−Patient−(患者)前編 (辻川 望)


 さち子はじっとしていた。我ながら、お利口さんだと思っていた。 <だって、こんなに狭くてなんにもない待合室の中で、もうかれこれ3時間は 経っている様なのに、我慢強く診察される番を待っているんだもの。>

 広さでいうと、この待合室は三畳半か四畳くらいだろうか。ようくみてみる とひびが入っていて薄汚れているけれど、一応<白い>壁に囲まれたこの部屋 の中には、ふたり程度座れる古ぼけた弾力のないソファがひとつと、小さな木 のテエブルと、その上に置いてある白ユリの花を一輪生けた青いひょうたんみ たいなかたちの花瓶があるだけ。部屋の隅から隅まで眺め回してもそれだけし か無いのだから、ソファのしみや、テーブルの木目柄や、青い花瓶にちりばめ てある小さな白花模様の一つ一つや、四面の壁から天井にかけてはしっている かすかな亀裂までもくまなく知り尽くしてしまった。

 この待合室に唯一ある真四角な小窓からは、相変わらず見栄えのしない景色 が−ただの住宅街が−覗いているだけで、それでも遠くから聞こえる子供達の 喚声が(近くに幼稚園でもあるのかしら、とさち子は思った)、彼女の耳に適 度な刺激を与えてくれた。もしこれで辺りが全く静まり返り、物音一つしなか ったのならさち子は気が狂いそうになっただろう。

 ともあれ、いつまでもこんなつまらない部屋で待たされているのはさち子と しても嫌だった。いくら辺鄙な田舎の病院だからといっても、これじゃあ退屈 すぎるではないか。


<だって待合室ってゆうのは、ふつう、テレビだとかマンガ本だとかが置いて あるものじゃない?>

 窓から顔を出してみたって、さち子が住んでいる街と違う所と言えば、家と 家の間にちらほらとあおい畑がみえている事くらいで別段変わった様子はない。  夏はもう終わりかけ、秋が近づいているせいかどこかで虫が鳴いているよう だ。

 ついに我慢できなくなったさち子は、思い切ってこの退屈な待合室を出て、 病院の中を探ってみようという気になった。とにかくもうなんでもいいから、 これ以上同じ映像ばかりを目に映しているのは耐え難いと思ったのだ。さち子 は今までソファに腰掛け、ぶらぶらさせていた足で勢い良く地面を蹴り、立ち 上がった。それはまるで幼稚園くらいの子供がするような、何かスバラシイ事 を思いついて嬉しくなった時のさち子の癖だった。

 さち子は鉄製のドアに歩み寄ると待合室のさびたドアノブをまわし、そっと ドアを開けて・・・−みようとしたのだが、開かない。

 さびがノブの根本まできていてなかなか動かないのだ。随分と古びたドアだ ったので、立て付けが悪くなっていたせいもあったのでさち子の脆弱な力では 到底簡単に開くようなものではなかったのだろう。さち子は急に思い出した。 <そういえば、この部屋に入った時はお母さんがドアを開けて、閉めていった っけ。私の力じゃ、開かないんだわ!>

 そう分かった時、突然さち子は、自分はもしかしたら、待合室とは名のみの 独房に入れられているのでは無いかという錯覚に陥った。それというのもつい 数日前、近所の幼なじみの友達から第二次世界大戦中にドイツ軍によって作ら れた、アウシュビッツの強制収容所の話を聞いたからだ。

 さち子より一つ年上で十二歳の「ものしりのあっちゃん」からその話を聞い た事を思い出した瞬間彼女は、まるで五十数年前に虐殺されたユダヤ人達の霊 が自分の体に乗り移ったかのように、急に強い恐怖感と孤独感とに嘖まれた。  矢も盾も堪らなくなったさち子は、渾身の力を籠めてドアに体当たりした。  すると何回かぶつかっている内に少しずつ、軋みながらドアは動き、五回目 にさち子が突進したときにはいきなり全開したので、弾みで二、三歩よろけな がらも廊下に転がり出た。

 やっと一息ついてさち子が顔を上げると、寂れた病院の白い廊下が、窓から 差し込んでいる夕日でオレンヂ色に染まっている光景が彼女の目に飛び込んで きた。つい見とれて仕舞いそうになったが、「病院を探検する」という大事な 用事を思い出してさち子は早速起きあがり、スカートの埃を両手でぱたぱたと 払うと病院の廊下を歩きだした。

 <−後半に続く>



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