スターリンに人生を奪われた人々(6/28)


*Stalin's forgotten prisoners by Mark Franchetti Vorkuta

スターリン時代に収容所送りになった人々が、今でも極寒の地でふるさとを夢 見ながら暮らしているということです。といっても、刑期はとっくに終えてい るのだが、ふるさとに帰れないわけです。ロシアは言論・経済の自由は保証さ れるようになったのでしょうが、実質的に移住・居住の自由が制限されてい るのですね。

この種の記事はソ連崩壊後、あまりTIMEやNewsweekには載らないような気がし ます。中国関係だったら載るが、民主国家になったロシアの、特に過去に体制 から虐げられた一部の人たちの声はなかなか読めない。Sunday Timesはこうし た記事をよく載せます。

今気づきましたが結構長い記事です。ただ読んでいるときにはあまり長さを感 じさせませんでした。それぞれの人生を具体的に書いており、あまり一般的・ 抽象的なことを書いていないからでしょうか。

スターリン独裁のもと、反共産主義活動の罪で10年間の収容所送りになった Pavel Negretovは、その苦しい囚人生活の間、自由になる日を夢見て過ごし た。10年の刑期を終わっても自分はまだ若い。故郷のモスクワに帰って、この 恐ろしい収容所生活を忘れて新しくやり直すのだ。

しかし彼の夢は実現しなかった。刑期が延ばされたからではない。モスクワに 帰ることが出来なかったからである。このへんは日本にいるとなかなか理解で きないところもあるのですが、まずは彼が10年を過ごした極北の地Vorkutaの 描写から。ここは北極圏にある町で、あちこちの記述から総合すると、ツンド ラにおおわれ、10カ月は冬で、零下40゜になることも普通のようです。何週間 も続けて完全に真っ暗な日が続く。地図で調べると、北緯68゜近くです。かつ て人は住んでいなかった。それがこの凍土の下で石炭が発見されることで一変 した。

ソルジェニツィンが「収容所列島」で描いた収容所はいずれもVorkutaのよう なところにあった。1934年から1954年にかけてVorkutaの80の炭坑に約200万人 が送られた。軽犯罪者、政治犯、その他のいろいろな名目のもとに送り込まれ た人たち。おそらくソ連政府がもっとも欲したものは囚人という名の奴隷だっ たのでしょう。最初に割り当てがあって、その人数あわせのためなら誰でもよ かったのだと思います。モスクワから100マイル北の無人の地に最初に収容所 が作られたのが1931年。家畜用の列車で送り込まれた彼らは、次にはしけに移 され、最後の50マイルは歩いていった。6カ月もかけてその場所にたどり着い たとき、数千人は犠牲になっていた。多分他の収容所建設も同じだったはずで す。

そして収容所が完成しても、過酷な奴隷労働が待っていた。囚人たちは寒さの あまり、2人1組で抱き合って寝た。1枚のジャケットをマットレスにして、も う1人のジャケットを毛布代わりにした。長靴は盗まれる恐れがあるから枕に した。ズボンは足の部分が凍傷にならないように、ずりおろしたまま寝た。食 事も医薬品も、暖をとるものも不足していたでしょうから、読んでいるだけ で、よくぞ生き延びたという感じがします。

だからNegretovや生き延びた他の囚人たちにとって、Vorkutaの地は一刻も離 れたい場所のはずです。政治犯の多くが今なお故郷に帰る順番を待っている。 他の収容所でも事情は同じ。それが出来ない。どうしてか。ロシアでは propiska、居住許可証がなければふるさとには戻れない。そしてpropiskaを得 るためには、戻りたい都市にflat[アパート]を持っていなければならない。し かし元囚人たちは、収容所送りになった段階でアパートの権利を没収されてい る。もちろん裕福であれば、個人的にアパートを買う方法も現代のロシアには ある。しかし彼らの多くは貧乏だ。そうした許可証がないまま移動すれば、法 的労働権もないし、健康保険を含めた諸給付を受ける資格がない。

Negretovは1946年にウクライナで反共産主義グループに協力した疑いで逮捕さ れてから52年間、モスクワに帰るという夢を果たせずVorkutaの町で過ごして きた。囚人でなくなってからの彼の仕事は書いていませんが、多分同じ炭坑の 仕事だったのかもしれません。その間囚人たちは毎日飢えと寒さで死んでいっ た。処刑されたものもいれば、炭坑の事故で死んだものもいる。Vorkutaは現 在18万人の大きな都市です。墓地が7つあるようですが、墓標に名前はなく数 字が書かれているだけ。いわば全体が骨の上に建設された町というわけです。

ソ連が崩壊し、エリツィンのロシアになっても事情は変わらない。こうした犠 牲者の資料を集めていたのが、あのサハロフ博士。現在妻のナターリアが Memorialの運動を引き継いでいますが、こうした収容所の犠牲者たちを移住さ せる運動も進めているようです。ところが運良く移住できても彼らに選択権は なく、水道や暖房の無い地に移住させられ、失望してVorkutaの町に戻ってく る人もいる。

普通のロシア市民はこうしたもと囚人には冷淡なようです。1953年、スターリ ンの死で、数百万の囚人が釈放されたとき、ほとんどの家族がKGBを恐れて引 き取らなかった。記事で紹介されている元囚人に女性のLyubov Kalashnikova がいます。彼女には当時モスクワに兄(弟)が1人、姉(妹)が1人いた。釈放の時 彼らとは10年間会っていなかったが、誰も彼女を迎え入れようとはしなかっ た。この人は勇敢なソ連兵士だったようですが、ドイツ兵の待ち伏せにあった とき、生き残ったことで反逆罪に問われた。自害しないで捕虜になったかもし れない危険を犯したという理由のようです。

自由の身になって、それから15年間も、毎年1回46時間も汽車に乗ってモスク ワに行き居住許可証を申請したが無駄だった。現在78才のKalashnikovaは、ほ とんど歩くこともできず、障害を持つ娘とVorkutaの小さなアパートに住んで いる。そんな彼女にエリツィンは毎年第2次世界大戦の終結記念日には、退役 軍人たちの功績をたたえるメッセージを送ってくる。

そんな彼女の言葉。「私はVorkutaが嫌い。ここは死の町よ。私はここに私の 人生も、運命も、幸せもすべて埋めてしまった。ふるさとのモスクワに帰って 死ぬことだけが私の夢だった。ここで私の人生がただ過ぎ去り、抹殺され、跡 形もなく消えていくことは、本当に苦しかった。ロシアは私たちのことをすっ かり忘れてしまった。」

こうしたVorkutaの町にも新しい世代は育っていると思うのですが、ほとんど の人生を無駄だったと考える人たちが今なお多くいるはずです。



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