一人で帝都に放っておいたんだ。そうだったとしても俺は決して文句を言えない。
そう考えると、昨日からのマリアの不可解な行動に納得が出来る。俺を避けるような行動は、話すのがイヤだということ。…真面目なマリアのこと、好きな男性のために他の人と二人きりになるのを避けているのかもしれない。
俺は机の引出しをあけて、中に入っているリボンのかかっている小箱をみた。それは巴里のロランスさんの店で買った品物。巴里行きが決まったとき、文句の一言も言わずに行ってらっしゃいと俺の背中を押してくれたマリアに、せめてものお礼とお詫びとお土産にと安月給を頑張って節約して買ってきたのだ。本当はこんなもんじゃ…お詫びのかわりにもならないけど。
がっくりとうなだれた俺はその箱をもう一度引き出しにしまいこみ、机の上に突っ伏した。
振られたとしても、まだ好きで。フランスでも何度も夢に見るほど好きだった。ようやく戻ってこれたというのに。
すぐに諦めることなんかできない、…それほどに強い思いだったから。もっと時間がたって、そのうちにふっきれるときが来るかもしれない。ふぅっと大きくため息をつくと仕事をしようと机の上にレポート用紙を広げた。
報告しなければならないことが山のようにあるのに、一向に進まない。ペンは少し進むが、ぼんやりとすると途端に手が勝手にマリアの名前を書き出して、反古が増えるばかりである。
「あーあ。」
また1枚反古を作ってしまって、くしゃくしゃと紙を丸めるとゴミ箱に投げる。外れたゴミが床に転がったのをみて、ぐったりとしてまた机に突っ伏した瞬間にこんこんとノックの音がする。
「はい?」
こんな夜更けに誰だろう。慌てて体を起こして返事をする。
「…あの…マリアです…。」
その声に俺はドアに飛びつくようにして行き、開けた。
「お時間…、少し、よろしいでしょうか…?」
もじもじと、普段の凛々しい颯爽とした彼女からはおよそ想像もつかないような感じで廊下に立っている。
「ああ。立ち話もなんだから、中にどうぞ。」
悲しかったはずなのに、マリアの顔を見れた、言葉を交わせた、そのことが嬉しくてどくんと大きく鼓動が跳ねる。その現金さに苦笑しながらマリアを中に招き入れた。
椅子を勧めて、机に広げていたレポートを用紙を片付けて、椅子の向かいにあるベッドに腰掛けてマリアに向き合う。彼女は普段はぴんとのばしている背筋を少し丸めて、なんだか困ったような顔をしてもじもじとしていたが、やがてぽそりと小さな声で言う。
「あの…昼間はすいませんでした。」
そうして、深深と頭を下げる。ふわりと柔らかな金の髪が揺れた。
「あ、いや、いいんだ。でもみんな心配していたみたいだったから。」
その様子に見惚れていた俺は、あわててマリアの頭を上げさせる。彼女のことだから随分気に病んだことだろう。そういう優しい気遣いのある人だから。…俺のことでこれ以上煩わせるのは気の毒だから。
「カンナに…怒られたんです…。せっかく隊長が帰ってきたのにそっけないって。」
マリアの言葉に、今度はカンナの心遣いに感謝する。本当に彼女はマリアのことを良く見ている。おそらく、俺などよりもずっと。
「そんなことじゃ隊長に愛想をつかされるって…。」
そう言いながらマリアは表情を曇らせる。じわりと翡翠の瞳の端に涙が少し浮かんで悲しそうに眉根を寄せていた。
「素直じゃないって…怒られたんです。そのうえ関係ないって言ってしまって…。さっきも…素直になれなくって…すいませんでした。」
マリアの瞳が潤んで目頭の方に涙が溜まるが、零れ落ちる前にマリアはそれを拭って、もう一度丁寧に、深深と頭を下げた。
その言葉に奈落の底まで落ち込んでいた気持ちが一気に浮上する。関係ないって言うのは失言だったと、そういうことなんだろうか?まだ、俺は希望を持っていてもいいのだろうか?
