私の決心

 


鎌倉勢が去ったとはいってもまだまだ平泉は混乱のさなかにあった。
ただでさえ泰衡様に代替わりをし、統治のためのいろいろな事が従来のやり方とはかなり変わってしまったうえに、戦の痕跡がなおも生生しくあちこちに残っている。
平泉にまかれた穢れも払い終えていない。体に穢れを植え付けられた私だけではなく、金子などを貰って命令されたものが小さな穢れを本当にあちこちに際限なく捲いたのだった。
泰衡様は毎日朝早くから夜遅くまで執務をこなしていらっしゃるけれど、余裕などはほとんどなく目の前に起こることを潰すのがようやくである。けれど、常に先の先まで考慮して対応に当たっているのが泰衡様らしくていらっしゃる。
唯一、安心できることといえば政子様に取り憑いていた荼吉尼天を倒したことで、龍神の力を鎌倉に見せつけることができたため、少しの間は頼朝様といえども簡単に手出しをして来れないことであった。
しかし、結局のところ、少しの時間稼ぎにしかならないであろうことは明白で、神子様たちも安穏として高館で過ごしているわけにもいかない。いつまた起こるとも限らない有事のためにも戦の爪痕の残るこの地の復旧を早める手伝いをしなければならない。
そこで各個人ごとにできることをするというように、仕事を決めて平泉のために奔走し始めたのは戦いの直後。
神子様は平泉を丹念に歩き回り、残された穢れをひとつづつ祓い清めていく。ヒノエ様は熊野から資材を取り寄せ、平泉のために用立てていたし(といってもタダではなくきちんと商売をしていたのがとても彼らしいが)、弁慶様はあちこちの村や集落を回ってけが人や病人を見て回り、九郎様と将臣様とリズヴァーン様は平泉軍の訓練に、譲様は訓練で弓矢の指南をしながら同時に高館のいっさいをとりしきる。敦盛様と白龍様、そして私は神子様について穢れを払う毎日だった。
「ふぅ、ここはこれぐらいで大丈夫かな?」
「ああ、龍脈はもう大丈夫だよ。私の中の力がまた強くなった。」
毎日穢れを祓って歩いているとはいえ、まだまだ先は長い。白龍様の姿はまだ小さいままだし、平泉だってかなり広い。
「最初にさ、大きな穢れだけを取り除いたほうが効率いいのかなぁ?」
「そうだね。そうすれば、私の力が大きくなって小さなものは自然と浄化できるようになる。」
それならと、力の戻ってきた白龍様は著しく力のめぐりの悪いところを探してそこに向かうように方針の変更を決める。そのほうが断然に効率も良い。喜ぶ神子様に白龍様が嬉しそうに告げる。
「私の力が元に戻れば神子を元の世界に戻してあげられるよ。」
白龍様のその一言に敦盛様も私もはっとして顔を見合わせる。
「元の…世界…。」
今までいろいろなことがありすぎて、失念していたわけではないけれど、ようやく八葉全員が壇ノ浦を越え、平泉でも生き残ることができたのだから、神子様はもう運命を上書きする必要がないのだということに思い当った。
怪我が回復してから少し経った頃、私は神子様から十六夜の逢瀬の話を伺った。神子様が私を兄上ではないかと思っていたこと、十六夜に私に会った後、私が重衡だということがわかり、なぜか安堵したことなどいろいろな話を伺って私は神子様の神子様であらせられる理由を得心したような気がした。
ご自分を顧みず、仲間のことを思うというのはよくある話ではあるが、その尺があまりにも一般的なそれとかけ離れすぎている。かたや平家の大将、かたや源氏の大将を従え、その背に負うている一切のものを目に入れず、ただの人間として扱うなど、並の人間には到底できはしない。恐れ多くも院でさえ彼らの後ろにあるものを排除してくださいと言われたとしてもどうしたって考えてしまうに違いない。そういう意味で神子様はやはり神子様である。
その神子様の大きな目標が達せられ、いつご自身の気持ちで神子様を降りられてもおかしくない。
「今はまだ駄目だけど、もう少し力が集まればできるよ?」
「そっかぁ…。」
その時には帰りたいとは明言こそしなかったけれど、神子様の表情からはなんとも懐かしそうな笑顔がこぼれていた。

