夜の大帝国劇場は静まり返って昼間の喧騒など嘘のようであった。今日が何時にも増して静かであるのは昼間の出来事が原因と思われる。竜神会と言うやくざと公演を巡って一悶着あり、なんとかそれを無事に納めることができたので、疲れてしまったのであろう。大神はその騒動の決着には加担しなかったのだが、マリアの話では花組全員がかなりの大立ち回りを演じたらしい。それでその疲れを取るためと明日からの稽古に備えて各々の部屋に早々に引き上げて寝てしまったというわけだ。こうやって見回りをしていても、紅蘭の部屋で工作の音が聞こえる以外、みんな静まり返っていた。2階を見て回った後、1階に下りて舞台や大道具部屋、小道具部屋へと進んで行く。
「じゃあ、親分さんは分かってくれたんだね?」
「ええ。」
今日は夜の見回りを今日はマリアと二人でやっている。別にマリアが一緒に見回りをする必然性があるわけではないが、二人だけで話す時間をこんな時にでも作らないとなかなか持てないからだった。特に公演に入ってしまうと、公演の疲れと体調の維持でマリアは早々に寝てしまうし、大神も雑務が急激に増えてしまい二人でゆっくりと話す時間など取りにくくなる。同じ屋根の下にいるにも関わらず、下手をするとマリアと食事の時の挨拶程度の会話しかできない日もあるくらいだ。
「自分の子供の夢は潰しちゃいけませんよね?」
マリアがにっこりと笑って言った。
「そうだね。子供の頃の夢って大事だからね。子供には自分の夢をもつ権利がある。その権利を親が潰しちゃいけないよ。それが叶う、叶わないに関わらずともね。」
「ええ。私もそう思います。」
大神が自分と同意見だったことに嬉しそうに頬を緩ませていたマリアが、ふと思いついたように大神に尋ねた。
「隊長の小さい頃の夢ってなんでしたか?」
地下へ続く階段を降りながら大神がうーんと唸る。
「そうだなぁ…。」
大神は何か思い出したように一人でくすりと小さく笑ってから話し始める。
「俺の実家は栃木っていうところにあって、近くには海がないんだよ。だからずっと川で泳いでいたんだけど、ある時、親戚の法事で出かけたときに初めて海に行ったんだ。その広さにびっくりしてね。一面、わーっと水だらけだろう?しかも、耐えず波が来るし。感動したなんてもんじゃない。もう、世界が変わるほどに驚いたんだよ。それでね、大きくなったら海で仕事をしたいって、そう思ったんだ。」
「海で仕事ですか?」
「うん。そう。それが夢だったんだよ。」
目をきらきらと輝かせて嬉しそうに話す大神にマリアは愛しさを感じてしまう。可愛いなんて言ってしまったら失礼なんだけど、いつもの、頼り甲斐のある隊長の顔と同様に時折見せる少年っぽい笑顔も彼女の好きな表情の一つであった。
「随分と現実的な夢だったんですね?」
「そうかなぁ?でも、うちの実家は海から随分と遠いから、結構、無茶な話だったんだよ。」
大神が悪戯っぽく笑った。
「でね、海で仕事をするのってどんなのがあるかなって思ったら、漁師しか最初は思い浮かばなかったんだけど、そのうちに海軍っていう手もあるって分かってね。そっちのほうが遠くの海まで行けるしね。それで海軍に入ろうって決めたんだ。」
地下の見まわりを済ませ、マリアを部屋に送るために階段を上って行く。
「では、隊長の夢は半分は叶ったわけですね?」
マリアの苦笑に大神も笑い出す。
「半分か。そうだなぁ。海軍には入ったけど、配属されたのは海とは全然関係ないところだったからなァ…。最初はすごく驚いたし、内心気落ちもしたけれど、今じゃこっちの方がずっといいからね。」
大神の言葉にマリアがぽっと頬を赤らめる。
「マリアは?小さい頃の夢ってなんだった?」
マリアは少し首を傾げたがすぐに思い当たったようで、それこそ夢見るような、けれども困ったような、哀しいような複雑な表情を頬に乗せて呟く。
