浮気
「あかね様。藤原鷹通殿がおみえになりました。」 女房の言葉に胸がどきんと大きく波打つ。先導の女房の後ろから御簾をあげて入ってきた彼の姿は普段とは違って艶やかだった。秋らしく桔梗の重ねの表の二藍がいつもの柔らかな鷹通さんの顔を引き締めてとても格好よく見える。先日、友雅さんが私に「おしゃれさせて行かせるからね♪」と予告していたとおりで、思わず見惚れちゃった。 「こんばんは。」 こんなときにも律儀に挨拶してくれる彼がちょっとおかしくて、くすりと笑いを漏らすとそれにつられたのか、彼も年相応のあどけない笑顔を浮かべた。 私が京を救ってからあと少しで半年が経とうとしている。日照りが心配されたけど、予想よりも随分と被害は少なくて、みんなが困ることはなかったと聞いて安心した。本来ならば龍神の神子としての勤めを終えた後、元の世界に帰るはずだったのに未だにこうして京に留まっていたのはひとえに目の前に座っている鷹通さんのせい。アクラムとの戦いの後、鷹通さんから京に留まって欲しいと言われて承諾し、左大臣家の養女となり、正式に結婚できる算段が整ったのは秋のはじめ。それから泰明さんに良い日を選んでもらって、ようやく今日、鷹通さんと結婚することになった。というよりも、結婚するために鷹通さんが私のところへ訪れる1日目となったと言ったほうがいいだろう。私達の世界の結婚とは違って3日連続で鷹通さんが私のところにこなければ結婚は成立しないらしいのだ。 「あのー、その…。」 普段は優しい笑みを湛えている顔が、今日は照れまくりながら御帳合の端っこに座っている。鷹通さんはいつもよりも緊張しているらしくって真っ赤な顔で何かをいいたげにしていた。友雅さんなんかだとこんなことは絶対にないんだろうけど、真面目な鷹通さんらしくってなんだか嬉しくなった。 「あがってもよろしいですか?」 あがってもよろしいですかなんて、聞くことじゃないのにね。それでも私はうなづいて鷹通さんが横に来るのを待っていた。 「あの…少し、お話をしてよろしいでしょうか?」 鷹通さんは少し真剣な面持ちで尋ねてきた。鷹通さんの『お話』は勉強になることが多いけど、今日はいつもの『お話』と違うようだ。私がこっくりとうなづくと、そのまま真剣な表情で話し始めた。 「…私は…融通がきかないだとか、面白味がないだとか、堅物だとか言われていることは自分でも重々承知しております。…こんな私ですが、それでも、ずっとあかねだけを…お慕い申上げています。」 少し視線を臥せて、膝の上に置いた握りこぶしが真っ白になるくらいに握り締められていて、その言葉にどれほどの悲しさや悔しさが込められているのかということも、まだ少し自分に自信がもてないでいることもわかってしまう。 「こんな私なんて言わないで。そういう鷹通さんだから好きになったの。」 私の言葉に更にぱぁっと頬を赤らめる。それでも彼は辛そうな表情でその先の言葉を続ける。 「私と結婚することで、元の世界には戻れなくなるかもしれません。もし、少しでも戻りたいとお思いでしたら…。」 言いかけた言葉を塞ぐようにして私は自分の言葉を重ねた。 「いいの。決めたの。戻れなくなっても、鷹通さんがいないことよりずっとまし。」 「あかね…。」 彼は嬉しそうに微笑んで傍らに座る私をぎゅっと抱きしめた。 「私は一生、あかねだけを見て、あかねの側におります…。」 「私も。鷹通さんだけ…愛してる。」 二人は永遠の愛を誓うとどちらからともなくそっと唇を重ねた。 私と鷹通さんが結婚してからあっという間に3年半が過ぎようとしていた。当時、治部省の少丞にすぎなかった鷹通さんは八葉としての功績と、本人の勤勉さと能力と、私の実家となった左大臣家筋からの引き立てもあってとんとん拍子に位が上がり、今では太政官に移り左中弁にまでなった。 