川和富士


江戸時代、富士山信仰が大流行しましたが、実際の富士山登山は極めて困難だったので

各地に富士塚が築かれた。当時富士山は女人禁制だったので、女性や病弱者でも富士塚

に登り、安産や平癒を願う信仰の対象となっていた。中でも、この地域で最も人々によ

く知られてたのが川和富士と呼ばれていた川和の富士塚である。

もとは、200mほど北側の川和高校裏にあったが、港北ニュータウン建設のため取り

壊され、現在は、2代目の塚が再現されている。川和富士の建造は、1860年幕末か

ら1887年明治にかけておこなわれた。塚があった場所を賀々原といわれたいた。

農家の方が手作業で積み上げ、この作業に携わった人夫は延べ3210人に達した。

この時に海抜86mの頂上にあった浅間大神の碑も村の人々の手により建立され、

現在は、川和八幡神社境内に移されている。