1冊の本


「孤島に、1冊だけ本を持っていけるとしたら、何を持っていくか。」

こうした企画を、ときどき新聞やら、雑誌やらで見かける。非現実的な質問ではあるが、本の場合には、こうした質問もよく似合う。本の代わりに、「何を持っていくか」という質問は成り立つけれども、たとえば他のアイテムを入れても、あまりぴんとこない。食べ物であったり、衣服であったりしても、人にとって唯一のというものにはほど遠いのだろうから。本の与える精神的影響力は、やはり実際上もかなりのものがあるように思う。

ところで、私はこの「1冊の本」に密かなあこがれを持っている。1冊の本に、全身全霊を打ち込んで読みふけり、その著者の思想を自分の血肉とする、ということにである。これは私にはかなわぬ夢であるだけに、一種のノスタルジアなのかもしれない。もちろん大量の本が毎日生み出される、現代社会では、これはナンセンス以外の何者でもない。現代文明は本を単なる消耗品にしていっているようだから、1冊の本をたとえばバラバラになるまで何度も読むという事が考えにくい。そしてまた紙の形態の本の衰退と共に、やがてはこうした問いかけ自体がなされなくなるだろう。

しかしそれはさておいてこの「1冊の本」というのは、乱読を旨とする私のようなものには答えにくい。多くの中から、1冊の本を選ぶことが難しいのである。もちろん好きな本はある。もしかしたら、自分の考え方に少しは影響を与えたかな、という本もある。ところがそれを1冊だけに絞ることは、出来ないのだ。

ずっと昔、私が若かったころ、友人のH.I.にかなり長い手紙を書いたことがある。他に何を書いたかは忘れたけれど、その中で、今までに影響を受けた本、とか言うことで、10冊位(だったと思う)の本の感想を書いて出したのだ。そして多分、これらの本はこれからも繰り返し読むのだとか書き送ったはずだ。今考えると、冷や汗ものである。しかしそんな大仰な事を書いたにも関わらず、それらがどんな本だったかをはっきりとは覚えていない。またその中のほとんどの本は、多分2度とはまじめに読んだことがない。

もちろんそこで書いた本は今でも手元にあるし、これから再び手に取ることがあるかもしれない。しかしそれらを再読したとして、あのとき(私は20代半ばだった)持っていた鮮明な印象を受けるだろうか。

読書に対する感動が、年を取ると共に薄くなっていく。私の場合、仕事の必要性もあって法律やらパソコンやらその他の実用的本が多かったからかもしれない。しかしあのときH.I.への手紙の中で書き記した本が、本当に自分に大きな影響を与えたかどうかは疑問としても、それ以来読んだ本の中でそれらよりも大きな印象を受けた本がそんなにないことに気づいて、愕然とする。あれから後、読んだ本の中で私が大きな印象を受けた本がすぐに思い浮かばないのである。少なくとも、あの生意気な手紙を書いたときは、そこで選んだ10冊は私の読書のすべてではなかった。それより多くの何らかの印象の残っている本の中から、あえて選択した、という記憶が残っているから、もっと多くの本を読んでいたはずなのである。そしてそれら残りの本にもそれぞれにもっとvividな感想を持っていたと思う。

年を経る事の寂しさは、楽しみがだんだんと少なくなっていくことだ、と誰かが言っていた。読書に対しても同じ事がいえるのかもしれない。20代半ばより現在までも、読書の習慣はそれなりに続けてきた。だから、あのときの前と後では、後の方が数的には読書量は多いかもしれない。それなりに面白い本も読んだはずなのだが、どうも印象の深さが薄くなってきている感じがするのだ。

あのときの10冊には、何が入っていたのだろう。正確なことは分からないが、多分次のようなものだったはずである。

1. 老子
2. 荘子
3. 菜根談・・・以上3冊はまとめてあげていたかもしれない。当時の私の状況からして結構東洋思想にはのめり込んでいた。
4. ブッダの言葉(原始仏典?)あるいは法華教か浄土3部作か、歎異抄か正法眼蔵随聞録か、とにかく仏教関係もそのうちの1冊は入っていたはずである
5. 伝道の書・・・聖書関係では、多分これで間違いないと思う
6. 背教者ユリアヌス・・・これはその後全体を読み通したことはないけれど、それから長い間あちこちを拾い読みして楽しんだ
7. 柳田国男のどれか・・・柳田国男の全集を読破することを断念したのはいつのことだったろう。
8. 夢野久作の何か・・・ドグラマグラよりも、もう少し短編のに面白いと思ったのが多かった。しかし今彼の作品を読み通す元気があるだろうか。
9. モームの「要約すると」・・・今読んでも、人間は年をとっても、そんなに賢くなるのではないことを思い起こさせる。人生の年輪、という意味が私にはよくは理解できない。昔の人は、年を重ねることで成長していったのだろうか。
10. マルクス「ユダヤ人問題について」・・・多分「経済学哲学草稿」の方ではなかったと思う。この短い論文はドイツ語で暗記するかと、意気込んでは見たが・・・
11. フロイト「精神分析入門」・・・フロイトは最初に読んだこの作品がやはり一番強烈だった。
12. 大塚久雄著作集・・・人間の良心というものを考えた。Max Weberの著作も少しは読んだが、こちらの方が琴線に触れた。
13. シェイクスピアの「お気に召すまま」。あるいは「テンペスト」?シェイクスピアは、学生時代にかなり読んでいた。
14. ルバイヤート・・・新鮮な衝撃を覚えている。しかし英訳のルバイヤートはやはりぴんとこない。なかなかに名訳らしいのだが。