そして、左中弁になったのをきっかけに小さな邸宅を求め、私を左大臣家から呼び寄せてくれた。左大臣邸のように豪華にはいかないけれども、それでも私達が住まうには充分の大きさで、左大臣家や鷹通さんの実家から連れてきた女房達もそこそこに広い局が持てるほどである。ただ、家人を必要最小限としたために通常の家よりもかなり人が少ない。それでも、人が少ないための無用心から夜盗などに押し入られることを心配した泰明さんが強力な結界を張ってくれたので割りと安心して住んでいられる。小さいけれど、アットホームな雰囲気の住まいで、私達は平穏に暮らしていたのであった。 しかし、その平穏が乱れる日は突如としてやってきた。 鷹通さんの文箱の中からその手紙を見つけたのは偶然のことだった。もともと文箱をあける積りもなく、ただ飼い猫のタマを探していただけだった。元の世界では猫なんて珍しくもないものだったけど、こっちの世界では猫は稀少で、しかもねずみよけに役立つから貴族の家では飼っている家が多い。うちでもそういったわけで左大臣家から生まれた子猫を貰ってきたのだ。タマと名づけられたお騒がせな猫は部屋の中で暫く走りまわった後に鷹通さんの文箱をひっくり返し、そして庭先に出て行ってしまった。 やれやれと思いながらそれを片付けていたときに偶然、見なれない文を見つけたのだった。綺麗な萌黄の紙に私でも分かるような素晴らしい手蹟。それは一目で女性からのものとわかった。しかも、同じ女性から何通も。ほとんどのものは折りたたんであったけど、開いてあった1通には何か歌がかかれている。書いてある和歌は相変わらず私には深い意味があんまり良くわからなかったけど、多分、文面通りに受け取れば鷹通さんがお世辞ばかり言うので私は恥ずかしい思いをしているし、本当の自分はそんな素晴らしい女ではないというような内容だった。 4年も京の世界にいればまだまだ一般教養としてはかなりレベルが低いけれども多少のことはわかるようになってくる。一瞬、その手紙を手に頭が真っ白になり、何も考えることができなくなってしまった。自分は一体、何を手にしているのだろう。しばらく呆然とそこに立ち尽くしていたが、やがて誰かのやってくる衣擦れの音に慌てて鷹通さんの文箱を片付けるとまた猫を探しに庭に出て行った。 庭でざっと見まわしたけれども既に猫は見当たらない。茂みにでも隠れているのだろうか。少しかがんで見たけれども、猫を探すどころではなく、さきほどの手紙が私の胸に重く貼りついていた。綺麗な手蹟、上手な歌。かなり教養のある人には間違いなくて。…思い出したくなくても脳裏に浮かぶそれは猫を探す気力も吸い上げてしまい、とうとう私は溜息をついて桜の木の根元に座り込んだ。 鷹通さんの漢詩の上手さ、一般教養の高さ、頭の回転の良さは宮廷でも評判である。私だって、元の世界では成績は良くはなかったけど、悪くもなかった。なのに、そんな知識はここでは全く役に立たなくって。…やっぱり、話応えのある人のほうが話をしていても楽しいのだろうか? そう思うと涙が自然とこみあげてくる。ずっと自分なりにできるだけいろいろ覚えようと努力してきた積りだった。もともとそんなに古文だってキライじゃなかったし、歴史だってキライじゃなかったからできるだけがんばった。だけど、どうしても能力には限界ってものがある。それに、お仕事で疲れて帰ってくる鷹通さんを捕まえてあれこれと聞くのも悪いような気がしたから。だからなかなか勉強ははかどらなかった。 鷹通さんが私のことで恥ずかしい思いをしないようにって思っていた。だから頑張ってきたのだけれど、こうやって能力の違いをまざまざと見せつけられると、本当に言葉も出ないほど悲しかったし、自分が情けなかった。 