秋季公演も終わり、忙しかった花組もようやく落ちつきが取り戻せた頃。久しぶりに休みを貰った大神はマリアを誘って横浜に来ていた。一緒に昼食を取り、腹ごなしの散歩がてら公園に寄った二人は小春日和の中、気持ち良さそうに芝生でお昼寝をする人達を眺めながら歩いていた。
「お天気になって良かったですね。」
マリアが髪を秋色の日差しにきらめかせながら言う。
「うん。今日はなんだかぽかぽかしてるし。芝生で昼寝も気持ち良さそうだな。」
その言葉に横を歩く大神を見るとなんだか少し眠そうな顔をしている。無理もない。今日のお休みを捻出するために昨日、一昨日と劇場を駆けずり回って仕事を片付けていたのだから。
「少しお休みになりますか?」
「そうだな。」
心配そうに言ったマリアの言葉にうなずくと他の人達と同じように芝生に入り、日当たりのいい適当な場所をみつけてごろりと横になった。気持ち良さそうに大きく伸びをしてから胸一杯に空気を吸いこむ。
「普段、劇場の中ばかりにいるから、こうやってゆっくりと表を散歩すると気持ちがいいな。」
「そうですね。」
子供っぽい仕草の大神をみて微笑んだマリアはそのすぐ傍らに座った。大神は寝転んだままそんなマリアの顔を見て思うことがある。最近のマリアは儚げに、寂しげに笑う。そんな笑顔を見るたびに胸をかきむしられるような感覚を覚えた。どうしてマリアはそんな顔をするのだろう。どうすれば、本当に心から幸せそうにしてくれるのだろう。
「マリア。つまらない?」
不意の質問にマリアは少し驚いた顔で大神を見つめる。
「いいえ。楽しいですよ?急にどうしたんですか?」
そんな質問を受けるのは意外だとでも言うようにマリアが尋ねる。
「いや。なんでもない。急につき合わせちゃったから。」
大神はきょとんとした顔のマリアから視線を外して真上に広がる少しくすんだ青空を見上げた。パリから戻った大神を約束通りにマリアは待っていてくれた。再会を喜んで、有頂天になっていて最初は気がつかなかったけど、最近、気がつくとマリアはいつも寂しそうに微笑んでいるのだ。
「俺、どうすればマリアの事、喜ばすことができるのかな?何かして欲しい事ない?」
パリに行く前はこんな笑顔ではなかった。あるときは恥ずかしそうに、あるときは嬉しそうに頬を薄紅色に上気させて柔らかな笑顔を向けてくれていた。いつからだったのだろう?この笑顔が変わってしまったのは。またあの笑顔をみたい。いや、それよりもこんな悲しい顔をしている理由が知りたかった。
「何もいりませんよ。ただ、こうして二人でいるだけでいいんです。」
それは偽りのないマリアの気持ちかもしれない。
「マリアは遠慮ばっかりしてるね。もう少し、俺に甘えてくれてもいいのに。」
「甘えるなんて、そんな。」
マリアが静かに首を振った。
「私のような女に優しくしてくださるだけで、それだけで充分なんです。」
そしてまた寂しげな笑顔。
「また、そんなことばっかり言う。」
大神は不満そうに少しきつい口調で言ってしまったためにマリアは怒られたと思って首をすくめた。大神は慌ててその言葉のフォローに入った。
「私なんかとか、こんな私とか、マリアは自分のこと、卑下してばっかりだから。俺、マリアは綺麗で、純粋だと思うよ。」
「そんなことないです、だって。」
言いかけたマリアの言葉をさえぎるように大神は強引に自分の言葉を続ける。
「確かにマリアの過去にはいろいろあったけど、でも、俺はそういう事ひっくるめて全部好きなんだ。」
でもマリアはまたしょぼんとした顔で呟くように言った。
「そんなに、隊長が思うほど、いい人間じゃないです。」
「じゃあ、マリアは俺の前でネコかぶってたの?」
「そ、そんなことは。」
マリアは慌てて俺の顔を見て否定してから小さくため息をついてから続ける。
「ほんとは、ええかっこしいだし、やきもちやきだし、似合わないってわかってるのに、少女趣味で。偉そうなことばっかり言ってるけど、ほんとはみんながうらやましくて。」
消え入りそうな小さな声で言う。
「うん、知ってるよ。」
大神はにっこりと微笑んでそう答えた。