夕食を済ませ、譲殿の手伝いで片付けを済ませると神子様の姿を探した。さきほど既に風呂に入ったとのことだったからどこかにいるはずなのだ。少しの間でも傍らに侍ろうと対の屋にくるとしんみりとした話し声が聞こえてきて思わず足を止める。物陰から気づかれぬようにそっと中を見ると神子様と将臣殿が話している最中であった。
「将臣君はどう思う?帰りたい?帰りたくない?」
「そうだなぁ…。」
盗み聞きは良くないとは思いつつも、内容が内容だけにこのまま立ち去りがたく、そのままじっとしている。
問いかけられた将臣殿は少し考え込むように軽く首をひねる。
おそらく昼間の白龍様の話が神子様の心を動かしているのだろうと想像する。 「心配はないとはいえないがな。鎌倉が引いたのも、もしかしたら一時的なものかもしれない。あっちには景時がいるから少しは抑えてくれるだろうが…。」
「そうね。政子様についていた荼吉尼天は倒したものの、またこちらに攻めてこないとも限らないわね。」
「ああ。そうすると九郎や弁慶の身も危険だしな。」
うなづいたまま神子様は考え込むようにしてうつむいてしまう。
その様子をじっと窺っていた将臣殿はひとつ小さなため息をついて神子様をいとおしむように微笑むとぽんぽんと頭を優しくなでた。
「おまえ、何かまだ心配事があるのか?」
「うーん。」
神子様は不意を突かれて苦笑して、それから肩をすくめる。
「やっぱり将臣君にはばれちゃうなぁ。」
そういいながら苦笑する。
「知盛も助けられたらよかったのに、と思って。」
「ああ…。」
知盛の名前が神子様の口から出て、私は胸をぎゅうっとつかまれたような気持ちになった。神子様は兄上と戦い、そして勝ち、兄上はその身を壇ノ浦に沈めてしまった。時折神子様は私ではなく、兄上のことを見ている気がするのは私の思いすごしではないと思う。もちろん、神子様は私が私であることをご存じだし、私と分かってお傍に置いていただいてるのは分かっているけれど、それでも私は時折、愚かにも兄上に嫉妬してしまう。それほどまでに強烈に神子様の心の中に存在を焼き付けていることに。
「だが、助けたところであいつは喜ばねぇかも知れねぇなぁ。」
「そう、ね。」
「…過ぎたことを悔やんでも仕方ねぇよ。…それとも、まだ何か心配ごとか?」
「あ、ううん…別に、ないよ。」
元気のない神子様に将臣殿が苦笑する。
「気になるんだったら白龍にいろいろと聞いてみりゃいいじゃないか。…おまえはみんなを助けたい、そう思っているんだろ?」
「うん。」
「それにみんなにもいろいろと聞いてみたほうがいいかもしれねぇなぁ。この後のこととか、どうするつもりなのかってこと。」
「そうだね。…ん、そうするよ。」
神子様はそう返事をしてようやくほほ笑まれた。
その笑顔がとてもかわいらしく、そしてとても清浄に思えて私はそのまま声をかけることもかなわず、気づかれぬようにそっと自分の部屋に戻って行った。

