「マリアのことをお願いするよ。もっと仲良くなれますように。」
そう言った大神の笑顔がマリアにはまぶしかった。初夏の日差しのせいじゃなく、マリアに差してきた一筋の光のように感じられたのだ。でも、ただのお世辞だと、額面通りに言葉を受け取ってはいけないと自分に言い聞かせるのも忘れなかった。他の隊員のようにすぐに大神に打ち解けることもせず、どちらかというと批判的な態度を取り続けてきたマリアがあの一件以来、態度を軟化させて協力的になったため、気を良くした大神が漏らした戯言だと…マリアはそう思っていたのだった。
「一番大切なのはマリアだ。」
一度押さえかけた揺らぐ心を再び大きく揺るがすのは、つい先日、浅草での白銀の羅刹との戦いの時の言葉だった。羅刹に一番大切な隊員を聞かれた時に大神が答えた言葉。それによってマリア自身とんでもない目に会うことになったが、それでも、羅刹と1対1で戦っている間中、戦いに集中できず、大神の言葉の真意を計り兼ねて戸惑っていた。案の定、戦闘が終わって帰還した際にその発言について花組では大騒ぎになったが、大神は『マリアは副隊長だし。それにわざわざそんな事を聞く事自体、何かあると思ったんだ。何があってもマリアなら冷静に判断してうまくやってくれるだろうと思って。』とあっさりと答えた。その答えに花組は全員納得し、機嫌を直していたようだが、ただ一人、マリアだけは更に複雑な気持ちなっていた。やはり、副隊長だから、七夕であんなことを言ったのか。副隊長として信頼されている事自体は悪い気はしなかった。しかし、やはりこんな私と本気で仲良くなろうなんて思う人はいないということも痛烈に思い知らされてしまった。でも、もしかしたら…。そんな期待がいつの間にか彼女の心の片隅に生まれていた。しかし、そんな感情の存在をすぐに否定する。カンナのように明るくもなく、さくらのように可愛くもなく、すみれのように優雅でもなく、紅蘭のように面白くもない、ましてやアイリスのように無邪気でもない、何の取柄もない自分に大神が興味を示すはずなんてないのだから。ざわざわと落ちつかずにいる心をそんな理屈で無理に押えつけるのと同時に、その裏では空虚な自分に寂しさを覚えた。仕方ない。自分はこういう自分でしかないのだから。そう言い訳をしながらもあまりの情けなさに涙さえこぼれそうになる。私は一体今まで何をやってきたのだろう。人間として何もない、からっぽな自分。今までそんな自分を悔しいと思った事は一度だってなかったのに。今はなぜか悔しくて仕方がない。落ちかけた涙をこらえようと上を向くと夏の夜空い一面の星空がまたたいている。
「マリア…?」
急に後ろから声をかけられて振り向くと大神が懐中電灯を片手に立っていた。
「隊長…。」
「どうしたんだい?やぁ、綺麗な星空だな。」
大神はテラスに出てくるとさっきまでのマリアと同じように星空を眺めた。
「帝都は光害がひどいけど…それでも結構見えるんだね。」
マリアはすぐ傍らで楽しそうに星空を眺めている大神の横顔を見つめていた。それだけでざわりと心が動く。しばらく空を見上げていた大神はやがてマリアの方に向き直るといつもの明るい笑顔で言った。
「で、天体観測もいいけれど。もう遅いよ?そろそろ部屋に戻った方がいい。」
「あ、はい、すいません…。」
テラスから中に入っていくとそのまま軽く就寝の挨拶をしてから自室に戻ろうとするマリアを大神が呼びとめた。
「あ、そうだ!マリア、少し時間あるかい?」
「え?はい…。」
「じゃ、ちょっとつきあってくれるかな?」
そう言ってマリアの返事も聞かないうちに大神はマリアを連れて自分の部屋に戻っていった。
「いやー、ほら、花組で酒の飲める年齢の人ってマリアだけだろ?」
大神は笑いながらグラスを2つ出した。この間の給料で大神にしては上等なウイスキーを買ったらしい。テーブルの上にどんっと置かれたボトルにはマリアだってあまり買わない高級品のラベル。
「マリア、お酒、大丈夫だよね?」
「ええ。」
「それは良かった。」
琥珀色の液体をグラスに注ぐと1つをマリアに渡した。
「じゃ、乾杯。」
グラスを鳴らしてウイスキーを口に含む。独特の香りが鼻に抜け、口内に、舌に、喉にその味が広がって行った。
「寝酒に買ったんだけどね、なんだか一人でお酒飲むのはちょっと寂しくってね。」