「ええかっこしいなのは仕方ないよね?副隊長だもんな。それからやきもちやきなのも知ってるよ。マリア、時々、俺がみんなと話しているの、さびしそうな顔でみてるから。ほんとはみんなと一緒になって話したいんだよね?でも、マリアは副隊長だからみんなに譲っているんだろ?あとね、マリアの白いエプロン姿好きなんだ。かわいいフリルのついたエプロン、よく似合うよ?よくお菓子を作ってくれたりしただろ?女の子らしくっていいよね。」
「それは。」
マリアの弁解を俺は無理にとめた。
「弁解したってだめ。俺さ、マリアの寂しそうな微笑み見ると胸が痛くなるんだ。マリアにはこんな顔させちゃいけないって思うから。」
「そんな顔してました?」
「うん。してるよ。今だってね。」
「そうですか?」
無理に笑顔を作って見せるけどぎこちない。
「もっとマリアに甘えて欲しいって思ってるんだけど、まだ俺じゃ頼りない?」
「そんなこと、ないです。ただ。」
「ただ?」
「似合わないから。」
マリアがまた寂しそうに笑う。
「どうして?」
「女の子らしい子が甘えたりするのは可愛いですけど…私には似合わなくて…。」
「そんなことないよ。可愛いと思ってもらうために甘えるんじゃなくって、相手を信頼してるから甘えられるんだよ。それにマリアが甘えてくれたらきっと可愛いと思うけどな。」
困った顔のマリアは更に続ける。
「甘えるの、下手だし。どうしていいかわからないんです。」
「下手っていうのはあるかもね。マリア、迷惑かもとか、どう思われるかって考えちゃうでしょ?」
「ええ。」
「だからだよ。そんなこと考えないでなんでも言ってごらん?マリアの事、それぐらいで嫌ったりしないから。マリアのお願いならなんでも聞くよ。」
「ええ。」
ようやく納得してくれたらしい。
「さ、何かあるかい?俺にしてほしいこと。」
「えーとですね。」
マリアは少し考えた。ふっとお願い事が頭の中を掠めて行く。しかし、マリアは首を振って言った。
「やっぱり、ないです。こうしていられるだけで、本当に幸せなんです。」
「欲がないなぁ。マリアは。本当にないの?」
本当はマリアの心の中にはひとつだけ大神にお願いがあった。でも、それだけは絶対に口に出してはいけない。だからその代わりの言葉を口にする。
「あの、できるだけでいいんですけど。」
マリアは小さい声で言う。
「ん?なんだい?」
ようやく願い事を聞ける大神が嬉しそうな顔でマリアの顔を再び覗きこむ。
「ずっととは言いません、その、隊長のできるかぎりでいいんです。」
「うんうん。」
「一緒にいてください。」
ようやく大神に聞こえるような声でマリアが言うと大神ががばっと起き上がってマリアを抱きしめた。
「ずっと一緒にいるよ、マリア。」
耳元でささやいた大神の声を大事に胸にしまいこむような気持ちで聞いていた。それから少し話をしているうちに寝転んでいた大神はあまりの暖かさで気持ちが良くなり本当に寝入ってしまったようだ。マリアは大神の顔をじっと見詰める。
「隊長?…一郎さん?」
マリアはそっと髪に手を伸ばした。つんつんの髪が指先に触れる。起きる気配はない。その指を滑らせて閉じている瞼をそっと撫で、通った鼻筋、唇に指を這わせる。それでも大神はいっこうに起きる気配がない。パリから戻ってきて、益々凛々しくなった横顔にマリアは改めて告白するように言った。
「ずっと愛してます。」
それは小さな声だった。
「いつまで一緒にいられるでしょうね。私たち。」
マリアの目の中の大神の顔が涙でゆがむ。すぅすぅと大神の規則正しい寝息が聞こえる。マリアは切なそうにつぶやいた。
「本当は、隊長の奥さんになりたい…。」
潤んだ瞳からぽろりと涙がこぼれる。いくらなんでもこんな御願いはかないっこない。以前、大神はマリアは帝劇のトップスタァだから一介の海軍士官には手が届かないと言っていたが、一皮剥けばロシアからの亡命者、そしてニューヨークでは用心棒もしていたならず者の自分の身分。軍の上層部なら知っている話なのだ。将来有望の海軍中尉と亡命者とではそれこそ釣り合わない。自分のような女が大神の側にいて将来を邪魔してはいけないのはよくわかっている。いつかは別れなくてはならないことは目に見えているから、このお願いは大神の将来のためにも決して口に出してはならないお願いなのだ。そのうちに大神は然るべき奥さんを貰うことになるのだろう。その時、私は冷静でいられるのだろうか。笑顔で祝福をすることができるのだろうか。いや、しなければ。