「別に、悪意があって素っ気無くしてたわけじゃなくって、…ふ、副隊長だし、また長官から言われたらいけないし、それに…。」
やはり、前回釘をさされたことを気にしているということがわかって、かなり気持ち的には楽になった。けれども、俺のそんな心情とは反対に、口篭もったマリアの瞳から大粒の涙がぼろぼろっと零れ、そのまま腿で握り締めていた手に落ちる。
「マ、マリアっ!?」
マリアの涙に狼狽した俺は飛びつくようにしてマリアに近寄った。涙を拭こうとしてハンカチを取り出そうとポケットを探るが、こんなときに限ってない。さっき、洗ってしまったばかりだったのだ。換えのハンカチを出そうと箪笥を探したが、生憎まだ解いていない荷物に入れてあったことを思い出した。どうしよう、チリ紙でもいいだろうか?ネクタイ…じゃおかしいし。
「大丈夫です。」
マリアはそう言ってから綺麗に微笑む。
「…それに、隊長にこれ以上迷惑をかけられません。」
そしてやけにきっぱりとした口調でマリアが言い放った。
「…迷惑?」
なんのことだか分からずに俺は首を傾げる。今まで一度たりともマリアに迷惑なんてかけられたことはなかったのに。
何を言い出すのか分からずにいると、マリアは悲しそうな微笑を浮かべる。
「…私のことは忘れてください。…もう一人でも平気ですから。」
薄紅の、柔らかそうな唇から紡がれた言葉は耳を疑う言葉だった。
先ほどの浮上が嘘のように再び奈落の底に突き落とされる。
ぐるぐると、まるで酷い眩暈がしているかのように頭が回る。平衡感覚がなくなるほどの衝撃に俺は立っているのがやっとだった。
離、別、分、悲、寂…。そんな文字が頭の中をぐるぐると回る。言われたことをうまく受け止めることが出来なくて、消化待ちの言葉が頭に溜まっていく。
忘れてください、なんて出来るわけがない。それほど、マリアと出会ってからの数年間は沢山の思いが詰まっている。
「…た、いちょう?」
様子を伺うようにマリアが尋ねる。それでようやく我に返った。
「…ああ…。」
酷い衝撃に、どうしていいか分からず、混乱した頭をなんとか整理しようと緩慢に動き出す。ベッドに腰掛けて、一息ついて。
俺のことを嫌いになった、というわけではなさそうだった。やや男性に対して潔癖症のきらいがあるマリアが、こうして今ここにいるというのは嫌われていないということを物語っている。やっぱり、他に好きな人でもできたのだろう。
「…そうか、そうだよね。」
俺は独り言のように呟くと、笑顔を浮かべる。好きな人ができたというのは喜ばしいことではある。それがたとえ自分でなくとも、マリアが幸せになれるのだったら仕方ない。
「ごめん。気付かなかったよ。…マリア、他の人と付き合ってるんだね?」
できるだけ、笑顔でいようと、無理に作った笑顔を泣きそうな表情の上に貼り付けて話をする。
「…待っていてくれたって、思い込んじゃったから…。ごめんね、マリア。…そうだよね、マリアはもてるから。」
するとマリアの眉がぴくりと動く。しばらく無言でいた彼女は考え込むようにふと視線を床に一度落とし、2,3度瞬きをしてからまた視線をこちらに向ける。
「誰とも付き合ってませんが…。」
低い声でぼそぼそと言う。
あれ?
俺はこの辻褄の合わない話し合いに首を傾げた。一体、どうしてこんな変なことになっているんだろう?
「じゃあ、俺を嫌いになった?」
勇気を出して聞いてみる。これではっきり肯定されたらもう浮上しようがないくらいに落ち込むけれど、即答で返事が返ってこないところを見ると、そういうわけではないらしい。すると、この変な話し合いの原因はもっと違うことに根ざしているということになる。その鍵は確かにマリアが握っている。こうなったらてこでも白状させようと俺はマリアに畳み掛けた。
「どうして、一人でも平気だなんてことを?」
マリアの肩を優しく抱き、出来るだけ優しい口調で尋ねる。高圧的に出ても絶対に彼女は口を割らないから。
「何かあった?答えて、マリア?」
まっすぐにマリアの顔を見つめると、下唇をきゅっと前歯で噛んで、ふと視線を外す。もうこれは何かありましたと無言で告白しているのと同じこと。
マリアはなかなか頑固だからこうなったら問い詰めるだけでは白状しないということはよく分かっていた。こんなところは出会った頃から全然変わっていない。なんだかおかしくなってつい笑いが毀れてしまう。こんなところもひっくるめて全部好きなんだけど。そう思いながら俺は机の引出しから先ほどしまいこんだものを取り出してマリアの前に戻っていった。
「マリア、これ。」
そう言って、マリアの、エンフィールドを扱うにはあまりにも白く華奢な手を取って手のひらを上向きにして広げさせ、その上に箱を置く。
「?」
不思議そうな顔でマリアはそのまま俺を見つめ返す。