それに、鷹通さんだって藤原一門。今では殿上を許されている立派な貴族なのだから、通う女性がもう一人や二人いてもおかしくない。私だけが鷹通さんを独り占めできるわけじゃないんだ。この世界は自分の通っている女性の実家にひき立てられて出世して行くのだから、鷹通さんが出世するためには何人もの女性のところに通って、みんなから押されていかなければならない。だから他に女性ができたことで怒ったり、拗ねたりしてはいけないんだ。全ては鷹通さんのため。私は自分で自分にそう言い聞かせると袖で涙を拭き、再びネコを探しに歩き出した。 「今日は宿直で帰れませんから、戸締りなど気をつけて早めにおやすみなさい。」 それから何日か後。鷹通さんが出仕の出掛けに思い出したように言った。 「宿直?え、でも…この間もだったよね?」 「ええ。順番を変わったのですよ。」 「でも…。」 今日は一緒にいると約束してくれた。だって、もう庭の桜の木が満開だから。 「そのうちに埋め合わせは必ずいたします。」 にっこりと微笑んで言う。けれどもぴくりと眉が動いてて。鷹通さんは自分で気づいていないけれども嘘を言っていると必ずぴくりと眉が動く。…泊まりだなんて嘘、どうしてつくの?他の人のところに行っちゃうの?思わず口から出かかったけれど、言葉を丸ごと、まるで大量の砂でも味わっているような気分で飲み下し、わざと明るく言った。 「うん。わかった。気をつけていってらっしゃい。」 私はできるだけ笑顔を取り繕って明るく鷹通さんを送り出した。本当は泣きだしてしまいたいほどだったけど、泣き出さなかったのは私の無け無しのプライドと、それでもやっぱり鷹通さんが好きだったから。埋め合わせは必ずしてくれるって言ってくれたから、嘘でもそれだけが今の支えだった。 送り出したあと、急に寂しくなった部屋から庭の桜を眺めると春の盛りを祝う様に咲き誇っている。京に残って欲しいって言ってくれたときに毎年、花を一緒に愛でましょうと約束したのなんて、もうきっと忘れちゃったんだろうなァ。 他所のうちで誰かと一緒に桜を眺めるのだろうか。思わず、鷹通さんがあの優しい瞳で微笑んで誰かの隣にいる姿を想像しちゃって、打ち消すようにぶんぶんと慌てて頭を振った。 ぼんやりと桜を眺めているといろいろなことを考える。 京に召還されたときのこと。何もわからないでパニックを起こしている私に現状を丁寧に説明してくれたこと。それからくじけそうになった私を何度も励ましてくれたこと。封印しそこなった怨霊の攻撃から私を守ってくれたこと。怒った顔や笑った顔。照れた顔や泣いた顔。それから、京に留まって欲しいと言ったときの顔。天にも登りそうな気持ちでうなづいた私に見せてくれた嬉しそうな顔。それから、初めての夜、永遠に私を愛してくれるって誓ってくれた時の…。 そこまで思い出してまた涙が出そうになる。 鷹通さんの態度が冷たくなったわけじゃない。きっとまだ私のこと、少しは好きでいてくれる、そう信じていたいから。嫌われるのだけは嫌。だから、笑っていよう。そうすることしか私にはできないから。 そう思っているのに、どんどんと涙があふれてくる。こんなんじゃ、嫌われちゃうよ。涙を止めようとしても一向に止まらず、逆に溢れてくるばかりだった。 その夜はよく眠れずに朝を迎えた。朝からすこぶる天気が良かったけど、風が強く吹いていた。庭の桜は風に煽られてその花びらを庭一面に降らせている。今年の桜ももうそろそろ終わりなんだ。 「ちょっと出かけてくるっ。」 私は素早く身支度をしてみんなの止めるのも聞かずに屋敷を出た。散る桜なんて見ながらこのまま家にいたらきっと泣いてしまう。うちにいる人達は異世界から来た私にすごく良くしてくれる。