照れくさそうに笑った大神にマリアは少し違和感を感じていた。なんだかいつもと様子が違う。なんていうか、やけに饒舌だ。それに…ああ、そうか、寝酒くらい隊長だって飲むわよね。ここにいるのは普段の隊長とは違う、プライベートな部分なのだ。3ヶ月も同じ屋根の下、同じフロアに暮らしていながら指揮官としての大神しか知らなかった。プライベートな大神に初めて触れる気がする。
「マリア、結構飲める方?」
「え?ええ。弱くはないです。」
「ふーん。ということは、未成年のときから結構飲んでたってこと?」
にやにやと大神が笑いながら聞いたのでマリアは真っ赤になってしまった。
「え、その…。それは…。」
「なんだか意外だなー。マリアって真面目そうだったのに。」
狼狽しているマリアの姿を笑いながら大神はまたウイスキーを口に含む。
「いっつも、一人で飲んでるの?」
「いえ、カンナと…。」
と口にしてはっと気がついた。そうだった、カンナはまだ未成年だった。
「ふーん、カンナねぇ…。」
大神のにやにやが度を増したようだった。
「確か、カンナは9月生まれだからまだ未成年だよね?」
返す言葉がない。
「思ったとおり。マリアってば誘導尋問に弱い…。」
くっくっと大神が声を漏らして笑い始めた。昔はこんな簡単な誘導尋問にひっかかる私じゃなかったのに。そう思うと、恥ずかしさと後悔とでマリアの顔がかぁっと赤くなった。
「隊長!」
「ごめん、ごめん。でも。あー。可笑しい。カンナなら飲んでるだろうって思ったからさ。」
笑いすぎたのか目には涙さえ浮かんでいる。
「からかうために呼んだんですか?」
ジト目のマリアに慌てて大神は首を振った。
「いや。せっかく七夕にマリアともう少し仲良くしたいってお願いしたから自分でも努力してみようと思ってさ。…だけど、意外な一面が見えて可笑しくって。」
大神はグラスの残りのウイスキーを飲み干してしまうと瓶からまたウイスキーを注いだ。その間もずっとマリアは居住まいの悪さになんだか落ちつかない気持ちでいた。決して居心地が悪いわけじゃない。でも、今までとは違う。大神の態度のせいだろうか?いつものように事務的な口調で必要最小限の業務連絡をしているわけじゃないからだろうか。自分が焦っているような、もどかしいような、そんな感じがする。
「どうして…?」
マリアはつぶやいた。
「え?」
「どうして、私と仲良くなんですか?」
真面目なマリアの質問に大神はきょとんとした顔をする。
「どうしてって…?」
大神は質問されている意味がわからないようだった。
「私が副隊長だからですか?」
焦った挙句に出た言葉はそんなことだった。言ってしまってからすぐに我にかえり、後悔をした。そんなこと聞いてどうするの?聞かないでもわかることなのに。こんな言い方じゃ、副隊長だから仲良くするって理由が嫌だみたいに聞こえるじゃない。何を口走ってしまったのだろう。さっきから感じている、ヘンな気持ちのせいだ。
「あ、その、すいません…。」
マリアはそう言って立ち上がった。ここから逃げたい。こんなヘンな気持ちは嫌だ。
「ウイスキー、ご馳走様でした。」
そう言って帰りかけようとするマリアの手を大神が慌てて掴んだ。
「待って、マリア。」
マリアの視線がゆっくりと下に下りて自分の右手を掴んでいる大神の手に注がれた。その瞬間、大神は慌ててその手を離す。
「ご、ごめん。でも、ちょっと待ってマリア。」
マリアは半ば呆然としてその場に立っていた。今、大神に掴まれていた右手首がかぁっと熱を持っているような感じと共にその部分がどきどきと大きな音で脈を打っている気がしてきて、それを大神に気づかれやしないかひやひやしていた。
「普通、副隊長とは意思の疎通を図るとか、そういう言い方になるよな?」
大神はゆっくりとマリアに念を押す様に言った。しかし、マリアには大神が何を言わんとしているのか今一つ理解できないでいるようだ。そんな彼女の様子を見て頭の回転の速い彼は意識のずれが起こっている個所をすぐにはじき出した。
「マリア…?普通、仲良くって友達とかのプライベートに使う言葉だよな?」
「え?」
「俺、別にマリアが副隊長だから仲良くしようなんて考えてなかったけど。」
大神はぽりぽりと頬をかいている。
「参ったな…、ちゃんと伝わってなかったんだ。」
大神が何を言っているのかマリアには未だに理解できない。困惑の表情のマリアを見て大神は随分と大きなため息をひとつ、そして苦笑い。