啄木とか一葉とか賢治は入れていなかったと思う。方丈記などの日本の古典は入っていたかもしれない。宇井純の「公害原論」は入れていたかもしれないし、石牟礼道子の著作も入っていたかもしれない。法律・経済関係の本は多分なかったと思うが、もしかしたら何かを入れていたかもしれない。海外文学ではドストエフスキーを入れていなかったか?どちらにせよ、10冊をオーバーしているからここにあげた本の全部が入っていたわけはないのだが。それにしても今思うと雑多な本をよく読んでいたと思う。あの頃から私の移り気な読書傾向はあまり変わらないらしい。

今振り返ってこの1つでも徹底して読んでいたら、よかったかなと思う。これらはいずれもが乱読の対象にすべきような本ではないと思うのだが、私はどうも精読というものが苦手なのだ。手当たり次第に読んでいるし、取捨選択がなされていない。そして何を読むべきかの選択基準が定かでないと思う。人は他人のまねは出来ないから仕方がないし、別に後悔はしていないが、さすがにもう少し体系的に読書した方がよかったかなとはときどき思う。

英語で読んだ本の大部分は、ここには入っていない。モームにしても、新潮文庫版で読んだから。しかしあのとき原書は既に持っていた。Isac AsimovもOrwellも当時は読んでいなかった。Holmesは日本語で、短編はほとんど読んでいたように思うけれども、英語では、手が出なかった。ペンギンの「冒険」と「思い出」は、既に表紙がはがれてはいたけれど気楽に読むと言うよりは、知らない単語を書き込むという感じだったから、楽しんで読むという状態ではなかった。そういえば、大学1年の英語の教科書の1冊がホームズだった。英語でホームズもの全部を読破したのはかなり後になってからになる。児童文学の傑作も、後になってからのことだ。

英語の本は、かなり後になってから集中的に読んだ。数年前に1年間に英語の本100冊読破という目標を決めて、内容が分からないままがむしゃらに読んだ事がある。2年間くらいやってみた。自分でも邪道だとは分かっていたが、どうにかして英語を多量に読んで自己満足を得たかった。冊数をこなすために、易しい本やら、薄い本やら、時には挿し絵がたくさんある本を読みもした。児童文学は、集中的にこの時期に読んだ。読むと言うこと自体が目的だった。しかしとにかく、英語の本は読み通せるという自信は身につけることが出来た。このときも同時並行的に、複数の本を読むということをだいぶんやった。

それとこれを書きながら、気づいたのだが、鎌田慧、本多勝一、沢木耕太郎といったノンフィクション関係の著者の作品も、若いとは言えぬ年になってから、まとめて読んだ。ぼちぼちとは読んでいたけれど。若いときはルポルタージュなどは、あまり読んでいない。

やはり読書傾向は、若いときとはかなり変わってきている。若い頃の思想書・外国文学などには足が遠のいている。英語の小説はかなり読んでいるが、好みが偏っている。

Bestsellerとか、最近人気のある作家にはあまり興味もないのだが、じっくりと腰を押しつけて読む本が少なくなってきている。最近読むのは、面白そうだから読むか、知識を求めて読む、あるいは必要だから読むというものが中心だから、心に響くものが少ないのかもしれない。

昔の人が「論語」を全巻すみからすみまで暗記していて、論語そのものの思想を体得し、実践していたというのはやはりうらやましい。ジイドの作品に、若いときには古今東西の文芸に通じていた女性が、信仰の道に入ってからは、通俗的宗教本(よくは説明できないが、神や聖者の奇跡を描いた子供向けの本みたいなものだったと思う)しか読まなくなるという話がでてくる。主人公の男性は、その女性がかなり教養が深いことを知っているから驚いて、なぜそんな迷信深い本を読むのかとたずねる。彼女は信仰心を持てば、こうした本こそすばらしいのだと答える。

1冊の本を躊躇なく選ぶことの出来る人は、多分そんな人だ。100冊の本を1回ずつ読むのと、1冊の本を100回読むのでは、読書の深みが違う。そうは思うのだが生来の乱読癖は直らない。しかし、将来かつて若いときに読んでそれなりに感銘を受けた本をもう1度読むという楽しみはまだ残っている。そんなにでたらめな本は選んでいないと自分でも思うから、このへんはまだ期待がもてる。

ただよくもこんなに分野・思想の違う本を読んで、精神分裂にならなかったなとは思う。

私にとっての「1冊の本」を、これから見つけることが出来るだろうか。かなわぬ夢だとは思うが、それは現在でもひそかな私の願望なのである。

1997-8-19

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