いろいろと気遣ってくれて、私が大変な思いをしたりしないようにとか、気が塞がないようにとか気遣ってくれるから、もし、私が泣いているのなんか見たらきっと大慌てしちゃうに違いない。だから、どうしても一人になりたかったのだ。 宛てもなくやみくもに京を歩き回って、気がつくと案朱まで来ていた。案朱の桜も満開を過ぎ、風に揺さぶられた枝は纏っている花びらを降り注ぐ雪のように散らしている。私は川辺まで降りて腰を下ろした。川面や道を薄紅に染めた夥しい花びらを眺めていたら、ずっと前のことを思い出した。 あれはまだ私が召還されて間もない頃。京を救うといってもどうしていいか分からずにおろおろとし、周囲からの期待だけが重くのしかかっていて疲れている心も体も既に限界でどうにもならなかった時。鷹通さんがここに連れてきてくれた。 「私は不調法ものなのでどうしたら女性の御心が休まるのかよく存じていませんが…よろしければ今日一日はここでゆっくり花を愛でて過ごしませんか?」 鷹通さんは慣れない言葉に自分でも戸惑いながら真っ赤になって言ったあと、はいと言って御握りまで出してくれた。私の世界でお出かけをするときにどうしているかを詩紋くんや天真くんに聞いてなるべく近いものをわざわざ用意してくれたらしい。それを知った瞬間に私の涙腺は切れてどっと涙が溢れてしまったのだ。 回りは神子として崇めてくれるけど、大事にされればされるほど力のない自分を自覚してしまい、また元宮あかねという個人がどんどんと消されて行くような気がした。自分は龍神の神子より元宮あかねという一個人でありたかったのに。押し潰されて行く自分の存在と、京を救うという使命のせめぎあいで心は塞がる一方だったのだ。鷹通さんは一日、一日と日を追って塞ぎ込んでいく私の様子を気にかけてくれただけでなく、神子じゃなくって、一人の女の子としての気分転換を考えてくれた。…それもあんまり、そういうこと得意じゃないのに。 思えば、それから鷹通さんのこと、考えるようになったんだよなぁ。 ざぁっと一陣の風が吹いた。その風に枝が揺さぶられて新たに花びらが舞い散る中、府抜けたように座っていた。薄紅の闇に包まれて、このまま花びらに埋もれてしまいたい。ぼんやりとそう思った瞬間だった。 「あかねっ!」 後ろから叫び声が聞こえた。その声の主は振り向かなくってもわかる、鷹通さんだった。その瞬間、彼から逃れるように立ち上がって走り出した。意識して逃げようと思ったわけではなく、なんとなく。そう、なんとなく怖かった。どう鷹通と接すればいいかわからなかった。このままじゃきっと、当り散らしてしまう。そんなことはしてはいけない。だから、とにかく走り出した。 しかし、元の世界のように運動に適した靴を履いているならいざ知らず、京の沓を履いているためにそれほど速く走れるわけもなく、すぐに追いつかれ、手をとられてしまった。痛いほど力の込められた手を振り解くこともできずに、やがて逃走を諦めて俯いてその場に座り込んだ。 「あかね…探しました…。」 彼は辛そうにぜいぜいと荒い息の下からようやくそれだけを言った。 「戻ったら、あかねが一人で出かけてしまったと聞いて…。」 しばらくして、少し呼吸が戻ってから話しを続けるが、まだそれでも辛そうで、きっとこの呼吸の荒れ方から考えて、ずっと家から走ってきたのだろう。頼久や天真ならいざ知らず、文官の身には相当に堪えたことだろう。 「危険だから、外出のときには誰かを御連れなさい。…あなたにもしものことがあったらと心配で気が気じゃありませんでしたよ。」 責めるような口調ではなく、いつもの穏やかな、優しい気遣いの口調で言われてかえって自分の勝手さを思い知っていたたまれなくなる。顔を上げることさえできなくって、俯いたまま座り込んでいた。 「あかね…?何かあったのですか…?」 