「おい、葉月。今日、暇か?」
眠たげな瞳のまま、次の授業の教科書を机の上に出し、少ない休み時間を無駄なく再び睡眠にあてようとしていた葉月の頭の上から突如として誰かの声が降って来た。
「…?」
眠さでよく開かない目で、気だるそうに見上げると、そこには男が立っていた。
こいつ、誰だ?
見かけたことはあるが、話したことはない…と思う。
いや、もしかしたら話したことがあるかもしれない。
眠いアタマを起こして、必死で過去の記憶を探る。
「…まさか、俺が誰だかわからないわけじゃないだろうな?」
機嫌悪そうに男がむっとした顔で尋ねる。
「覚えてる。」
と思う。
いいかけた語尾はこの際、面倒だから飲み込んだ。
「…桐生のことで話がある。放課後、うちのクラスまで来い。わかったな。」
それだけ言うと、男はさっさと教室を出て行った。
…誰だっけ、いや、それより、あいつ、何組だっけ?
葉月はぼんやりと浮かんだ疑問を解決しないまま、再び眠りに落ちて行った。
昼休み。
葉月の斜め前、桐生千波矢の席には、他のクラスから有沢だの、藤井だの、須藤だの、紺野だのといった仲の良いものが集まって、それは楽しそうに昼食を取っている。
葉月は相変わらず寝ているのだが、机に突っ伏しているだけで、実はその意識はまどろんでいる程度である。
昔だったら教室の中でなんて煩くてかなわないから、今日みたいな天気のいい日は外で寝ていたのだが、こうしてここで寝ているのは千波矢のそばにいたいから、なんてことは口が裂けても言えない。
「…でね、結局、鈴鹿君、言うこと聞いてくれなくて…。」
悲しそうに話す紺野に、藤井が激昂した様子で言う。
「そんなヤツ、張り倒してしまえっ!」
乱暴なヤツ。
耳に入った言葉に葉月は内心思っていた。
「…珠ちゃん、言い方が優しいものね。」
同情したように言う千波矢と、それに同意するように有沢が言う。
「…本当により良いプレイをしたいのなら、紺野さんの提案を受けた方がいいのに。そんなこともわからないようじゃ、この先、選手として行き詰るかもしれないわね。」
冷静な有沢の評を葉月はぼんやりと聞いていた。
話題に上っている鈴鹿君、というのは、どうやら紺野がマネージャーをしているバスケ部の生徒らしいと葉月は判断する。
「それよりも、ミズキが気になるのはあのばんそうこう。…毎日、どうして貼っているか、とても気になる!」
素っ頓狂な声でぜんぜん違う話題を振り出す須藤に、それでもみんなが噴出した。
そう、あのトレードマークとも言えるばんそうこう。
入学以来、はずした顔をみたことがない、といっても過言ではないほど、毎日貼られている。
「鈴鹿君、部活で汗をかくでしょう?タオルで拭く時にゴシゴシ拭きすぎてかぶれているんだって。」
紺野の説明にみんなふーんと、納得したようなしていないような相槌を打つ。
ばんそうこう。
斜め後ろでその話を聞きながら、そういえば、今日、何かいいに来たヤツもばんそうこうを貼っていたのを思い出す。
言われて見ればアイツ、鈴鹿とかいったような記憶がある。
いや、そうに違いない。
放課後にクラスに来いとか言っていた。
千波矢に聞けば、クラスわかるかもしれない。
そんなことを思いながらまたうとうととし始めた。
放課後。
結局、手芸部に行く途中の千波矢に鈴鹿のクラスを尋ねて奴のクラスまで出向くと、そこには見覚えのある顔ばかりが揃っていた。
「遅いぞ。」
鈴鹿、というばんそうこうのヤツがそう言ってから、みんなの方を振り返る。
そこにいたのは、守村、三原、姫条、日比谷だった。
このメンバーの共通点といえば、ひとつしかない。
「回りくどいのは苦手だから率直に言う。…桐生に抜け駆けは許さない!」
高らかに宣言して、鈴鹿はどうだとばかりにみんなを見回すが、リアクションのなさにちょっとあせる。
「抜け駆け言うても、ちーちゃんの方から俺に電話くれるんや。断る訳にはいかへんな。」
姫条の『ちーちゃん』呼びに鈴鹿の眉がぴくりと動く。
「ち、ちーちゃんて…。」
「なんや、ちーちゃんはちーちゃんや。」
勝ち誇ったように言う姫条に鈴鹿が少し固まった。
「あの…頼まれて、一緒に…買い物とかもいけないんでしょうか?」
おそるおそる尋ねる守村にさらに鈴鹿が固まる。
「…家の庭に…蒔く種とか…参考書とか…見てほしいって…誘われることがあって…。」
「あ。センパイ、俺も!…弟の誕生日プレゼントとか、選ぶの手伝ってほしいって言うのもダメなんスか?」
日比谷の言葉にさらに鈴鹿の顔がひきつって。
「無駄だよ。…僕の美しさに、ひかれない人はいないんだ。…ちーちゃんだって、美しいものは好きに決まっている。…それを禁止することなんて誰にもできない。悪いとすれば、僕が美しすぎるのがいけないんだね。」
罪作りな自分を許してほしいとでもいいたげに、三原はため息をつきながら鈴鹿に言う。
「は…葉月っ!」
最後の砦と言わんばかりに自分の方を向いた鈴鹿に、葉月は口を開く。
「千波矢の…膝枕…好きだ…。」
葉月の言葉に鈴鹿は完全に玉砕してしまったようでもはや身動きもしない。その様子を見て葉月は勝ち誇ったように口元を僅かに綻ばせる。それは鈴鹿だけではない。姫条や三原に対してもだった。
「話…終わりなら帰る。」
そう言って葉月は踵を返す。出て行こうと、扉に手をかけてふと思い出したように葉月は真っ白に燃え尽きかけた鈴鹿を振り返った。
「…おまえ…ツメが甘い。」
その言葉に少しだけ立ち直りかけた鈴鹿が反応する。
「氷室と…理事長がいない。」
それだけ言って、教室から葉月は出て行った。
教室に残されたものは、葉月が教室を出て行く扉の音で我に帰り、なんとかして形勢逆転を狙おうと、スケジュールを調べながら千波矢にデートの約束を取り付けるために電話をしようとするのだった。
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