「叶わないかもしれないんですけれど。」
「なんだい?」
2階に上がるとマリアの部屋の前まで来る。ドアノブに手をかけたマリアがしばらく考えて口を開いた。
「お姫さまになりたいんです…。」
「え?」
大神が聞き返すと、マリアはにっこりと笑う。
「小さい頃の夢ですけどね。…それじゃ、隊長、おやすみなさい。」
そう言うと大神の返事も待たずにひらりとドアの中にその身を消した。
「オヒメサマニナリタインデス」
そのマリアの余りの素早さに、あとに残った大神は肩透かしを食らったようにその場に立ち尽くし、ぼんやりとマリアの言葉と表情を頭の中で何度も繰り返していた。


絶対におかしいと思ったのは朝起きてからだった。歯を磨きながらぼんやりと考えていたら尚更その言葉のつじつまの合わなさが余計にひっかかる。
オヒメサマニナリタインデス。なりたかったという過去形ではなく、なりたい。今も思っているということ。そりゃ、マリアは半分ロシア人で、日本語が多少不自由だと言われればそうかもしれない。でも。あんなに難しい本を日本語で読んだり、脚本の修正をするような人が過去形と現在形の使い方を間違えるだろうか。故意にか、はたまた無意識にかわからないけれど、現在形で言ったのはそれなりの意味があると思ってもいいのでは。
それから、彼女は最初に叶わないかもしれないと言った。お姫様というのは一国の王の娘ということである。日本でお姫様と呼ばれるには天皇陛下かもしくはかなり有力な貴族の娘にならない限り無理であろう。それも、普通、お姫さまと呼ばれるにはそういう家に生まれついてこそ呼ばれるもので、例えば、他所から嫁に入ったなら、それは姫ではなく妃なのである。
もしロシアで姫になるのならば。今のロシアではそういう階級を否定している。革命軍として活躍したマリアがそれを望んでいるとは到底思えない。革命が生きるための手段で思想は別だったとしても、それこそ、ツァーリの娘である他は姫になることはできない。
残るは養女か…?しかし、彼女の後見である花小路伯爵の養女になったところで令嬢とか息女とか呼ばれるのがせいぜいであろう。ツァーリの養女になる約束ができていたのか?いや、確かロシア皇帝には何人かの娘がいた。その中にマリアが入るなど普通では考えられない話である。マリアは父は外交官だと言っていた。当時のロシアで外交官の地位がどれほどかはよく分からないけれど、恐らく、有力な、ツァーリと特別なコネを持つほどではなかっただろうと思われる。
叶わないかもしれない。彼女のその言葉には叶う可能性が秘められている。
舞台でお姫様役をやりたいということか?いや、それならば、もう既に叶っている。
一体、どういうことだろう。


一度湧き上がった疑問はなかなか払拭しきれず頭に残り、すっきりとできないので本人に直接聞いてみようと思った。しかし、そういうときに限ってタイミングが悪い。マリアに直接尋ねようにも、マリアが忙しいのだ。今度の公演では主役の一人なのだから無理はない。毎日、レニとマリア、織姫、カンナ、さくらが舞台で練習を重ねている。しかも、練習もかなりハードなもので、あの日を境にマリアと話す機会がまったく失われてしまった。
「やれやれ。」
大神はサロンで深いため息をついた。みんながいる前ではさすがに聞けないし、どうしたものだろうと。
叶わないかもしれない夢。お姫様。なんだかその時の表情がやけに頭にひっかかっていた。複雑な表情の中で一瞬見せた縋るような目が。本人が思っている以上に雄弁な彼女の表情は時折、口では言えないことを物語る。尤も、それが分かるようになってきたのはそんなに過去の話じゃない。いや、分かるようになったと言うよりも、彼女が少しづつ自分に甘えてくれるようになったのだ。未だに口ではなかなか言ってくれないのは多少の不満は残るけれども、それでもこうやって自分の気持ちを表情に出すようになってきたのはそれなりに喜ばしいことだと思う。だからこそ、俺が何かしてやれることがあるのならば、できるだけ力になってやりたいって思っている。
