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「であるからして、問4の答えは…。」数学、担任である氷室の授業。
 眠気をこらえて、ぼんやりと問題の解説を聞きながら視線をゆっくりと右から左へ巡らせると、ふと斜め前に座る千波矢の後姿が視界に入って来た。
 頭を時々上下に動かして、氷室の几帳面な板書をノートに写しながら一緒に問題も解いているらしい。千波矢の持つシャープペンシルが忙しなく動いている。
 その熱心な授業態度に氷室は時々千波矢を見つめては僅かに微笑む。
 …油断ならない。
 堅物で有名で、数学の教科書か、もしくは分厚い事典が彼女ではないかと専ら噂される男も、桐生の前にあっさりと陥落した。
 以前から体育祭で1位を取ったと言っては声をかけ、テストで1位を取ったと言ってはわざわざ声をかけに出向くということをしていたが(俺が体育祭で1位をとろうが、テストで1位をとろうがそんなことしなかった)、最近では部活帰りの桐生を待ち伏せしては、車に乗せて家まで送り届けているらしい。
 「では次の問5を桐生。」
 「はい。」
 指名された千波矢は椅子から立ち上がると、クラスの連中の視線を背中に集めて前に出て、その回答を書き始める。多少要領が悪いけれど、それを努力でカバーしてしまう千波矢らしい真面目な字が淀みなく書き連ねられて、そして最後に回答を少し大きめの文字で書くと、その正否を問うように不安そうな表情で横に立つ氷室の顔を見つめる。
 馬鹿。そんな顔して氷室の顔を見るな。
 ほら、アイツ、絶対に誤解している。
 そうじゃない。千波矢は、ただ、正解かどうかが不安なだけで、絶対おまえを頼ってそんな顔をしているわけじゃない。
 「正解。よくできたな、桐生。」
 氷室の声に、ほ、と安堵の息をついてから顔を綻ばせる。
 ああ、その笑顔も誤解を生む。違う、千波矢はただ正解だったのが嬉しいだけで、おまえに褒められて嬉しいと思ったんじゃない。
 千波矢は氷室の暖かな眼差しに一向に気づかず、そそくさと自分の席に戻ってくる。
 席に座る寸前に俺と目が合うと、にこ、と微笑んでから席に座る。
 そして、またもとのように黒板の板書を書き写しているのか、俯いてさらさらとペンを走らせていた。
 「では…次の問題。」
 氷室は千波矢が正解したから嬉々として次の問題の説明に入っている。
 嫌いな先生じゃないが、千波矢に色目を使うのだけは許せない。なんとかして千波矢から遠ざけなければと思うけど、かなり強敵。顔は悪くない(つーか、むしろいい?)、アタマも当然のことながらいい(当たり前)、運動はどうかわからないけど、ピアノが上手いって千波矢が言っていた。
 …なんたって大人だしな。
 千波矢はいつも俺に、『ヘンなトコ、子供なんだから』と言う。自分だって、子供みたいに意地をはったりするくせに、俺にそういうことを言うんだから始末に終えない。…そんなたわいもないことでさえも、俺にとっては嬉しいけど、アイツが大人の男が好きだと言うなら、それは別。
 …俺、もっと大人になるから。だから俺を見ていてほしい。
 いつも言いたいのに言えなくて、ふぅっと小さくため息をつくと、それと同時に、机の上に何かが落っこちてきた。
 真っ白なノートの上に転がったゴミのようなそれは、よく見ると紙くずで、広げて見ると、見慣れた真面目な文字が並んでいた。
 『今日、お弁当作ってきたの。屋上で一緒に食べよ?』
 わかってたんだ。
 驚いて視線を千波矢に向けると、小さな背中は相変わらず、板書や氷室の説明を熱心に書きとめている。
 最近、千波矢が誰かと話しているだけで不安になるのを、千波矢はわかっているんだ。
 ノートの切れ端に書かれたなんでもない昼食の誘いのメッセージが、俺の気持ちをこんなにも軽くする。
 「葉月!何をニヤニヤしている!」
 だから、例えいわれのないことで氷室に八つ当たりされたとしても。
 「…『ニコニコといって下さい。』」
 その言葉に、千波矢の背中がおかしそうに揺れる。
 千波矢のちょっとした挙動で、寛大になれる自分がそこにいる。
 「どちらも同じだ。授業中、わけもなく笑うな。」
 「…数学って…楽しい。」
 「………。」
 ぼそりと呟いた言葉のリアクションに困った氷室は苦い顔をしていて。目の前では千波矢がおそらく笑っているらしく、背中がさっきよりもやや大きめに揺れていた。
 千波矢を好きになってから起こる変化に驚くことも多いけれど。
 やっぱり、恋愛っていいと…いや、千波矢だからこそ、千波矢を好きになるからこそいいのだと、思う自分がここにいる。
 「もういい。…次の問題!」
 黒板の方を向いた氷室の隙をついて、振り向いて悪戯っぽく笑う千波矢に笑顔で返す。
 もっともっと、変わっていける。千波矢が一緒ならば。
 
 
 
 END
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