顔を上げてにっこりと笑って『なんでもないですよ』って言うだけで良いはずなのに、たったそれだけのことができない。それどころか、口を開いたら泣き出しちゃいそうだったし、鷹通さんに当ってしまいそうだ。暴れる気持ちを抑えるのに精一杯で返事するどころではなく、そのまましばらくの時間が経過してしまった。 どれくらいたったのだろう。ようやく気持ちが落ちついておそるおそる顔を上げて見ると寂しそうに微笑んでいる鷹通の顔があった。 「鷹通…さん?」 結婚してから、ううん、出会ってから、こんなに寂しそうな顔をしている鷹通さんを見たことがなかった。 「はい?」 それでも何事もなかったかのように返事を返してくれる。何を聞くでもなく、ただ微笑んで。私は呼びかけてしまった手前、どうしようか困っていたけれど、再び風が吹いて花びらが散るのを見て、ようやく言葉を見つけた。 「桜…終わっちゃうね。」 「…すいませんでした…毎年、一緒に見る約束でしたね…。」 てっきり、もう忘れちゃっていると思っていたのに。辛そうに謝るのを見て慌ててぶんぶんと首を振る。 「あ、そ、そんなつもりじゃ…。」 慌てて弁明するけれど、彼は静かに、そして悲しそうに笑った。 「あかねが…私の側にいてくれると言ってくれたから…一生あかねが嫌な思いをしないようにと気をつけてきた積りでしたが…やっぱりダメでしたね…。」 いつものお日様のような明るい笑顔はなく、辛そうに顔がくしゃっと歪んだ。 「少し前から…何か悩んでいたのでしょう…?…会った頃からあかねは全てを自分の胸のうちにしまって耐えてしまうから…そんなことのないようにと思っていたのです…。もしも、私の知らないところであかねが嫌な思いをしていても…私にだけは全部話してくれるようにと…そう思っていたのですが…。私はあかねの夫として…失格です。」 自嘲気味に言った瞳はわずかに潤んでいた。 「し…失格なんて…私の方が失格だもんっ!いつまでたっても教養は身につかないし、それに、貴族の奥さんなんだから、旦那さんが他所に通っても許さなきゃいけないのにっ…やきもち妬いちゃって、私の方が奥さん失格なんだもんッ!!!」 そう叫んだ瞬間に、鷹通の顔は凍り付いていた。 「鷹通さん、優しいから、きっともてるし!だからっ、他所に他の女の人ができてもしょうがないのにっ!」 私の叫びに鷹通は金魚のように口をぱくぱくしていたけれど、やがて、ようやく口の動きに声が伴った。 「い、いまなんて?」 「だからっ、いつまでたっても教養が身につかなくてっ!」 「いえ、そうではなく、最後の…。」 「鷹通さん、他所に通っていらっしゃるんですよねっ!?私、知ってますっ!」 「は????」 一瞬の沈黙が二人の間を流れて行く。 「私が…誰のところに…?」 呆然として、それでも鷹通さんが聞く。 「だからっ、他所の女性に!…あの…見る積りは全くなかったんです…タマが鷹通さんの文箱をひっくり返しちゃって…片付けていたら…その…。」 段々と小さくなる私の声に彼はきょとんとしていたが、ようやくその意味がわかったらしく、最初、ふっと笑うと少しの間堪えていたのだけど、とうとう我慢できなくなって吹き出してしまった。 「た、鷹通さんっ!」 「あかね、誤解ですよ。」 鷹通さんは苦しそうに笑いを抑えながらそう言った。 「は?誤解?」 「あれは私が以前から懇意にしていた受領の娘さんで…大層な才媛なのですよ。つい先ごろ御父上がなくなって他に身よりもなく、行く先を案じていらっしゃったので、うちにあかねの話し相手兼家庭教師として来ないかと御誘いしていたのです。最初は遠慮なさっていたのですがね、うちは女房の人数が少なくて気さくな人間ばかりだということと、なによりもあかねのことを話したら喜んで承諾してくれましてね。喪があけたらうちに来てくださることになったのです。」 