「きゃは☆おにいちゃん、難しい顔をしてどーしたのぉ?」
不意に声をかけられて顔を上げるとアイリスが笑顔で立っていた。すみれも一緒である。
「やぁ。お稽古は終わったのかい?」
「休憩ですわ。ずっと歌いっぱなしで喉がおかしくなりそうなので、お紅茶で喉を潤そうと思いまして。」
すみれがこほんこほんと咳をしながら言った。
「ああ、今回は紅蘭と3人で薔薇の精だったね。…他のみんなは?」
「まだ練習中ですわ。紅蘭は舞台でマリアさんとセットの打ち合わせ。…それよりも、中尉、こんなところでぼーっとしてどうなさったんですの?」
「あ?ああ。ちょっとね。」
「考え込んでいたようですけど…?」
すみれが心配そうに声をかけてくれる。
「いや。大したことじゃないんだ。」
慌てて否定する大神にアイリスが食い下がった。
「大したことがないんだったら教えてよぉ。」
にこにことしながら邪気のない目で顔を覗き込まれ、叶わないなァと苦笑しながらも少しだけ考えていた内容を口に出した。
「いや…ね。お姫さまって、やっぱり女の子の夢の定番かなぁって。」
「あったりまえだよぉ♪」
アイリスが元気良く答えた。隣ですみれもうなづいている。
「お姫様はぁ、綺麗なドレス着て、素敵なお城に住んでぇ、それから、それからね。」
「綺麗なドレスも素敵なお城もアイリスは持ってるだろう?」
「それだけじゃダメなの、ね?すみれ?」
アイリスはすみれに向ってにっこりと微笑む。すみれも承知したとばかりに優しい微笑でその先を続ける。
「裕福な暮らしももちろんですけれど、何よりも大切なお姫様の条件。それは、素敵な王子様と一生幸せに暮らすことですの。御伽噺のお姫様はたいてい『そしてお姫様は王子様とずーっと幸せに暮らしましたとさ』で終わりますもの。たとえ、貧乏でも、愛する殿方と一生幸せに暮らしたい。それが国を問わず、世界共通の少女の夢ですのよ?」
すみれの言葉にパズルの重要なピースがかちりとはまった気がした。そうか。そうだったのだ。
「それにしても、一体、どうなさったんですか?急にお姫様だなんて。」
「あ、そ、それは、切符を売ってて、女の子が言ってたからそんなもんかなぁって思って。」
俺はすみれの質問にしどろもどろになりながらなんとか誤魔化してサロンから出た。


さっきの二人の言葉を答えとして考えるとパズルのピースがどんどん埋まって行く。叶わないかもしれない。一生幸せに暮らしたかどうかは最後の瞬間でないとわからない。だから現在形での言葉。なりたいということは、可能性があるということ。一度はロシアで全てを失ったマリアが帝都に来て、また彼女の大切なものが増え始めた。だから、お姫様になれる可能性ができはじめたのだ。すみれやアイリスの言う通り、お姫様になる重要な条件が愛する人とずっと幸せに暮らすことならば、自分にできることは一つしかない。
「隊長…?」
書庫の窓から星空を見上げながら待っていると後ろからマリアの声がした。今日は朝のうちからお稽古が終わったら書庫に来て欲しいとマリアを誘っておいたのだ。
「あ、ああ。ごめんよ。忙しいのに。」
「いえ、かまいませんが。…どうなさったのですか?」
マリアが書庫に入ってきた。そのまま真っ直ぐに窓辺まで歩いてきて大神の隣で彼と同じように空を仰ぎ見る。光害でかなり少ないとは言えども今夜も綺麗な星空が見えている。
「ああ、星が見えますね…。春なのに霞もかからずに。本当に綺麗だわ。」
しばらくそうして一緒に夜空を見上げていたが、やがて、マリアはこちらに視線を向けると小首をかしげて尋ねた。
「で、どうなさったのですか?」
