私の切望
誤解が解けた翌日に、私は部屋移りをすることになった。 とはいえ、まだ床上げをしたわけではないので、八葉の方々とは別に、隣のお部屋を借りてそこにいる。 神子様は以前のように私の世話を何くれとなくして下さって、その瞬間だけは私だけを見て下さるのだというこの上もない幸せな思いを噛み締めている。 だからついつい、神子様の前では不必要なほど顔が綻んでしまって、自分でも押さえることができない。 昼食は神子様が一人では寂しいだろうからと二人で一緒にとり、食後の「でざーと」と称した甘いお菓子まで頂いて、満足この上ない。 食事の後片付けをしに廊下に出て行く神子様を見送りながら、ほうっとため息をついた。 こんなに幸せを感じるのは生まれて初めてかもしれない。 平重衡、といえば平家、父上である清盛の五男として生まれ、それなりに女性には不自由をしなかった。 歌を詠み、文を贈り、そうして御簾のうちに招き入れてもらうまで、さほどかからず。もちろん、女性と閨を共にすることもあったけれど、それは純粋に愛情からだとかではなく、いうなればはけ口を求めてだとか、政略的な打算によること。 ここまで心動かされる女性にあったことがない。 神子様が何をしても私は心を蕩かされてしまうのだ。 女房達にかしづかれ自らの世話さえせず、瑣末な世界に閉じこもり歌や音曲などの貴族の一般常識以外は何も知らない深層の姫君より、一生懸命に私の世話をして下さり、くるくるよく動く表情を浮かべ、どこにでも出かけて、なんでも吸収しようとする天真爛漫な姫君のほうがどうやら私には得がたいもののようだ。 空々しい歌や文の言葉より、神子様の行動や表情のひとつひとつのほうが私の胸に切なくて暖かいものをもたらしてくれる。 神子様は食器を片付けた代わりに今度は角盥を抱えて戻っていらっしゃる。 「銀、今日はあったかいから体、拭こうね。」 にこにこと、こともなげにおっしゃった言葉に、私は一瞬硬直する。 体を、拭く? それはもしかして神子様が、私の…? 見ると神子様の手には手ぬぐいが、傍らにはほかほかと温かな湯気を立てている角盥。 「み、神子様…?」 「まだ傷が痛むからお風呂は無理でしょう?ね?」 神子様がその可愛らしい、清らかな手で私の体を清めて下さるなんて、考えただけでもなんて幸せな。と、そう思ったとき。 「望美。それは俺がやってやるよ。」 廊下には渋い顔の将臣殿と、替えのお湯を持った敦盛殿。そして薬湯を持ってきたと思われる弁慶様。 「え?いいよ、別に。」 「っていうか、おまえ、男の裸、見る気か?」 そこまで言われて、ようやく自分のしようとしたことの結果を思い至ったのか、神子様は真っ赤になって私を見る。 「ご、ごめん、銀。」 「いえ。お気持ちだけで充分に嬉しゅうございますから。」 ちょっと残念な気もしたけれど、さすがにそこまでは神子様にさせるわけにはいかない。 「えーと、じゃあ、終わるまで席を外しているから。」 「ああ、そうしとけ。」 そうして神子様は恥ずかしそうに俯いたままで部屋から出て行ってしまわれた。 「さて。とりあえず、薬からだな。ほれ、飲め。」 そういって将臣殿はいかにも苦そうな弁慶様の薬を私に差し出す。 内心、しぶしぶながら受け取って、えいやとばかりに一気に飲み干すと、それはいつもよりもずっと苦いような気がする。 「今日は格別に苦い気がします。」 「気のせいでしょう?」 にっこり。弁慶様はそういって私の抗議をあっさりと切り捨てた。 「で。銀は、自分の命までかけて望美さんを守ったわけですし、当然のことながら好意を抱いているわけですね。」 いきなり、弁慶様は何か恐ろしいものの気配を背中に漂わせながら、単刀直入に聞いてくる。 薬を飲んでいる途中ならば明らかに噴出してしまうほど、私は一瞬動揺したが、すぐにそれを立て直す。 「私などの好意など、神子様には御迷惑なだけでございます。」 とりあえずそう繕うが、それに騙される様な方々ではないのは分かっている。 「銀。望美がどうこうっていうより、おまえの気持ちはどうなんだって、聞いているんだ。」 