神子様がご自分の世界に戻られる。
それは永遠の別れを意味することになる。
十六夜の君と、そう呼んでいたころからお慕いし続け、ようやく侍ることを許されるようになったというのに、とうとう月の世界に戻られるという。
将臣殿の提案により、今日はそのことについて皆に意見を聞くことになった。私は八葉ではないので、部屋の片隅に皆様の邪魔にならないように控えている。
「…というわけでさ、俺達の世界の歴史では九郎と弁慶はここで果てるということになっているんだ。実際にはもうその歴史は違ったものになってしまってるがな。」
「なるほど、興味深い話ですねぇ。」
将臣殿の話に当の本人だというのに、うっすらと微笑んで弁慶殿がいう。もう一人の本人である九郎様の表情は硬い。
「荼吉尼天はいなくなったけれど安心はできないと思う。俺達の世界の歴史では頼朝はここに攻め込んできた。このままお前たちがここに残るとその可能性もあるというわけだ。」
「しかし、ない可能性もあるだろう?」
九郎様が彼にしては珍しく弱弱しく反論するが将臣殿は大きく首を振った。
「…しかし、おまえはこの先どうするつもりだ?このままずっとここのお世話になっているつもりか?法皇を頼むのも難しいと俺は見てるぜ?あいつはおまえを匿ったとしても自分の身の上が危なくなれば平気でお前を鎌倉に差し出すようなことだってするさ。」
その言葉は彼が少し前までは還内府として平家を率い、後白河法皇とも付き合ってきただけに信憑性が高い。
「しかし。お前たちの世界に行って、俺はどうすればいいんだ?」
「そりゃあ自分で決めろよ。何がしたいか。何になりたいのか。俺たちの世界はそういう世界だ。」
将臣殿の言葉に九郎様は弾かれたように顔をあげる。
「おまえにはよっぽどこっちよりもあってるかも知れねぇなぁ。生まれに関係なく、努力すれば自分のしたい仕事ができる。おまえ、源氏を率いるなんていうのは性に合わないだろう?頼朝とやりあうなんざお前の本位じゃないはずだ。」
核心をついた言葉に九郎様の横に座っていた弁慶殿がくすっと笑う。
「僕はかまいませんよ、九郎?」
数多の女性を虜にした笑顔で弁慶殿はほほ笑みかける。
「どうせ九郎と組んだんですから。この世の果てなどという寂しいことは言わず、いっそのこと望美さん達の世界も楽しいかも知れませんね?」
「弁慶…。」
どうやらそれで決心がついたようで、弁慶殿ともども神子様の世界に行くことに決めた。確かに気持ちのいいほどに性根が真直ぐな九郎様にはこの世界に留まったとしても常にその出自ゆえに政争に巻き込まれてしまうことは予想にたやすい。もともとはそういったことの苦手な方だから神子様の世界のほうが幸せなのかもしれないと得心する。
そして、神子さまが戻るとなると当然将臣殿も譲殿も戻ることになる。
「私は鞍馬に戻ろうと思う。」
そう宣言したのはリズヴァーン殿だった。続いて敦盛殿もそれに従うという。敦盛殿に平家に戻るように将臣殿は説得したが、リズヴァーン殿の弟子として修業に励みたいとの言葉だった。
ヒノエ様は熊野を捨てることなど到底できず、それはおそらく本人にとってもかなり寂しいことではあるけれど、熊野に戻ることにした。
朔様はといえば、兄の景時様のもとに戻るという。
今回のことで気丈に振舞われてはいたけれど、色々と気を揉んでいたようで、よく神子様に兄上の悪口をいっていたけれどやはり兄なのだ。景時様の行動が結局は九郎様を思ってのことだったということが判明して以来、朔様はようやく安堵したようで表情も随分と柔らかくなられた。
こうして、神子様がこの時代に迷い込んでからずっと苦楽を共にした八葉の皆様方もこれにて解散ということになる。
「口惜しいが仕方ない…。」
ヒノエ様などは弁慶様が望美の世界に行くということからもひどく残念がっていたが、彼には彼の責任がある。
弁慶様などは何も言わなかったが、それでも甥であるヒノエ様と離れることは寂しいに違いない。私から見ればお二方ともとても仲の良い、叔父と甥という間柄ではあるけれどまるで兄弟のようにも見えたのだから。
みな、自分の進路を公言したことで、いよいよ新しい道へ行く準備をすることになった。ヒノエ様は熊野に戻るため船の整備を始めなければならなかったし、九郎様と弁慶様は住み慣れてきた高館を整理しなければならない。朔様は兄の元に戻るために旅支度をしなければならなかったし、敦盛様とリズヴァーン様はさらに遠い京都に戻るためなおさらの準備が必要になる。
その日から高館は一気に慌ただしくなった。