その説明を聞いて、私は体中の力が地面に吸い込まれて行くような気がした。なぁーんだ。今から考えて見れば、あの歌の内容は確かにその話にも合う。 「でもっ!!!」 私の反論に鷹通さんは首をかしげた。 「昨夜、本当は宿直じゃなかったでしょっ!!」 私の指摘に鷹通さんはうっと言葉を詰まらせた。 「そうなんでしょ?」 ずずいと詰め寄ると鷹通さんは引きつっていたが、やがて諦めたようにやれやれと溜息をついた。 「鋭いですね…。」 「やっぱり、そうだったんですね?」 「ええ。でも、別に女性のところにいたわけではありません。…左大臣家にいたのですよ。」 「え…?」 「ちょっと仕事向きの話で。友雅殿と私が呼ばれていたのです。」 「じゃあ、私にそう言ってくだされば良かったではないですか。そうしたら、私も左大臣家に行ったのに。」 「それが嫌だったんですっ!」 今度は向こうが口を尖らせていた。 「あそこには…天真や詩紋がいますっ…友雅殿もいたしっ…それにっあかねが来たら頼久だってくるでしょう!?」 「そりゃ…左大臣家だし…。」 「いつもだったら、私も一緒にいれますが、昨日はちょっと長い話だったのであかねと一緒にいれなかったのです。…私がいない間に、あなたはみんなと一緒に過ごすでしょうっ!?」 つまり、やきもち?私は目の前に口を少し尖らせて怒ったような、照れたような顔をしている鷹通さんをしげしげと見つめてしまった。 「あかねと何年一緒にいても、まだまだ自信がないのです。もしかしたら、他の人に取られるかもしれないとか、朝、起きたら全部夢で、隣にはあかねがいないかもしれないといつも思うのです。」 「そんなの、私もだもんっ!!殿上もしてる貴族なんだから、他に女性ができたっておかしくないからっ!…独り占めできなくても…仕方ないから…。」 「他に女性など欲しくありませんッ!」 鷹通さんが断言する。 「あかねさえいればいいのです…最初に誓ったじゃないですか。忘れてしまいましたか?」 私は慌てて首を振った。まだ昨日のことの様にはっきりと覚えている。信じてないわけじゃないけど、今の鷹通さんのように政界の真中にいるような人間には結婚さえその手腕のひとつになるのを知っているからこそ、その言葉の実行がどんなに難しいかわかっていた。 「ふふ。心配ですか?私にはいい断り方があるんですよ。」 「断り方???」 「もし、他の女性を娶ったりしたら龍神から怒られるのでってね。」 鷹通さんはそう言って茶目っ気たっぷりに微笑んだ。会った頃とあまり変わっていないあどけない笑顔をみていたら、何故だか、ずっと信じていられる、そんな妙な確信が生まれてきた。何も根拠のない自信だけど、それでも、お日様のようなこの笑顔は信じていられる。大丈夫。結婚を政の手段にするようになってはいないから。 私は鷹通さんに抱きついた。優しく抱きとめてくれる彼に、それでも悩ませてくれちゃった仕返しをちょっとだけしたくて耳元で言って見る。 「そういえば…私も鷹通さんだけって誓ったけど、覚えてないの?」 「覚えていますよ。」 「左大臣家に行って欲しくないって、じゃあ、私のこと信じていないの?」 「私の場合、あかねを信じていないのではなくて、他の八葉を信じていないだけです。なにしろ、みんな、あかねのことが好きでしたから、そんな中にあかねを置いて横恋慕でもされたら困ってしまいますからね。」 鷹通があんまりにもしれっと言うものだから、かえって私は可笑しくなって笑い出してしまった。 「ああ、ようやく笑ってくれましたね。…さぁ、せっかくここに来たんですから。二人で御花見でもしましょう。」 鷹通の言葉に頭上を見上げると、今年の終わりの桜がはらはらと幸せな二人を包むように花びらをこぼしていた。 END |