将臣殿のさらに直接的な物言いに、私は逃れることも叶わなくなってしまう。 「…私は…。」 「うん?」 「…お側でお仕えできることが一番の幸せでございます。…この命は神子様に頂いた命。ならば、神子様のお役にたちとうございますから。」 「回りくどいな。…好きか嫌いか。どうなんだ?」 将臣殿のさらに追い討ちをかけるような質問に、とうとう私は白状せざるを得なくなる。 「好き、です。」 「よーし、よく言った。」 にかっと、太陽のように笑う将臣殿に急に服を剥ぎ取られる。 ぎょっとして身を引こうとすると、あまり傷のない背中を勢いよくばんっと叩かれて、暖かい手ぬぐいを背中に当てられた。 「まぁ、あいつ、鈍いけどな。…がんばれよ。」 背中をゆっくりと、傷に影響のないように拭いてくださる。 たとえ今は違うといえども、以前は平家を率いていた御大将にそのようなことをさせてはと、慌てて遠慮しようとするが、がしりとつかまれた肩口と、さらに、細いくせにどこにそんな力があるかと思う弁慶様に押さえつけられ逃げることも叶わない。 「私達の大事な神子ですからね。不幸にしたくはないんです。」 にっこりと、弁慶様が不敵な笑みを零す。 「障害はあるが、諦めないで欲しい。」 普段から口数の少ない敦盛殿の言葉に、はて?と首を傾げる。 障害、といえば、一番はこの将臣殿ではなかったか。 何しろ、幼馴染であるし、気心も知れた、神子様が一番頼りになさっている方。おそらく将臣殿だって神子様を好いておいでのはずなのに。 「…なんだよ。」 呆けた顔で将臣殿を見つめてしまっていたらしい。 「…将臣殿は、神子様のことが…?」 「まぁな。…でも、まぁ、なんだ…。」 そういいながらちらりと将臣殿は弁慶様に視線を移す。それは、助けれくれといわんばかり。 「…きみも、割と意地悪なのですね。…認めたくないのですか?」 「いや、だめなら俺が攫おうかな、と。」 「同感ですね。」 そんなわけの分からないやり取りを二人で交わしたあと、弁慶様はまた恐ろしげな気配を背負ったままにっこりと、おそらく普通の女性が見たならばうっとりとしてしまうような笑顔を浮かべる。 「僕らはカンがいいほうなので、君の好意なんてとっくに分かっていますし、争う気もしませんから。…だけど、他はそうじゃありませんから。」 ごごご、という地響きとともに、何か悪いものを召還しそうな弁慶様の微笑みと言葉に、私は正直言って争う気がないのではなく、争わない気なんてないんじゃないかという予感さえする。 「我等が神子は、三種の神器級くらい得がたい鈍さですからね。せいぜい頑張ることです。」 慌ててこくこくと頷くと、よろしい、とばかりに弁慶様も頷き返してくださった。 ほっとしたところで将臣殿は背中を終えて、ほらよと、手ぬぐいを私に渡してくださる。 「前は、自分がいいだろう?傷もまだ塞いだばかりだしな。」 「ありがとうございます。」 「…適当な時間に望美を片付けに来させるからな。」 「はい。」 そうして御三方は外へと出て行かれる。 他はそうじゃありません、か。 私はほうっと息をつく。 神子様はどなたかを心に決めておいでなのだろうか?もし、他の方の奥方になっても、神子様は変わらずに私をお側に置いて下さるだろうか? いや、それよりも。 私が、他の方の奥方になられた神子様に、私は今までどおりお仕えすることができるのだろうか? 神子様が他の方に微笑みかけるのも、他の方と睦まじくお話されるのも、すべてお側で見ていることができるのだろうか?他の方の腕の中にいる神子様を、見ていることができるのだろうか、祝福することができるのだろうか? ………できない…。 もう、この神子様を愛しく恋しく思う気持ちを止めることなどできない。 私だけを見て欲しい、私だけを気にかけて欲しい、私を、愛して欲しい。 何を引き換えにしても、私は、神子様を、神子様だけを望んでいる。 ならば。 もう、遠慮はしない。 万に一つの可能性でも神子様を、得られることができるのならば。 END |