泰衡様へ定例の報告では神子様たちがそれぞれの進路を決め、それに向かっての準備を始めたことを告げるとなぜか泰衡様はひどく不機嫌そうな顔になる。自分が一瞬無礼を働いたのかと思ったが何も心当たりがない。泰衡様はあれでなかなか神子様を気に入っておられたからお寂しいのかも知れないと思いながらもそのまま御前を退出した。
高館に戻る道すがら、神子様とあとどれぐらい一緒にいられるのか指折り数えて、それが存外短いことに呆然とする。
今日、神子様は他の者を伴って穢れを払いに出かけているが、おそらくこれで龍脈の力はほとんど回復することになると白龍様が仰っていたのを思い出す。穢れを払う方針を変更して以来格段に効率は上り、すでに白龍様は子供の姿ではなく成人の姿に戻っており、使える力もかなり増幅しているらしい。白龍様ご自身が気になる場所は今、ちょうど神子様たちが訪れている場所だけであるという。そこさえ済んでしまえば、明日以降は神子様たちが穢れを払いに出かけずとも、彼自身の力で残った小さな穢れを浄化することができるし、その結果、完全に回復しきった力をもって彼女を元の世界に戻す。
こうして見えることができるのもあと少しのことになってしまった。
長年焦がれて、毎日のように思い続けた人の傍にようやくいることができるようになったのに、すぐに二度と会うこともできなくなる。
それを考えるだけで胸が痛むし、いいようのない絶望感が重くのしかかってくる。
自分の命といっても差し支えないものを失ってどうして生きていられよう。
こんなことならいっそのこと、大櫓で命を失ってしまえばよかったのかもしれない。
そうすれば兄のように神子様の心の中に自分という人間を強く焼き付けられたかも知れない。
しかし、そうではない。死んでしまっては神子様と言葉を交わすことも、美しい笑顔を拝見することも、そして何より、その真直ぐな眼差しで自分を見てもらうことも、鈴のような声で自分の名前を呼んでいただくことも、何もできないではないか。
ずっと傍にいたい。
九郎殿や弁慶殿ののように、神子様の世界についていきたい。
しかし、従者の身でそのようなことを願い出ることもかなわず、何より神子様には何のお言葉もかけていただいていない。
八葉ではない自分は、神子様の傍に侍ることさえ恐れ多いこと。
ましてや神子様の世界に同道させていただくなど、もってのほかとお考えなのではと思いつき、さらに落ち込む。
気安くさせていただいた今までがむしろおかしかったのかも知れない。
泣きそうな気持で神子様を諦めるための言い訳を探し始めていた。

それから数日はまったく心が塞ぎこみ、何事もおぼつかないようになってしまった。
神子様が心配してくださっているので、せめて最後はご心配かけて不愉快な思いなどさせないようにと思うのだが、未熟者故、なかなか上手にそのように振舞えない。他の方はごまかせてもやはり神子様の前だとぼんやりと尊顔を見つめてしまったり、離れたくない一心で心がひどく動揺してしまったりとみっともないところばかりを見せてしまうことになった。
これでは神子様に嫌われてしまうと、しっかりするために冷水で顔を洗ってしゃっきりとし、今日は神子様のお出かけのお伴をしようと神子様の部屋に伺うともうお出かけになってしまわれていた。
「なんでも泰衡殿のところへ伺うといって、もう一刻も前に白龍と将臣殿を伴って出かけてしまいましたわ。」
朔殿に言われて、どれだけ自分が信用されていないか突きつけられたような気がして目の前が真っ暗になってしまった。泰衡様のところに行かれるのに呼ばれないなんて。
きっと自分はもう泰衡様のもとに戻されるに違いない。
ここでは神子様の出立の後、それぞれに館を去るために館の整理が行われている。ついていくことが叶わなくてもあと数日に迫った神子様の出立まではここにいたいと思ったのに、連日の失敗でもう愛想が尽きてしまわれたのかも知れない。
あと何回会うことができるのだろう?神子様がお帰りになってしまわれたら永遠に会えないのだろうか?
今生で二度とあることがかなわぬのなら、せめて生まれ変わった先で。
神子様の世界はこの世界の未来なのだろうか。
私がここで果てても、生まれ変われば神子様に会えるのだろうか。
もし、この世界の未来が神子様の世界に繋がっているのだとしたら、何としてでも生まれ変わって神子様のもとに行きたい。
虫や動物でもいい。神子様のそばにいて、少しでも神子様を喜ばせることができたなら。
それさえもだめだというのなら、実体はなくてもいい。魂だけでも神子様のそばにいたいのに。
神子様は夕方前に戻られて、そのままお風呂を使われてしまう。
ゆっくりと話すこともできないまま、また一日が過ぎてしまった。

