私の標識
鎌倉との和平交渉が始まり、まだ完全に平和とは言いがたいが、それでも鎌倉方が攻めてきたときほどの切迫した雰囲気は平泉から去り、寒い日が続くというのに街中は賑やかになってきた。 「譲君、その他に何かあるかな?」 「いいえ、これで全部です。…すいません、先輩。本当は俺が行ければいいんですけれど。」 「遠慮しないで。いっつも食事を作ってくれるんだもの。お買い物ぐらい手伝ってもバチは当たらないって。」 いつもは買出しに出かける将臣殿が、九郎殿の仕事に付き合うことになり買い物に出かける人間がいなくなった。その代わりを神子様がしようというのである。 「本当に申し訳ありません。その代わりといっては何ですが、夕食には蒸しケーキをつけますね?」 「わぁっ!ほんと?楽しみにしてるね?」 「はい。では、お願いします。先輩、誰かに声をかけて一緒に行って貰って下さい。リズ先生は…?」 「先生なら将臣君と一緒に九郎さんについていったよ?」 「ええ?じゃあ、ええと…敦盛さん…?」 「敦盛さんとヒノエ君と弁慶さんは秀衡さんのところで、ついでに言うと白龍と朔は出かけたよ?」 「ええっ!?じゃあ、やっぱり、俺も行きますっ!」 「御心配なく。私が一緒に参りますから、ね?」 神子様の後ろで私がそういうと、譲殿は一瞬だけ顔をしかめ、それでもはい、と頷いた。 「仕方ないですね、…お願いします。」 「はい。命に代えても神子様をお守りいたします。」 「やあね、大げさな。」 そういって神子様は楽しそうに笑って、譲殿に手を振る。 残された譲殿は寂しそうにそれを見送って、それからまた台所へと戻っていった。 「…さて、神子様。川湊の方へ参りましょうか?」 「あ、うん。そうだね。」 神子様はいつものように愛らしい笑顔を浮かべて頷いて、一緒に高館を出る。 「ねぇ、銀。ずっと、ここにいても大丈夫?泰衡さんに怒られたりしない?」 不意に、神子様は思い出したように私に尋ねられる。 「はい、大丈夫です。泰衡様は、こちらに控えているようにとの仰せですから。」 「…あのさ、まだ怒ってるかな?」 「いいえ。神子様の理も御理解なされておいでですし、今は和平のこともございますからいつまでもそのことに拘ってはいられないご様子です。」 「それなら良かった。…でも、忙しいのに、銀をずっと引き止めちゃっていいのかな?泰衡さん、銀のことをとても信頼していたでしょう?」 その言葉に、私は少しだけ驚いてしまった。私が泰衡様に信頼されているなど、自分では考えたこともなかったのだから。 「そうでしょうか?」 「だって、いつだって側に置いていたでしょう?素性も知らないで拾ってきたら普通はそうじゃないでしょう?」 「さようでございますか?」 「こっちの世界ではそうじゃないのかな?…泰衡さんみたいな人は特に、使い物にならない人は側においておかないと思うんだけど。…銀はあんまり自分のこと、わかってないんだね。」 くすくすとおかしそうに、神子様が笑う。 分かっていないのは神子様のほうだ。御自分がどんなに周りの男性を惹きつけて止まないのか全然分かっていらっしゃらない。 だから、私はいつも心配なのだ。 神子様の胸元の首飾りの中でころころと紅水晶がゆれる。ああして、私の腕の中にいつでも閉じ込めておけたらいいのに。 「…きゃぁっ!見て、銀さまよ。」 「本当!この前の戦で怪我を負われたって伺ったけれど、もういいのかしら?」 ふと、街中の女性がそんなことを言っているのを耳に留めた。 私が泰衡様に歯向かったことは、あの場所にいたものだけの秘密になっているらしい。戦で怪我をして、しばらく臥せっていたということに表面上はなっている。 あのときに大社にいたものはみな泰衡様の直近の兵だけなのでその様な口止めもしっかりできているのだろう。 「…一緒に歩いているのは誰?」 「九郎様の連れの一人じゃなくって?」 「ああ、じゃあ、泰衡様の命令で…。」 そんな話をしている女性達の前を通りながら、神子様はそのまま黙って歩く。 先ほどまでの可愛らしい笑顔は消えて、むしろ凍りついたとでも言うような表情が気にかかる。 「…神子様?」 「…早く行かなきゃね。…譲君の食事の支度に間に合わなくなっちゃうから。」 無理やりに微笑んで、神子様は足を速める。譲殿の食事の支度が始まるまでにはもう少し時間がある。なぜ、そんなにお急ぎになられるのだろうかと思いながら、神子様の後を付いて行く。 先ほどの女性達の会話の中の何かが気に入らなかったのだろう。 そういえば先ほど、泰衡様のことを気にしておいでだったから、泰衡様のお名前が出たのがお気に触ったのかもしれない。 「きゃっ!」 あまりにも神子様は急いだせいで、足がもつれて転びそうになる。慌ててそれを支えて差し上げ、ちゃんと立てるように抱き上げる。初めて触れる御体はやはり思ったよりも軽く、そして細かった。 「…ごめんなさい…。」 「いえ、御無事で何よりでございます。急がれるのもよろしいですが、御注意なさってください。折角の綺麗なおみ足に傷でも付いたら大変でございます。」 「……そんなこと、…ない。」 俯いたまま、そう呟いて、こんどは酷く元気をなくしたようにとぼとぼと歩き始めた。 「神子様、お疲れでございますか?」 「…ううん。…なんでもない。」 そうして、やがて川湊につくと、譲殿から頼まれた品物をあちこちの店で買い集め始める。