さち子の周りの景色は、歩けば歩くほど変わっていくはずだった。
検査室や手術室、診察室等の名前が書いてあるドアがいくつも出てくる
と彼女は期待していたのだが、やがて異変に気づいた。
<変だなあ。あるいてもあるいても、真っ白な廊下が続くだけじゃない>
随分歩いたけれどずっとこの調子が続くので、流石にさち子も疑問を持
ち始めた。
不意に後ろから足音が聞こえてきたので、さち子は立ち止まって振り返
った。誰かがこちらに歩いてくるのが見える。よく見てみると、30歳前
後位の、白っぽい服を着た女の人だ。その女の人は、さち子に気づくと急
に足早になってさち子に迫って来た。
<私は捕まってしまうのかしら!?>
さち子に気づいて近づいてきたということは、何だか捕まって叱られるよ
うな気が彼女にはしたのだ。
<もっとも今、叱られるようなことをしているのだけれど。確か、お母さ
んに「絶対におそとへ出てはいけません」って、言われてたっけ。
あの女の人に捕まって仕舞ったら、待合室を抜け出したことがばれて
しまうわ。逃げなきゃ!>
さち子は必死で長い長い廊下を走りだした。
程なくして、ようやくだんだんと通路の両側に小窓のついたドアを見か
けるようになった。白い服を着た女の人もさち子の後を追って来ている。
さち子はふと思いついて、とりあえず廊下の右側にあるドアを開けて中に
隠れようとしたのだが、開かない。背伸びして窓から部屋の中を覗こうと
すると、その窓には鉄格子がはめられていることに彼女は気づいた。
(彼女にとってそれは先だってのアウシュビッツの話に出てきた独房を彷
彿とさせ、恐怖にかられるには十分な要素だった!)
部屋の中は狭く薄暗くて、コンクリートで造られた何もない殺風景な空
間の中には、一人の気むずかしそうな顔をした見知らぬおじさんが床にじ
かに座っていた。
「助けて!あたし、追われてるの。ドアを開けて!!」
さち子がいくらドアを激しくたたき、叫んでも、何の反応もない。彼は
ただ部屋の隅に縮こまったまま冷たい壁にもたれかかり、一点をぼうっと
見つめているだけだ。いや、目が開いているだけで、彼の目には何も映っ
ていないのかもしれない。 中年男性の眼には、光がなかった。
さち子がほんの少し、立ち止まっている間に、女の人はさち子に近づき、
やっぱり捕まってしまった。さち子はとても悲しくなった。
<せっかくこの病院を探検しようと思ってたのに!>
さち子は泣きわめいてせめてもの抵抗を計ろうとしたが、何故かその瞬
間、突然彼女の頭の中は空っぽになり、”なんにもかんがえられなく”な
った。
<何であたしはこんな事で悲しまなきゃならないのかしら。よく考えてみ
れば、くだらないことじゃない。>
そう思うとさち子は急に何もかもがどうでも良くなり、ケラケラと笑い
だした。おかしくておかしくて、しょうがないのだ。
<−あれ?ヘンだ、笑いが止まらない。止めようとしているのに、止まら
ない!!>
女の人はしばらくの間、突っ立ったまま笑い続けているさち子を黙って
見ていた。その顔には明らかな苦悩と困惑の表情が浮かんでいた。
やがて同じように白い服を着た、女の人よりも若干年上そうな男の人が
黒い鞄を左手に提げてさち子のところにやってきた。さち子にもそれが分
かったのだが、依然として笑いを抑えることは出来ずにいた。
時間の感覚も判らない。笑うのを止めて、早く逃げなきゃ と思ってい
るのに顔の筋肉が思うように操れない。体が動かない。女の人はさち子の
体を押さえつけ、男の人がその白い腕に注射をした。すると、たちまち彼
女は笑うのを止めておとなしくなった。
−というよりは、今度は廊下の床の上に横たわったまま動かなくなり、さ
ち子は全くの無表情になってしまった。
白い服を着た男の人と女の人は、病院の医師と看護婦だった。彼らのこ
んな会話は、さち子の耳に届いているのだろうか。
「やはり躁鬱病ですわね、この患者さん。部屋に閉じこめて様子を診てい
たけれど、未だ30分も経っていなかったのに・・・・」
「以前診察をしたとき、もしやとは思っていたのだが。ここ数年何故かこ
ういった類の病気が低年齢化しているんだ。彼女にはここが”精神病院”
だということが解っていないようだが、未だ幼いのに、本当に気の毒だ
な・・・・。」
*この小説に関するご意見、ご感想はこちらへ>reiko014@alles.or.jp