翌朝、せめて、散歩のお供にでもと思ったところに、神子様からのお召があって、私は逸る気持ちで神子様の御前に上がる。遠乗りのお供を申しつけられて私は急いで馬の支度をした。
これが最後になるやもしれない。
できるだけ神子様の姿を心に焼きつけようと、密かに決意を固め馬を引き出した。
平泉はもう春といっても差し支えない。白一色だった景色も土の色どころか、柔らかな草の色などが見え始め、木は芽吹き、空の色も雪を降らせる重い鉛色から青空の日が増えた。気温も上がり、吐く息が白くなるようなことも少ない。
神子様は馬を川の傍まで寄せると休憩とばかりに馬にちょろちょろと流れる雪解け水を飲ませている。
「こっちに来てから必要に迫られて乗馬を覚えたんだけど、やっぱり馬ってかわいいよね。」
神子様は馬の首筋を愛おしそうになでながらつぶやく。
「馬はいないのですか?」
「いるけどね、お金持ちの人しか乗らないかな。うちなんて庶民だから全然。」
水を飲み終わった馬を引いて手頃な木につなぐと気持ちよさそうに大きく伸びをした。
平泉が一望できる丘から眺めると、町中の様子もすっかりと春を迎えたのがよくわかる。人々の暮らしている家の屋根の雪はすでになく、田畑の土もみられ、ところどころに何か植わっている。平和な景色そのものに神子様は満足そうにうなづかれた。
「銀は、戻らないの?」
不意に尋ねられて、母や帝の面影を脳裏に浮かべる。
神子様に尋ねられるまでほとんど思い出すことのなかった母。とても大事にされたのに、さほど思い出すこともないなどと知ったら悲しむだろうと思いながら私は首を振る。
「今更戻ることはかないませぬ。」
「どうして?」
「もう私は泰衡様の郎党でございます。」
神子様はうーんと首をかしげた。
「平重衡という男はもうこの世にはおりませぬ。ここにいるのは奥州藤原泰衡様の郎党、銀にございますから。」
そう伝えると、神子様はくすっと笑って私のほうをご覧になる。
「高館に蟄居を命ぜられたのに?」
「蟄居はもう解かれました。…神子様のおそばに侍り、お世話をすることが私の今の命でございます。」
「それは命令だから?」
少し強い口調の神子様の言葉に私は詰まってしまう。私はどうやら神子様のご機嫌を損ねてしまうようなことを言ってしまったらしい。
「命令だからではございません。…私は一度、あのとき、命を失いました。…ここにいるのは神子様に恋い焦がれてそのためだけに蘇った哀れな男でございます。神子様の世話をさせていただけなくなったら私はまたもとの屍になってしまうに違いありません。」
「もうっ、ちゃんと真面目に答えて!」
神子様は声を荒げ私を睨みつけるようにしている。唇をきゅうっと噛みしめてこちらをじっと見つめている瞳にはうっすらと涙さえ見える。
「茶化さないで!…泰衡さんの命令だからここにいるの!?」
泣きそうな、いや半分泣いたような表情で私に食ってかかる神子様はとても可愛らしく、燃えるような瞳に私の困惑した表情が写っている。そんな有様さえ嬉しくなる私はどうかしていると自覚している。
「もちろん真面目に答えているつもりでございます。…むろん、泰衡様のご命令ですが、それ以前に私の希望でもあるのです。」
神子様は朱に染まった顔を背けて少し膨れた表情でうつむく。
「私が帰ってしまったら…銀は…。」
呟くような言葉は、一番私の考えたくないことをおっしゃっていて、思わず耳をふさぎたくなってしまう。しかし、それはあと数日後には訪れる現実なのだ。
「…どういたしましょう、ね。…悲しくて、屍に戻ってしまうかも知れません。」
「嘘よ…銀は、…きっと誰か…きれいな人を…好きになるわ…。」
俯いたままの神子様は震える声でおっしゃるけれど、そんなことは神子様の思いすごしに決まっている。
「神子様以上の方はいらっしゃいませんよ。」
まるで天女のように、きれいな瞳と心の持ち主。この世の中を探しても得難い唯一の人。だけど、神子様はいやいやをするように首を振られる。そのはずみで涙が幾粒もふりまかれる。
「いっぱいいるっ!!もっと、いい人、たくさんっ!…わかってるものっ!こんな子供っぽいから、だからっ!」
神子様はそこまでおっしゃってから不意にぴたりと体を止めた。とたんに足もとにぼろぼろっと涙がこぼれていく。
ああ、まただ。
私はまた神子様を悲しませてしまった。
どうしていつもこうなのだろう。神子様に笑っていただきたいだけなのに。私はどうやっても神子様をいつも悲しませてしまう。
「も、かえろ…。」
