カマラの日記 (7/20, Asia版)


TIME 7/20 WEB版のASIA版の記事からです。

* Kamala's Tears

多くのネパール人が湾岸諸国に出稼ぎに行っている。待遇はあまり良いとは言 えず、未成年の女性を斡旋することは違法なのだが、それでも抜け道はいくら でもある。1人の少女の日記によって、彼女たちの実状が明らかになった。

Kamala Raiがサウジアラビアに出発したとき、彼女の夢は大きかった。親戚に はいっぱいおみやげを持って、そして洋服店を開くお金を稼いでくるのだ。し かし彼女が帰ってきたときは、担架に縛り付けられ、つじつまのないことを叫 んでいた。彼女がどうしてそうした精神的異常を来したのか誰にも分からなか ったが、真相は思いがけないことで明らかになった。彼女のわずかばかりの荷 物の中に、2冊のノートと何枚かのルーズリーフがあった。そこにはきちんと した字で、か弱い10代の女性がhousemaidとして経験した経験した悲惨さが書 き記されていた。

カマラは、学校の成績は普通だったが、詩に興味を持っていたらしい。引用さ れている文章からも、悲惨な割にはそうした印象をうけます。彼女もアンネ Anneを知っていたのかもしれない。最初の書き出しはこうです。"I, Kamala Rai, am going to tell you of my sorrow," そして"I can no longer separate night from day. I have no one who will help me get out of this hell. I have cried so much that all my tears have finished." 涙も 涸れ果てて、昼と夜の区別も付かなくなった。

TIMEはMany such tears have watered the deserts of Arabia. と言っていま す。ネパール人には出稼ぎとしては、湾岸諸国では人気が出ているらしい。以 前にはインド人やバングラデシュ人の話も読みました。ネパール人は特に安い 労働力として需要があるようです。女性がメイドとして働く場合、なかなか他 のネパール人と連絡をとれないことも多いのでしょう。時には暴力的な雇い主 からいろいろと虐待される。あるいは肌が白いからと言う理由で、売春宿の需 要が高かったりする。

カマラも家に閉じこめられて、唯一の慰めが決して出すことのない手紙を書く ことだったらしい。その中で、現在の苦境と、そこからの脱出を何度も訴えて いる。日記の中でsponsorと彼女が呼んでいるのがおそらく雇い主なのでしょ うが、彼から閉じこめられたり、縛られたりあるいは殺すぞと脅かされていた らしい。日記には書かれていないが、検査の結果強姦された痕跡もある。

サウジに行って、時間が経つとともに彼女の苦しみも深まった。If I were a bird I would fly away, but I have no wings. They never let me leave the house. I have to live with everything they say and do. 彼女は1月 半ばにカトマンズに戻ってきた。少しずつ恨みの言葉を話し始めたが、細かい ことまでもは思い出せない。それに彼女の代わりはいくらでもいる。実際同じ 施設には、カマラが帰国してから出発した女性で、同じような状況で帰国した Durga Regimiがいる。

カマラは山村で叔父から育てられた。叔父は勉強することを励ましたから、彼 女は学校に行けるように、夜明け前に起きて仕事を片づけた。勉強の中では、 特に詩が好きで、shairiと呼ばれるcouplet(2 行連句)を作ったりした。確か に引用されている文章にも、それが見られます。例えばサウジに出発する前に 作った作品の1つ。If I were a flower, I would have blossomed. But I am just a thorn. If I were rich, I would have given you many gifts. But I am just too poor.

1995年にカマラは学校をやめなくてはいけなかった。月謝が0.45ドルから0.53 ドルにあがったからです。さらに家族は持参金を用意できなかったから、意中 の相手との結婚もできなかった。そこでカトマンズに出て、衣服工場で働いて いるときに、労働者を湾岸諸国に斡旋しているブローカーに会った。1000ドル を前借りして、年齢を偽ったパスポートを取得して、契約をしたらしい。10カ 月の待機期間の間に、沿岸諸国に出稼ぎにいく意欲は少しは薄れたらしいが、 預けた金が返ってこないこともあったので、結局去年の10月にvisaが発給され るとともに、Al-Joufに向かった。

最初のうちは、言葉で苦労したものの、家事は機械がしてくれるし、楽しかっ たらしい。やがて、だんだんと不満が高まってきて、そうした悩みをbroken Hindiで書き記すようになる。ただ契約書の内容をカマラが確認していれば、 彼女も出稼ぎに行くことを最初から考えなかったもしれない。内容が雇い主の 側に、圧倒的に有利だからです。

ネパール政府もこうした事例が多いことを憂慮して、一時的に女性の出稼ぎを 禁止したようです。しかし直接湾岸諸国に行くのではなく、インドやバングラ デシュを経由して行く方法が考え出された。今度はインド人の斡旋業者が暗躍 しており、結局数そのものはあまり減らないらしい。カマラを斡旋した業者は 逮捕されたらしいが、裁判はまだ始まっていない。ネパール政府はInterpolを 通じて、彼女の雇い主を逮捕するように言っているようですが、カマラの日記 に書かれていることがすべて本当かどうか、はっきりしないところもあるよう です。彼女は空想力が豊かなようですから、事実と想像がごちゃ混ぜになって いるところもあるのかもしれません。

今後何かを書くのかと問われて、彼女は答える。Never," she says in a moment of angry clarity. "Like my tears, my poetry has also dried up." TIMEは、彼女の中に砂漠が広がっていると結んでいます。多くのネパール人 が、異国でいろいろと苦労していることだけは確かなようです。そのことを感 受性の強い少女の日記が、人々に強く訴えたことも。しかしインド政府が核実 験をしたことで、インド人の出稼ぎ者が減少すれば、ネパール人に対する需要 はさらに大きくなるかもしれません。

多分雇い主にしてみれば、カマラの日記がこんな反響を引き起こすことは考え なかったのでしょう。アンネの場合も、日記が生き残ったのはほんの偶然だっ た。ある人々には一見何の価値もないものが、彼の持っている財産以上の価値 を有する場合がある。カマラの場合はどうなるのかはっきりしないところもあ りますが、このへんは面白いですね。



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