「向こうで知り合った宝石商のロランスさんっていう人に頼んで買ったんだ。…何をしたらマリアに喜んでもらえるか未だによく分からなくって。思いつくのはこういうのしかないんだ。」
ありきたりなプレゼントしか思い浮かばず、それでもなんとかいいものを贈りたくって節約した。結局買えたのは一番小さなものだったけれど、それでも気持ちだけは一杯に詰まってるはず。ほんとはもっと大きな、マリアの美貌に合う物を送りたかったのだけど。
箱を開け、中身をマリアに見せる。
「た、隊長、これっ!?」
かなり驚いた様子でマリアは俺の顔を見た。
「これがね、俺のできる精一杯。」
そう言って俺はマリアの手を取って薬指に指輪をくぐらせる。
「待っててくれたって、思ってもいいよね?」
再度確認するけれどマリアはそのまま硬直していた。
「マリア?」
もう一度、返事を促すとマリアは激しく首を振る。
「…報告書を、読みました。…それに、巴里に講師で招聘された際に、…隊長を…婿にすると…彼女が…。」
ぼそぼそと呟いたマリアの言葉で、何がマリアを悲しませているのかが一瞬で理解できた。
それは巴里華撃団の副隊長。俺を婿にしたいと、強い瞳で言い放ったヴァイキングの血を持つ娘。
さて、どうしたものだろうか。
俺は少し考えていた。完全な誤解なんだが、どうやったらちゃんと彼女は信じてくれるんだろう。下手に強く否定したり、感情的になるとかえって疑われかねない。それよりも、聡い彼女のことだからゆっくりと説明したほうがいいだろう。そう決めると口を開く。
「…確かに、副隊長に彼女を選んだけど、だからといって何があるわけでもないんだ。これは本当。彼女が、僕を自分の婿にしようと思っているのも知っている。その話も彼女の口から聞いたこともある。」
辛そうに、マリアの表情が曇る。そして逃げ出そうとするのを、押さえつけるようにして話を続ける。
「最後まで聞いてくれないかな?」
なるべく優しい口調で言う。こんな中途半端なところで逃げられたら話が混乱するだけだし、何よりも酷い誤解を受けたままになる。すると、彼女は泣き出しそうな表情のままため息をつき、諦めて話を聞くべく大人しくなった。
「多分、彼女はここに来ると思う。」
その言葉にマリアの背筋が丸まった。そんな様子を宥めるように背中に腕を回して軽く抱きしめる。
「それはね、僕が心に決めた人が日本にいるからって断ったからなんだ。」
そう言うとマリアが驚いて俺の顔をまじまじと見つめる。その言葉が指す、心に決めた人というのが自分であると思っていいのか、とマリアは瞳で問い掛ける。
「彼女がどう思おうと、僕の意思はマリア、君と共にありたいと願っている。だから、どうか、僕の願いを叶えて欲しい。」
それは事実上のプロポーズと思ってもらっても構わない言葉だった。彼女の酷い誤解を解くのと、先も分からないままに、それでもずっと俺を待っていてくれたマリアへの約束。でも肝心の彼女は呆然としたままであった。
「返事を。マリア?」
促されて、彼女ははっと我に返る。
「…だって、隊長…。彼女と結婚すれば、貴族ですよ?」
自信なさげに彼女の瞳は揺れていた。
「別に地位や名誉のために結婚するわけじゃないって。…好きだから、結婚したい。そういうものだろう?」
混乱のあまり彼女はとんでもないことを口走る。そんなことのために結婚するくらいなら最初から違う相手を選んで結婚しているはずだ。少しだけ怒気を含んで言うとマリアはしゅんとする。でも、どこか信じられない気持ちで呆然として自分を見詰めているマリアが可愛くって自然と笑みが毀れてくる。
ああ、そうだ、大事な注意事項があったんだ。
「とりあえず、決闘を申し込まれると思うから、腕を磨いておくといいよ?」
「け、決闘?」
「そう、決闘。」
にっこりと笑って言うと彼女はそれの意味するところを悟ったようだった。
すぐにいつもの、冷静な彼女に立ち戻るとにいっと笑って見せる。
「返り討ちにしてやります。」
なんとも力強くて頼もしい返事にようやく誤解が完全に解けたことを知ってほっとした。
これで本当にマリアの元に帰ってくることが出来たのだ。嬉しさに腕に力を入れてその華奢な体をそうっと抱きしめた。
「改めて。ただいま、マリア。」
耳元で囁くと彼女もにっこりと、あのいつもの綺麗な笑顔を浮かべる。
「おかえりなさい、隊長。」
蕩けるようなハスキーな声とともに、彼女の手が背中に回ってきゅっと俺の体を抱きしめる。とくんとくんというマリアのかすかな鼓動を感じながら、ここに戻ってこれた幸運を、とりあえずは彼女と、天にいるという神様に大神は改めて感謝をした。
END
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