90年式少年の死に方 (10/20)


みなさん、こんにちは。TIMEの記事を続けます。

*A BOY DIES IN THE '90S
NOTHING HUMAN IS FOREIGN? NOTHING FOREIGN IS HUMAN?  CHOOSE ONE
BY LANCE MORROW

ESSAYです。タイトルは、下の方です。これは訳するのが難しいですね。「人 間に関係のあるものは、どんな人にでも起こりうるのか。それとも非人間的な ことは、人間のすることではないのか」どうも、分かったようで分からないよ うな訳ですが、誰かいい訳があったら、どなたかお願いします。

アメリカでは少年が犯罪、特に性犯罪の被害者になる例が続発しているようで す。Massachusetts州Cambridgeで、またもや痛ましい事件が起きた。 JeffreyCurleyという10才の少年が、50ドルと新しい自転車を買ってもらうと いう約束で、2人組の男に誘われた。少年が、男たちと性的関係を持つことを 拒んだとき、その内の1人250ポンドの巨漢、Charles Jaynesが、Jeffereyの上 に馬乗りになりガソリンをしみこませたぼろで窒息死させた。その後、彼は死 体を性的に犯し、その後50ガロンのRubbermaidの容器の中に、死体を入れて、 川の中に投げ込んだ。この2人は2週間前に、逮捕されたのですが、トランクに はNorthAmerican Man-Boy Love Associationの文書があった。

少年の死体が発見されたとき、500人もの人がCambridgeの行動が集まったが、 それらの人々がロープを持って警察署に押し掛けなかったのは、何よりも文明 の進歩のおかげだ。Massachusettsは、死刑を禁じているが、少年の父親は、 犯人の処刑を望んでいると語った。筆者も一時我を忘れて、さらにひどい処 刑、すなわちイスラム式の処刑法がふさわしいと思ったくらいです。当然昔な らその場でつるし首ですか。

こういった種類のニュースはこたえる。ショックとそれに続く、報復的怒り、 それからどうしようもないやりきれなさ。ここでは、New Jerseyの例の少年殺 人事件も取り上げられています。

しかしこうした残虐事件がよく起こりうるということを知って、何故私たちの 心は、さらに怒り狂うのではなくおさまってくるのか。1924年のLeopold-Loeb の事件では、14才の少年Bobby Franksが、ニーチェ的スリルを求めるやり方で 2人組に殺された。犯人のNathan Leopoldは、死刑反対論者の名演説で、無期 懲役になった。そして1958年に釈放され、66才でプエルトリコで死ぬまで、海 岸を散歩していた。ここでもニーチェの名前がでてきた。

こうした犯罪に対してどうすべきか、に関しては私たちの態度は揺れ動いてい る。左脳、つまり理性は、紀元前2世紀の喜劇劇作家Terenceが言った、「人間 的なものすべてに私は無縁ではあり得ない」Nothing human is foreign to me と考える。道徳的に混乱し、受動的に受けとめ、悪徳や気味悪さを寛容さを持 って受け入れる。

これに対し右脳、つまり本能は、「こうした犯罪を犯すものは、人間がするこ とではない」Nothing foreign is human to meと考える。これはより人間の本 性に根ざしたものといえる。健康的な性格というのは、その原始的な形では、 ファシスト的傾向を帯びるし、異種物を排除しようとする。だからCambridge の殺人や死姦の類は、健康体が病原菌を排除するように、受け付けようとはし ない。そうしたことを認めることは弱さの現れであり、社会の防衛本能のたが がゆるんでいることの証だ。

もちろんこれはある意味では正しい。しかしそれはリンチを求める暴徒の論理 でもある。暴徒は精神病医や、神学者や法律家の意見は聞かない。一方文明人 は、そうした暴徒・精神病医・神学者・法律家の、意見を聞くから、混乱して しまう。

神学者も、精神病学者も、そして法律学者もそれぞれの立場から、事件をいろ いろ説明してくれる。私たちはそれを聞いてついにはその考え方を受け入れ る。おそらくそうしたことから、私たちは何か新しいことを学んだのだろう。 だが、知識そのものが、なんらか汚染されているということはあり得る。

YUKI



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