その間中も、何故か元気がなく、店の人とのやり取りが終わるとぼんやりとしてしまう。 「私が荷物を持ちましょう。」 その言葉にうん、とだけ呟いて神子様は荷物を渡してくれた。 でもやはり、表情が冴えない。 一体どうしたのだろうか。 「…私は、また何か不興を買うようなことをしてしまったのでしょうか?」 そう尋ねると、神子様は驚いたように顔を上げ、ぶんぶんと思いっきり首を振る。 「では、どうなさいましたか?」 「つまらないことなの。」 「神子様のことでつまらないことなどございませんよ。」 そんな言葉に顔を真っ赤にして、ふいとそっぽを向いてしまわれた。 ああ、ご機嫌を損ねてしまっただろうかと慌てて声をかけようとしたとき、神子様はぽつりと呟いた。 「銀は、もてるんだなぁって思って。」 は? 私は一瞬、何のことを言われているか分からなくなって、思い切り呆けた返事をしてしまった。 「…私、でございますか?」 「うん。…さっきの人たちも、銀のファンだったし。」 「ふぁん…?」 「あ、えっと、銀のことを好きな人たちのこと。…それに、前だって、銀が訓練しているのを女の子達がきゃあきゃあ言いながら見てた。」 つまらなさそうに、口を少しだけ尖らせて神子様が仰る。 たしかにあちらこちらでいろいろな女性は見かけるけれども。 でも、私の心には誰でもない、神子様お一人だけが住んでいる。 「やっぱり、泰衡さんの命令だから一緒にいてくれるのかなぁって。」 「そんなことありません!」 今度は私が思い切り否定する番だった。 「…私は神子様をお守りしたいが為に、泰衡様に逆らいました。決して命令だからなどではありません。神子様を、神子様だけを大事に思って、お慕いしておりますのに…。」 「…銀?」 急に力説し始めた私に驚いたように神子様が目を丸くしている。 ただ神子様はなんとなく言っただけなのに、それに関して私がこんなに過剰に反応するのはおかしすぎる。そうと分かっているのに、自分でももはや止められない。 それは自分の命と引き換えにしてもいいと思えるほど神子様を愛している自分がいて、その思いをやはりきちんと伝えられていなかったという事実が分かったからだった。 「どうか、神子様。その太刀で私に神子様のものである印をお付けください。そうすれば、私が神子様のものであることが、誰に対してもわかるようになるでしょう。」 「い、いやだよ、銀…。そんなこと…。」 「ですが、私は、神子様の者であることを誰に対しても、もちろん神子様にもわかっていただきたいのです。」 この額にでも消えないような切り傷をつけて欲しい。そうすればそれが神子様の印となるのだから。誰に対しても、神子様に対しても、神子様の持ち物であることが疑いなく分かるのだから。 「私のこの身は神子様への想いだけでここにあるのです。ですから、どうか私を。」 「そんな怖いことしたくない。」 「ならば、どうすれば神子様のものだと…。」 困ったような表情で神子様はきょろきょろと助けを探しておいでだったが、神子様は何かを思いついたらしく、ふわりと微笑んで私に告げる。 「ごめんね、銀。…あのね、ちょっとだけ、嫉妬しちゃったの。」 「嫉妬、ですか?」 意外な告白に私は驚かされる。 「他の人が銀のこと好きなの、ちょっとヤダ。」 「そんなこと…。私には神子様だけが…。」 そういいつつも、神子様がそう思ってくださっただけでとても嬉しい。歪んだ形ではあるけれど、神子様が私のことを好きでいてくださると分かるから。 「だって、他の人には銀の心の中なんてわからないでしょう?」 「では、やはり…。」 「っと、待って。」 神子様は私を押しとどめて首を振る。 「ちゃんと印、あげるから。何日か、待っててね?」 「はい。」 神子様はそういうと、悪戯っぽい笑顔を浮かべた。 「で。おまえは神子殿から忠犬の証の首輪を頂戴したというわけか。」 泰衡様は脇息にもたれてぐったりとしながら私に言う。 「はい。」 私の胸には昨日の昼、神子様から頂いた首飾りが下がっていた。 十六夜を思わせるほんの少しだけ欠けた月は金で、それにかかっている雲が銀でできている。月の部分の金は神子様が先日、御館から頂いた金である。 これを先日私が送った首飾りのお礼と、私が神子様の想い人であると同時に、私が神子様を思っている証拠として首から提げて置くようにとの仰せだった。 「ぬけぬけと…銀の主人はいつから神子殿になったのだ?」 「…私の主人は泰衡様でございます。」 「そんなものを下げて、か?」 「金も泰衡様が主でありながら一番なついているのは九郎様でございます。私も同じだとお思い頂ければよろしいかと。」 泰衡殿ははぁーと重いため息をついてぐったりと脇息にもたれかかる。 「…定例報告を聞きたいのであって、のろけ話を聞きたいわけじゃない。」 「…でも神子様の近況、ですよ?」 神子様の近況をできるだけ詳しく申し上げたつもりなのに、何故か泰衡様は疲労困憊といった風情で脇息も倒れんばかりに寄りかかった。 「もう報告などこないでもいいっ!」 「いいえ、そうは参りません。泰衡様の御命令ですから。では本日の報告はこれで終わりにします。また3日後に。」 「もう来ないでもいいって言うのがわからないのかっ!」 背中で聞こえる泰衡様の叫びを聞きながら、愛しい神子様の待つ高館へ、はやる心を抑えながら帰路に着くのであった。 END |