「いや…。」
なんと言っていいか分からずに、言葉を捜しながらマリアの顔を見つめた。翡翠の瞳を柔らかく微笑ませて彼女は先を促すでもなくじっと俺の言葉の出てくるのを待っていてくれる。そう、いつもそうなのだ。指示や命令ならばすんなりと口から出てくるのにこういう話になると前もって自分の頭の中で整理してセリフを練習しておかないとすんなりとは出てこない。そして、そういう時に決まってマリアは黙って微笑みながらじっと待ってくれる。だからこそ話しやすいのだ。
「あの…さ、マリア。この間、夢の話をしただろう?」
「え?」
「ほら、小さい頃の夢の話。覚えているかい?」
マリアはふっと表情を曇らせた。
「え、ええ。」
「マリアはあの時、お姫様になりたい。そう言ったよね?」
「はい…。」
マリアは困ったような顔をしてうなづいた。
「なんだかそれがずっと俺の頭の中から離れなくって、しばらく考えていたんだ。マリア。その…。」
期待なのか、不安になのか翡翠の瞳が揺れているのがわかる。
「お姫様みたいに、裕福にはできないけど、それでも、約束通りに一生君を守るから、ずっと二人で幸せに暮らしていこう…な?」
一気にそこまで言ってはぁっと息を吐いた。もう、ずっと前に自分の気持ちをマリアに伝えてあったし、それにいつかは結婚だってするつもりでいた。けれども、それがマリアには先のない未来のように思えたのかもしれない。だから、叶わないかもしれないと、彼女にしては弱気な発言になったのだ、いや、彼女の性格だからこそ弱気な発言になったのだろう。それに忙しさにかまけて、最近はちゃんと自分の気持ちや考えを彼女に伝えることをしないでいた。それではマリアが不安に思ったり弱気になるのだって当たり前だ。きちんと言葉にしよう。そう思ったから改めてマリアに自分の気持ちをぶつけて見ることにしたのだ。
マリアは硬直したようになって、それでもすぐにその表情をゆっくりとほころばせて行った。
「隊長…。」
「ここのところ、ゆっくりと話しもできなかったから。だから…。」
ほころんだ表情が今度はだんだんと泣き顔になっていき、翡翠の綺麗な瞳からはぽろぽろと涙の雫がこぼれて床に落ちていった。
「マ、マリアっ?」
いきなりの涙に狼狽して尋ねると彼女は俺のせいではないとでも言うように小さくかぶりを振った。
「あんな、たった一言のことを真剣に考えてくださるなんて…。」
涙の理由が悲しいことによるものではないと知ってほっとした大神は右手をマリアに伸ばし、そっと指先でこぼれて行く涙を掬う。どうやら大神の出した答えは正解だったらしい。
「なんとなく…気になっちゃってね。」
全ての涙を拭うと大神は照れ笑いしながらマリアをそっと抱きしめる。
「あの…笑わないんですか?」
大人しくすっぽりと大神の腕の中に収まったマリアが右の肩口でおずおずと尋ねた。
「何を?」
「こんな子供っぽい夢を…その、…いつまでも持ってるなんて…。」
マリアの口調がだんだんと沈んでくる。そんなマリアの様子とは正反対に大神はくすくすと笑いながら言った。
「かわいい夢を持ってるマリアも、しっかりとした目標を持ってるマリアも、どれもみんな俺の好きなマリアだから。」
「隊長…。」
大神がマリアの背中に回している手に力を込めるとマリアも少しかがむようにして肩口に顔をうずめた。
「だから、その夢を一緒に叶えよう?」
耳元で囁くと金の糸が肯定の意にふわりと揺れた。
ガラスの靴も、綺麗なドレスも、大きなお城もないけれど、マリアを思う気持ちだけは何にも負けないから。だからマリアを御伽噺のお姫様にしてあげる。『ずっとずっと二人は幸せに暮らしましたとさ』、そう、ずっとずっと…。



END

 

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