「嘘でもずっと一緒にいるって言ってくださって、それだけで充分です。こんな私が、隊長の奥さんになれるわけないですもの。」
マリアは自嘲する様に薄く微笑んで寝ている大神に話しかける。
「一生、一郎さんだけを…愛します。思うだけなら…いいですよね…?」
マリアはずっと大神の寝顔を見つめていた。
大神が目覚めたのは日差しがかなり傾いた頃だった。公園を出た二人はいつもの店に寄るべく歩いている。
「あ、マリア、ちょっとここで待ってて。すぐ戻るから。」
「え?ええ。」
そう言った大神がマリアの返答も確認しないうちに突如走って裏道のほうに消えて行った。マリアは不審に思いながらも大神の背中を見送って、言われたようにしばらくそこに立っていた。だいたい10分もしないうちに息を切らした大神が戻ってきて二人は当初の予定通りにマリアの知人の店へ向かっていった。
「隊長、さっきはどうなさったんですか?急に走って行かれて。」
とりあえず最初はスコッチウイスキーで乾杯をしたあとにマリアが尋ねた。
「これさ。」
ポケットから小さなビロード貼りの箱を取り出した大神はその箱を開け、中からこれまた小さな真珠がついている指輪を取り出すと驚いた顔をしているマリアの右手を取り、そっと薬指にその指輪を滑らせてはめてやった。
「た、隊長…?」
「決めたんだ。マリアが俺にしてほしいこと、できる限りずっと一緒にいてほしいんでしょ?だから、ずっと一緒にいるために、マリアと結婚する。」
満面の笑顔で言った大神と対照的にマリアは悲しそうな顔で首を振った。
「そんなこと。無理です。」
「無理じゃないよ。」
「ふざけないでください。」
「ふざけてない。」
「どんなに好きでも、だめなことってあるんです。私と隊長では。」
「じゃあ、マリアが言ったのは嘘だったの?できる限り一緒にいたいって。」
「嘘じゃないです、だから、できる限りって。」
大神の真剣な表情にマリアは目を伏せて、そして俯いた。
「前に、ミカサの中でマリアをずっと守るって約束した。その気持ちはまだ全然変わってないよ。」
マリアの脳裏にあのときのことが蘇った。あれはサタンとの戦いの前。ミカサの中で隊長は約束してくれたのだ。
「マリアは俺じゃだめ?結婚まではしたくない?そんなには好きじゃない?」
「好きですっ、自分の命よりも大事な、大事な。」
一瞬、顔を上げたマリアがまた力なく俯いた。
「隊長は…私の命よりも大切な人だから。幸せになって欲しいんです。」
小刻みにマリアの肩が震えている。大神はマリアの手に重ねた手に力をこめた。
「俺さ、ほんとは起きちゃったんだ?」
「え?」
「マリアの指が唇に触れて、それでぼんやりと目がさめて。マリアの、ほんとのお願い聞いちゃったんだ。」
「あれは…。」
「俺、ほんと、わかってないよなぁ。ごめんね、マリア。」
マリアが首をふるふると振った。
「忘れてください。」
「忘れないよ。マリアのお願いならなんでも聞くって言ったじゃないか。」
大神はにっこりと笑う。
「そんなに辛い思いしてるなんて思わなかったからさ。マリアの性格考えれば、わかりそうなものだったのにね。」
「でも、隊長の将来に響きますから。」
「マリアを奥さんにしたぐらいで将来に響くのなら、俺って最初から大した価値がなかったんだよ。大丈夫、春になったらうちの両親に会いに行こう。」
「そんな。」
「心配しないで。反対はしないさ。」
戸惑った表情のマリアに大神は自信ありげに笑いかけた。
「だから、約束して。少しぐらい障害があっても絶対にあきらめないって。」
本当に?信じていいんですか?心の中で大神に問い掛けた。その問いかけに答えるように大神が微笑んでいる。…マリアはこくんとうなづいた。
「隊長は、バカです。こんな私のために。」
「バカでもいいよ。利口になって大事な人をなくすより、馬鹿で大事な人と一緒にいたいよ。俺、マリアにずっと笑顔でいて欲しいんだ。」
願いは叶わないかもしれない。でも、少しでも望みがあるのならあきらめちゃいけない。駄目でもそれでも出きる限り隊長についていきたい。そう決意したマリアの顔には以前のような柔らかな笑顔が戻っていた。
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