「あの、何が…?」
「あのね、七夕のときにマリアと仲良くなれますようにってお願いするって言ったよね?」
「はい。」
「それは、その…。」
大神の顔が真っ赤になっている。
「マリアのことが気になるんだ。だから仲良くしたいって。」
「私ならもう大丈夫です。」
マリアは間髪入れずに真面目な顔で返答した。随分とあの一件では心配も迷惑もかけている。でも、隊長のおかげで立ち直ることもできた。だから、もう隊長に心配も迷惑もかけられない。元気良く答えた彼女に打ちのめされたようになった大神はがっくりと肩を落とした。
「だーかーらー、気になるって、そういうことじゃなくって…。マリアのことが好きなんだ。」
一瞬、マリアの時間が止まった。何もかもが凍ったように硬直している。
「マリア、そういうことに疎い?」
大神の質問にも答えられずにまだ硬直したままである。それが何よりも雄弁に彼女の疎さを物語っている。これだけの美貌を持ってるのなら今まで言い寄ろうとした男も多かっただろうにと大神は心の中で思った。きっと、マリアがロシアの隊長だけを思ってきたのはこの恐るべき疎さも要因の一つなんだろう。
「普通、花組のみんなと仲良くっていうんだったらそりゃ、友達だけど、誰か特定の人と仲良くなれますようにって言うのは特別に気にかけているってことだよ。あーあー、あれでマリアに俺の気持ちはわかってもらってるって思ってたのに。」
「そ、そ、そんなこと言われても。」
時間が進み出したマリアは透けるほどに美しい白肌を残らず紅く染めていた。さっきからのヘンな気持ちは余計に大きくなって、破裂せんばかりである。
「特別の好意を持ってないのにそういうこと言うほど俺、軟派じゃないよ。」
「す、すいません。」
慌ててマリアが謝った。
「で、でも、私、何も…。その、取柄なんてなくって…。」
「マリアとなら一番落ち着いて話ができるんだ。仕事の話も、それ以外の話もね。それに俺の思い込みかもしれないけど、マリアと俺は同じ視点でものを見ている気がするから。立っている場所が近い所為もあるだろうけど。」
「それは…。」
「もし、マリアが俺の事嫌いなら仕方ないけどさ。」
「そっ、そんなことないです、好きです。」
真っ赤なマリアは自分が口にした言葉で更に紅くなった。私ってばなんてことを口走っているんだろう!
「ありがとう。」
マリアが今の発言に対するフォローをしようとした瞬間、にっこりと、今までマリアが見たことがない位の明るい笑顔で大神は嬉しそうに礼を言った。その顔を見た途端にマリアの持っていたヘンな気持ちがぱんっと破裂して胸の奥がきゅっと甘く痛んだ。
「良かった。あー、どきどきしちゃったよ。」
照れくさそうに笑う大神を見ているだけで、鼻がじーんとして涙が出そうになってくる。
「でも、なんで副隊長だからなんて思ったの?」
大神の質問にはっと我に帰って、浮かんできた涙をどうにかごまかしながら答える。
「その…浅草での戦闘のときの理由なんですけど…。」
「あ!ああっ、ごめん…。」
大神は思い当たったようで、すぐに頭を深―く下げた。
「ああでも言わなきゃ…収集がつかないから…。」
情けない顔で言った大神の苦労はマリアだけにはよくわかる。確かに、あそこでそう言わないと勿論大神も危険であるが、自分だってその身が危ない。さくらの必殺つねり攻撃をはじめ、各々の必殺が自分にも振りかかってきかねない。
「そうですね。」
「だろ?」
二人で顔を見合わせて笑った。ひとしきり笑った後に大神は真面目な顔に戻る。
「で、マリア。お願いなんだけど。」
「はい?」
「これからも、たまに寝酒に付き合ってもらっていいかな?」
犬ならば尻尾を振らんばかりの笑顔にマリアはくらりと眩暈を覚えた。もう一度、恋をするかも知れない。いや、きっともうしているのだろう。乾いた自分に暖かな思いが染み込んでいくのを感じた。空虚な自分の中に少しづつ…少しづつ大神への思いを積み重ねていこう。何もない自分が、持てるのは今のところそれしかないのだから。今度こそは後悔する事のないように。それが生きている自分にできること。大神の笑顔を見つめながらマリアは花のような笑顔でこくんとうなづいて見せた。
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