「はい、これ。」
朝。家を出た大神が隣を歩くマリアに渡したもの、それは銀色に光る鍵だった。
「鍵…?」
いきなり渡されて面食らっているマリアに大神が苦笑しながら言う。
「マリアの方が早いだろうから。僕も持ってるけど、お互いに1本ずつ持っていたほうがいいだろう?」
「あ、ええ、そうですね。」
マリアは肌に馴染みにくい硬質のそれを手のひらに収める。その横で腕時計を覗き込んでいた大神が頓狂な声をあげた。
「ああ、いけない。遅刻しそうだ。じゃあ、マリア、行ってくるね。」
「はい、行ってらっしゃい。」
「マリアも。行ってらっしゃい。」
太陽のような笑顔で言われて、マリアは真っ赤になってしまう。
「行ってきます。」
恥ずかしそうに答えたマリアに手を振ると、大神は走って路面電車の停留所に向かっていった。その大神の白い制服の後姿を見送って、それからマリアはふと再び手の中の鍵に視線を落とした。
マリアは先月惜しまれながら女優を引退した。それは同時に帝国華撃団花組も引退を意味している。結婚してもなお衰えない人気を誇っていただけに、マリアの引退は大騒動となった。マリアの霊力に衰えがあったわけでも、体力や精神力に衰えがあったわけでもない。ただ、後進に道を譲るべく引退したのだ。演出家、それがマリアの新しい肩書きだった。
そして、昨日。彼女は長年住み慣れた大帝国劇場から夫である大神と一緒に新居に移った。新居は劇場から徒歩3分。しゃれた作りの集合住宅の中の1戸が二人の新居となった。
マリアは劇場に向けて歩きながら手の中の鍵を弄ぶ。最初は金属特有のひやりとした官職をしていたそれも、ずっと手の中に収めていたせいか、マリアの少し低めの体温になじんでしまった。でこぼこと突起の並ぶ鍵を見ながら、その存在の違和感に感づく。
そういえば、今まで鍵など持ったことがない。
ロシアでは子供だからという理由で持ってはいなかった。また流刑地では家が掘建て小屋同様だったため鍵などというものはなく、かんぬき状のものがその役目を果たしていた。革命軍では言うに及ばず、ニューヨークでは荒んだ生活を送っていたせいか、家に入っても盗まれるものもなく、だから鍵など持って歩いた試しがない。日本に来てからも劇場に住んでいたために部屋に中から鍵をかけることがあっても外からかけることはない。
だから、家の鍵などを持つのは生まれて初めてだったのだ。
「おはよう、みんな。」
劇場に到着してロビーから食堂に赴く。そこには昨日まで寝食をともにしていた仲間たちが朝食を取っているところだった。
「おはようございますっ、マリアさんっ。」
相変わらず朝から元気な面々に微笑みながら、マリアはコーヒーを貰って口にする。
「ん?何持ってんだ、マリア?」
親友が手に何かを握り締めたままなのに気づいて尋ねたのに、マリアは右手の手のひらを開いて今朝貰ったばかりの鍵を見せた。
「あ、ああ。鍵。家の鍵。」
「そーやって持ってると無くしちまうぞ。そーだなぁ。」
彼女は自分のしていた鉢巻を取ると歯で細く切り裂いた。3本ほど作ってから器用にそれらを編んで細い紐を作り出した。
「貸してみろ。」
マリアが鍵を渡すと鍵についている穴にその紐を通して紐を結んだ。輪にしてしまうとマリアの白い首にかけてやる。
「キーホルダー買うまでの間、それで我慢しろ。」
「ありがと、カンナ。」
「へへっ、いいってことよ。」
照れくさそうに笑った親友にマリアも微笑み返す。改めて胸に下がった鍵を見るととても大事なものだという実感がようやく湧いてきた。
出来上がってきた脚本に目を通して演出プランを練り上げる。演出家としてのそういった仕事の他に彼女は帝撃花組の隊長代理としての仕事もあった。夫である大神は現在、海軍本部勤め。毎度のことだが、帝都に有事がない限り彼が隊長職に復帰することはない。優秀な人材を一時たりとも遊ばせるわけには行かない。それが海軍の方針だった。おかげで帝都の平和が守られている現在はマリアが隊長代理として花組を切り回している。
「お疲れ様。」
「あっ、マリアさん、お疲れ様でした。」
劇場を出たのは夕方6時前。マリアはそのままデパートに向かおうとした。鍵をつけておくキーホルダーを買い求めるつもりだった。
皮製の、3つくらいつけることができるのがいいかしら?それとも、金属製のリング状のものにしておけば、ベルトにつけることもできる。
デパートに着いて、あれこれと良さそうなものを物色するが、どれも今ひとつマリアの気に入らない。どうしたものだろう、と首にかかっている白い細い紐を引っ張ってみる。カンナが自分の鉢巻を潰して作ってくれた紐。それはすっかりと肌に馴染んでしまっている。
「ま、いいか。」
マリアは小さく笑いながらデパートを後にした。
家に戻る道すがら、夕食の材料を買い込んでいく。そして、家の前まで来るとちょうど反対側から歩いてくる大神にあった。
「お帰りなさい、早いですね。」
「ああ。」
大神は上機嫌で手には近所のおいしいと評判のケーキ屋さんの箱まで持っている。
「あ、私があけますね。」
するりと首からかけていた紐を引き、鍵を取り出して開錠する。
「それ、どうしたの?」
キッチンで食材を整理していたマリアに着替えの済んだ大神が尋ねる。
「朝、カンナがはちまきで作ってくれたんです。デパートでキーホルダーを探したんですがうまいのが見つからなくって。これ、結構いいんですよね。」
くいくいと嬉しそうに紐をひっぱるマリアに大神が苦笑した。
「鍵なんて持ったことがないからどうしていいかわからなくって。日記とか、宝石箱とか、貴重品を入れる小物入れの鍵くらい持ったことがないでしょう?悩んじゃいました。」
「おんなじだよ。」
大神の言葉にマリアが首をかしげる。
「この家は日常を綴る日記帳でもあり、僕たちのいろんな思い出をつめておく小物入れでもあるだろう?だから同じ。」
なるほど、とマリアは感心する。そして胸元に下がっている銀色に光る鍵をしげしげと見つめた。
「とりあえず、まずは一つ目の思い出。はい。」
大神は笑いながらマリアの目の前に先ほど持っていたケーキの箱を掲げて見せる。
「え?」
「忘れちゃった?今日、マリアの誕生日だよ?」
言われてはっと気づく。壁に昨日かけたばかりの日めくりは確かに6月19日になっていた。
「あ…。」
引越しのためのここ数日の忙しさに取り紛れてすっかりと自分でも失念していた。
「夕食の準備、あとでいいから先にお祝いしよう?」
ケーキにローソクを立てる大神を見ながら、この先、この家に宝石のようにきらきらとした楽しい思い出がたくさん詰まっていくといいと、マリアは願っていた。
END
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