神子様は涙声でそれだけをおっしゃって、先ほどつないだ馬のほうに向かわれる。
これで帰ってしまったら、もう二度とゆっくりとお話をすることができないかもしれない。私は焦って神子様の腕をつかむ。
「神子様、お願いでございます…もうしばらくっ…。」
私の行動に驚いたのか、神子様はたちどまって振り返りこちらを凝視している。
「これが神子様とゆっくりとお話ができる最後の機会と心得ております。ですから、もうしばらく…。」
必死の懇願が功を奏したのか、神子様は向き直ってくださった。
「私はまた何か神子様を不愉快にさせてしまったのですね。」
私の問いかけに神子様は首を振る。
「いいえ、神子様はお優しくていらっしゃいますから。…いつも神子様を悲しませるようなことばかりで…。」
「違うよ。…単なる、わがままだもの…。」
「神子様のわがままならば何でも伺いたく、かなえて差し上げたく存じます。」
「だめだよ…。」
神子様はそう言って口をつぐむ。
「神子様のわがままなど、いつもかわいらしいことでございましょう?…欲深き私に比べれば、清らかでおかわいらしくいらっしゃいます。」
「もう、いいよ…。私はそんな大それた人間じゃないもの。…元の世界に戻れば、どこにでもいる普通の女の子なんだよ…。…ばかでわがままで、自分のことしか考えない…。」
そうして神子様はまたぼろぼろと涙をこぼされる。いつも気高く、快活で、笑顔を絶やさない神子様が、こうも自分のことを貶めて、なおかつ嘆かれるなど私とってはとても驚くべきことである。
「神子様…。」
「私、銀の思っているような子じゃない…、自分のことだけしか考えてない。」
「そのようなことはございませんよ。神子様はいつもお優しくて、私は何度神子様のお心に助けられたことでしょう。どうぞそのようなことを…。」
「私ね、銀を捨てて帰るんだよ?」
神子様の言葉に心臓が凍りつきそうになる。
「…自分のために命をかけてまで戦ってくれた人をね、あっさり捨てちゃうの。ひどいでしょ?…ここにこのまま残したら、もしかしたら殺されちゃうかもしれないってわかってるのに、見捨てるんだよ?自分のために、戦ってくれたのにっ!」
ふるふると激情を抑えきれず、小さな肩が揺れている。
ああ、やはり神子様はお優しくていらっしゃった。このような私のことを心配してくださっていた。そのことが今は単純にうれしかった。
「神子様、どうぞ私のことなど打ち捨ててくださいませ。」
「どうしてっ!?」
「神子様の望むようにしたいのです。神子様が死ねとおっしゃるなら喜んで死にましょう。ここに残れとおっしゃるのならその通りにいたします。…神子様の御言葉ですから、たとえ命がなくなったとしてもかまいません。」
「だから、そんな大それた人間じゃないっ…!!」
「大それた人間だとか、そうじゃないとか、私には関係ございませぬ。…神子様がどんな方であられても、私にとってはただ一人の方。私が私の持てるすべてを捧げる方なのです。」
「銀…。」
神子様は恥ずかしそうに耳まで赤くなってしまわれる。そんなところも初々しくかわいらしい。
「…あの、ね…。」
しばらくだまっていらっしゃった神子様がぽつりと言葉をこぼす。
「なんでございましょう…?」
「もし、ね。…私たちの世界に来てって言ったら…銀は…。」
「神子様の世界に、ですか?」
「あっ、ううん、いいの、別になんでもないっ。」
神子様は泣きそうな顔であわてて首も手も振って話をごまかそうとする。でも私は聞き逃さなかった。
「私が、神子様の世界に参ってもよろしいのですか?」
「参っても、って…。」
「神子様は私に何もおっしゃってくださいませんでしたから、私はこのままここで神子様をあきらめなければならぬと思っておりました。もし…もし、神子様の世界にお連れ下さるのでしたら、私は喜んで同道いたします。」
「でも、こことはかなり違う世界だから、絶対に苦労するよ?」
「私には神子様のいないことのほうが大変なことでございます。このまま神子様のおそばに侍ることができるのでしたら、どんな苦労だっていといません。」
「銀…。…ありがとう…。」
神子様はようやく嬉しそうにほほ笑まれた。

あとで将臣殿に聞いたところによると、数日前、将臣殿と白龍殿を伴った神子様は泰衡様のところに私を神子様の世界に連れて行ってもいいか許可を貰いにいったそうだった。
その時の泰衡様の言葉といえば。
「ようやくあのノロケから解放される…。」
とつぶやいていたそうだ。



END

 

index home